第8話 早朝の電話

 何かが揺れているような気がする。地震ではないようだし、船に乗っているわけでもない。この小刻みな振動は何だろう。

 

 ハッとして目を覚ますと、すぐ隣に冷蔵庫の扉があった。一瞬、状況がつかめずに戸惑ったが、すぐに記憶が蘇ってくる。昨日は真由ちゃんを和室で寝かせて、俺は廊下で寝たんだった。そして、振動しているのは俺のスマホだ。

 画面には、同じ職場の水村主任の名前があった。


「もしもし、遠山です。今日が月曜日ってことはないですよね」

「はは、大丈夫。今日は日曜日で遅刻じゃないから安心しろ。……それより、朝早くから電話して悪かったな」

「いえ、無駄に惰眠を貪らずにすんでよかったですよ。何かあったのですか?」

「うーん、ちょっとな。……なあ、遠山は今日、予定は何かあるのか?」


 水村主任の声が真面目な響きを帯びたので、俺は思わず床に正座した。


「遺憾ながら、男一人でだらだらする以外に何もありませんよ。何かトラブルでしたら手伝いますけれど」

「ふうむ、すまんな。金曜に改修したシステムのことで気になることがあってな。……都合が良ければ、手伝ってほしいんだ。予定があれば、それを優先してくれ」

「予定はないですから……」

 

 俺が答えようとしたとき、廊下の奥の扉がそっと開いた。真由ちゃんが、心配そうにこちらをのぞき見ている。これは、ちょうどいいかもしれない。


「うん? どうした、何かあったのか」

「いえ、何でもないです。……アパートでごろごろしているぐらいなら、先輩の手伝いをした方が、自分にとっても会社的にも有意義ってものですよ。ええと、何時に行けばいいですか?」

「休日に無茶を言っているわけだから、都合のいい時間でいいぞ。……すまんな」

「いえいえ、先輩にはお世話になってますから。身支度を済ませたら行きますね」

「ああ、すまないがよろしく頼む」


 スマホでの通話を終えると、真由ちゃんが心配そうな表情でこちらにやってきた。顔色は昨日よりは良くなったようだが、まだ青白く見える。


「ちょっと会社でトラブルがあったみたいだから、これから行ってくるよ」

「そうなんですか。お休みの日なのに大変ですね。ええと、では、わたしはこのあたりで……」

「真由ちゃんって、今日は何か予定があるの?」

「いえ、特になにもありません。あっ、お勉強ぐらいですね。ぐらい、って言ったら駄目ですけれど」


 さきほどの水村主任と俺の会話を繰り返しているようで、少しおかしな気分になる。


「じゃあさ、俺の部屋でエアコンを使ってゆっくりしてたらどう? 休むにしても勉強するにしても、涼しい方がはかどると思うよ」

「い、いえ、昨日お世話になった上で、さらにご厚意に甘えるなんて申し訳ないです」


 真由ちゃんは、慌てた様子で首をふった。だが、彼女のこの反応は予想どおりである。俺は、昨日の教訓から彼女の扱い方を学んでいるのだ。


「うーん、実はお願いがあってね。この部屋を使ってもらうかわりに頼もうと思ってたんだけど」

「なんでしょう? お世話になりましたし、何でも言ってください」


 真由ちゃんは、やる気を示すかのように小さなこぶしをぐっと握った。俺は彼女の反応を微笑ましく思いながら、頭を働かせる。


「この前、通販サイトで衝動買いをしちゃったんだよ。そのとき、配達希望時間をなるべく早くにして、指定しなかったんだよね」

「つまり、それが今日あたりに届きそうだということですね」


 俺の作り話に、真由ちゃんはやる気をみせている。


「そうそう。でも、今日は出勤することになっちゃったから、受け取ってくれるとありがたいかなって。この暑い中、配達の人に何度も来てもらったら悪いし。代わりといったら何だけど、エアコンを自由に使ってくれていいから」

「わかりました。そういうことでしたら、きっちりとお留守番させていただきますね」

 

 予想通りの展開に頬が緩みそうになるが、なんとか引き締める。真由ちゃんは、単にお世話になるという状況に引け目を感じていたようだ。だから、こちらからのお願いとセットで提案してみたのだ。


「とは言っても、用事があったらそっちを優先してね。どうしても受け取らなきゃいけないものじゃないし」


 配達が来るまでは一歩も部屋から出ない、と言わんばかりの真由ちゃんに念のため言っておく。なにしろ、注文などしていないのだから。


「ええと、お買い物とわたしの部屋に戻るくらいでしょうか。短時間なら配達員さんが不在連絡票を残してくれると思いますから、大丈夫ですね。あっ、配達員さんから遠山さんに電話があるかもしれませんから、連絡先を交換しておきませんか」

「そうだね。何か困ったことがあったときにも、連絡ができるから」


 お互いにスマホを取り出して、連絡先を教え合う。なかなか新鮮な感覚である。


「よし、これで安心だね。何かあったら、連絡してくれればいいから。ええと、配達以外に来客の予定はないから、誰か来ても応対しなくていいよ。どうせセールスだろうし、下手をすると……」

「遠山さんの、社会的地位と名誉を守らなくちゃいけないってことですよね。大丈夫です。出入りは誰にも見られないようにしますから」


 真由ちゃんは真剣な表情で、コクコクとうなずいてみせた。理解が早くて助かる。

 独身男性が一人だけで住んでいるはずの部屋から、女子高生が応対に出てきたら事件そのものである。配達員は来ないのだが、他の住人に誤解されると厄介だ。


「じゃあ、俺は着替えるから……」

「あっ、わたしも一度部屋に戻って着替えて準備を整えてきますね」


 真由ちゃんは、ドアスコープで慎重に外を確認すると、さっと部屋を出ていった。




「お仕事がんばってください。いってらっしゃい」

「うん、真由ちゃんはゆっくりしててね」


 俺は、普段着に着替えた真由ちゃんに見送られてアパートをあとにした。見送ってくれる人が居るというのはいいものだ。お世話になった先輩のためとはいえ、本来は気乗りがしない休日出勤もどこか楽しく感じられる。

 だが、力強くアパートの外に踏み出したところで、真夏の日差しに怯んでしまうのであった。



 駅前は閑散とした光景が広がっていた。

 ここは、そこそこ大きな地方都市だから本来は人で賑わっているはずである。だが、春から流行し始めた新型コロナウイルスのせいで人はまばらにしかいない。街はきれいに掃除され、いくつか営業している店もあるのに、人だけが少ないというのは、開店前のテーマーパークのような不思議な光景だ。


 俺が勤める会社も、リモートワークや時差出勤などを試みているが勤務体制がなかなか安定しない。早いうちにウイルスの流行がおさまってくれると良いのだが。

 額の汗を拭いつつ歩いているうちに、会社に到着した。

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