第3話 隣室の女子高生
「じゃあ、せめてお母さんが帰ってくるまでは、ここで休んでいたらどう?」
俺は、ふらつきながら自室にもどろうとする真由ちゃんに提案してみた。なんにせよ、母親が一緒ならば安心だ。
「その……お母さ……母は、しばらく戻ってこないんです。だから、長居するわけには……」
「ん? たしかパートだっけ。遅くなるといっても、いつも夕食頃には戻ってきているイメージだったけど」
なんだろう。妙に歯切れの悪い言い方のような気がする。
もしかすると、母親がどうというより、男性の部屋で居ることに居心地の悪さを感じているのかもしれない。俺としてちょっとショックだが、女の子の立場からすると色々と切実な問題があるだろう。しかも、助けてもらったという事情があるから、失礼なことは言えないと考えているのかもしれない。
「そうだ。俺がエアコンをみてきてあげるよ。お母さんだって、帰ってきて暑いままだったら困るだろうし。それに、エアコンが直れば、真由ちゃんも安心して休めるもんね」
「えっ?、あっ、それは……」
俺は、何か言いかけた彼女を制して立ち上がった。ここは強引にいかせてもらおう。
「ここに、氷水とタオルを置いておくから自由に使ってね。ええっと、タオルってしっかり絞った方がいんだっけ、それともある程度は湿り気があったほうがいいのかな」
「あっ、それは自分でやりますから。その、すいませ……いえっ、ありがとうございます」
真由ちゃんは、慌てながら姿勢を正すとペコリと頭を下げた。礼儀正しくて良い子じゃないか。しかも、その……可愛いし。
俺は、恐縮する彼女にスポーツドリンクを押し付けると、素早く部屋を後にした。
再び足を踏み入れた成瀬家の居間は、うんざりするような暑さだった。西日が入ってきているのに加えて、今年の夏はかなりの猛暑という理由もある。確か、高気圧の勢力が強くて、台風がまだ一度もきていなかったんじゃないかと思う。
俺は、床に転がっていた真由ちゃんの学生鞄と巾着袋を拾い上げた。しっかりした感じの彼女が、こんな風に散らかしていたのはよほど苦しかったのではないだろうか。部屋の扉を閉める手間も惜しんで中に入り、真っ先にエアコンをつけようとしたのだけれど、故障しているのか動かない。暑い部屋で悪戦苦闘しているうちに倒れてしまったのだろう。
「なんにせよ、部屋を確認してみて正解だったな。むしろ、買い物から帰った時点で、気づけばよかったんだが」
カーペットの上で倒れていた真由ちゃんのことを思い出す。あのとき彼女は、幼い子のように弱々しく「暑いよう」とうわごとのように繰り返していた。しっかりとした話し方をする彼女が、あんな様子をみせるなんて。俺は、なんだか胸の奥が苦しくなった。
「……さて、せめて頼れる隣のお兄さんってところを見せないとな」
俺は気持ちを切り替えて、エアコンに向かうことにした。
しかし、意気込みとは裏腹に、エアコンは動いてくれなかった。電源は入るのだが、いくら待っても風を送ってこない。フィルターや室外機を確認してみたが、異常はない。きちんと掃除されているようである。エアコン本体のスイッチを操作してみたが、リセットも効果がなかった。
ならばマニュアルを確認しようと思ったのだが、目につくような場所にはないようだ。他人の家を探し回るわけにもいかず、スマホで調べたが、古い型のエアコンらしく情報がでてこない。気がつけば、スマホを操作する指も汗でベトベトになっている。
やむを得ず自室へと撤退することにした。これは、真由ちゃんの母親が帰ってきたら修理業者を呼ぶように言った方がよいだろう。素人には手に負えそうにない。
和室の扉をそっと開けると、真由ちゃんは気持ち良さそうに眠っていた。起こさないように近づいて、おでこにのせているタオルを氷水で冷やしてあげることにする。
近くで見る彼女は、とても可愛らしかった。肩までの黒髪に、整った顔立ち。なんと表現すればいいのだろう。余計な装飾はなく素材が良いというのか、シンプルで自然な美しさと言えばいいのだろうか。思わず見とれそうになったが、慌ててタオルを絞る作業に集中した。眠っている女子高生の顔をじっと見つめるなど、はっきり言って変態である。俺は余計なことを考えるのはやめ、そっとタオルを彼女のおでこにのせた。
音を立てないように部屋を出た俺は、しばし思案にふけった。
これからどうしようか。俺の住んでいる部屋は単身者向けの1Kである。玄関の扉を開ければ狭い廊下があり、右側がキッチン、左側がバスとトイレ、正面が6畳の和室という必要最低限の構成だ。真由ちゃんが和室で休んでいるので、俺の居場所がない。
どこかに出かけようかと思ったが、彼女が目を覚ましたときのことを考えると、ここに居た方が良いだろう。あれこれ考えた末、俺は廊下に座ってスマホをいじって時間を潰すことにした。まあ、今日はだらだらと過ごすつもりだったから、結果的には大差がないといえる。むしろ、人助けした分だけ有益といえるかもしれない。
スマホのゲームをプレイしながらも、頭のどこかで隣の部屋で寝ている真由ちゃんのことが意識にあった。彼女と言葉を交わしたことは、それほどない。アパートの廊下で会ったときに、挨拶するぐらいだっただろうか。いや、一度、アパートの外でも出会ったことがあった。
あれは、5月頃のことだろうか。休日にスーパーへ出かける際、道から少し逸れた草むらに、真由ちゃんがしゃがみこんでいるのを見つけた。近くには自転車が立ててあって、何やら作業をしているらしかった。俺が近づくと、彼女は自転車を隠すように立ち上がると、ペコリとお辞儀をしたのを覚えている。
「こっ、こんにちは」
「どうしたの? もしかして自転車の調子が悪いのかな」
「あっ、いえ、なんでもないんですっ。ちょっと……点検してただけですから」
真由ちゃんは慌てた様子で言うと、ブンブンと手を振った。おそらく、俺に気を使わせまいとしているのだろう。自転車を眺めてみると、チェーンの部分に植物のつるがからまっていた。
「なるほど、つるを巻き込んで動かなくなっちゃったんだね」
「あっ、はい。……実はそうなんです。前から来た人を避けようとして、道から外れてしまって」
「そっか、ちょっとみてあげるよ。これぐらいなら直せると思う」
俺は何か言いかけた彼女を制して、自転車のそばにかがみ込む。
「小さいときに、よくやったんだよね。まあ、俺の場合は、かっこつけて草むらを突っ切ろうとしてだけど」
ペダルに手をかけて、つるをゆっくりと引っ張ってみる。強引なやり方だが、大抵の場合はこれでうまくいったはず。思い切って力を入れると、ズルッとつるが抜け、キュルキュルとチェーンが回転した。
「わあっ、すごいですね。……あの、ありがとうございます」
「このぐらい、どうってことないさ。ただ、帰ったら念のためにお父さんとかに見てもらった方がいいかもね」
「あっ、手が泥で汚れてます。すいません、これを使って下さい」
「いやいや、そんな綺麗なハンカチを使うのはもったいないよ。どこか、適当なところで洗うから」
「で、でも……」
真由ちゃんは、なおもハンカチを差し出そうとするので、俺は素早くその場をあとにした。彼女はおろおろとしていたが、ぺこりと頭を下げてお礼を言ってくれた。
礼儀正しくて、いい子だな、と好印象を抱いたのを覚えている。
スマホの画面を眺めながらぼんやりとしていると、和室の扉がゆっくりと開き、さっきまで思い出していた真由ちゃん本人が、遠慮がちに顔をのぞかせた。顔色は良くなったが、まだ万全ではない感じだ。
「すいません。ずいぶんと、長いあいだ寝てしまって」
「そんなの気にしなくて、いいよ。それだけ、身体が休息を欲していたわけだし。ええと、今は何時だろ」
スマホで時刻を確認すると、そろそろ夕食が食べたくなる時間帯である。いつの間にか、結構な時間が経っていたようだ。
「あれ? お母さんが帰ってきた気配がないね。確かパートにでてるだっけ。いつも夕方には帰ってきている気がしてたんだけど」
「あの、おかあさ……母は、しばらくは、その……」
どうも、真由ちゃんの歯切れが悪い。前に聞いたときも、そんな感じだったが。
「お母さんは遅くなるの? まあ、帰ってくるまでは、ここで涼んでいればいいさ。エアコンは直せなかったけど、お母さんがいれば安心だからね」
「ええと、その……」
彼女はしばらく口ごもっていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「母は、実家に戻っているんです。ですから、しばらく……数日は帰ってこないんです」
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