第26話 芳江さんと百貨店
何故か芳江さんを車に乗せて買い物に行くことになってしまった。まあ、こういう予定外の出来事というのも楽しいものである。新型コロナウイルスのせいか、日曜日の午前中にかかわらず交通量は少なめだ。
「芳江さん、近くのスーパーでいいんですか? 他に行きたいところがあれば言ってくださいね」
「あれ、ありがたい。なら久々に百貨店に行きたいんだけど、大丈夫かねえ」
「問題ないですよ。道もわかりやすいですからね」
いつも買い物している近場のスーパーを通り越し、進路を百貨店に向けた。大きな道路に入れば、少々時間はかかるが一直線である。
リラックスしてきたのか、助手席の芳江さんはいつものようにしゃべりだした。政府の感染対策、近所のうわさ、国際情勢、旦那さんへの不満などが同じようなレベルで語られる。ひとしきり語ったあと、彼女は急に声を大きくした。
「ああ、忘れとった。真由ちゃんの家の話は知ってるかねえ」
「昨日、母娘で挨拶に来ましたよ。祖母の件で、しばらく実家で過ごすことになったとか」
「そうそう、それよ。久々に車が帰ってきたから、思わず話を聞きに言ったのよ。旦那は、余計なことに首をつっこむなって渋い顔をしてたけど、同じアパートだからねえ。何かあったら放っておくわけには……ああっ」
不意に、芳江さんが驚いたような声を上げた。俺は、素早く前方とバックミラーを確認したが車間距離は十分で事故につながりそうな物はない。
「どうしました? 危なくはなかったと思いますが」
「すまないねえ、遠山君の運転は見事さね。だけど、あんたに抹茶プリンの礼を言うのを、すっかり忘れとったのを思い出したのよ。真由ちゃんが持ってきたんだけど、元々はあんたにもらった物だと言ってたのにねえ」
「ああ、駅前の店で買ったプリンですね」
「はて? 真由ちゃんは、遠山君が取引先からもらった物だと言うとったが。婆さんの勘違いだったかねえ」
しまった、自分で考えた設定なのにうっかりしていた。まあ、疑われることはないが弁明しておいた方が良いだろう。
「すいません、言い方が紛らわしかったですね。駅前の有名な店で売っていたプリンを、取引先の人がくれたんですよ。食べきれなかったのでお隣に持っていったのです」
「はあ、そういうことかね。この歳になって、物忘れって言うとヒヤッとするのよ。物の名前が出てこないとか、予定を忘れるとか怖いねえ」
幸いなことに、芳江さんは特に不審に思うことはなかったようだ。真由ちゃんとの同居は、過去の話になったとはいえ気をつけないと。
「エアコンの調子が悪いって言ってたけど、大丈夫だったのかねえ。……あの子、我慢強いというかしんどくても表に出さない感じだからね」
「そうですね。礼儀正しいんですけれど、他人に頼るのに慣れてない感じがしましたね」
「そう、それさね。あの子が独りで言いたいことも言えずに我慢してると思ったら、なんだか不憫でねえ。母親が帰ってきたときに、あれこれ言ってしまったよ。……余計だったかねえ」
「そんなことはないんじゃないですか、俺も真由ちゃんが独りで居るのは気になってましたし、母親も気にしてたみたいですから」
こっそりと同居していた俺としては複雑な気持ちではあるが、話を合わせておく。高校3年生とはいえ、女の子が独りでずっと留守番をしているというのは、周囲からすれば心配して当然だろう。
「そういえば、成瀬さんの一家って何年か前に引っ越してきたそうですが、芳江さんはご存知ですか?」
「そりゃあ、知ってるさね。あれは、いつだったかねえ、そんなに昔でもなかったね」
せっかくなので成瀬家の事情をたずねてみることにする。エアコンについて調べたとき、真由ちゃんは小学校のときに引っ越してきたと言っていたはずだ。
「何年前だったかねえ、あの子は小学生だったから大きくなったもんだねえ。確か、父親の勤めてた会社がうまくいかなくて、こっちで働くことになったとか言ってた気がするね」
「景気が悪いですからね。というか、景気が良かったのがすごい昔に感じますよ」
「そうさねえ、うちの旦那は時代が良くてうまいこと勤め上げたけれど、成瀬さんところは苦労してたみたいだねえ。なんでも、実家の近くで親戚が会社をやっていて、そこの手伝いに誘われてたみたいなんだよ。けれどね、親戚と折り合いが悪かったのか旦那さんの意地かで、こっちで働くことにしたとか聞いたね」
真由ちゃんの父親については、あまり姿を見たことがなかった。忙しそうにしているとは思っていたが、そんな事情があったのか。
「意地っていうと、親戚に頼りたくないとかですかね。自分の力で家族を養ってみせるとか」
「はっきりしたことはわからないけど、奥さんがそんなことを言っとった気がするね。今は不景気だし、身内に頼っても恥ずかしくはないと思うんだけど、そこは人それぞれってことかねえ」
「うーん、どっちの意見もわからないでもないですね。俺も……おっと、ここを左折しないと」
話に夢中になっているうちに、百貨店の近くに来ていた。速度を落とし、ゆっくりと駐車場へ進入する。
それにしても、お隣の成瀬家にも色々な事情があったようだ。今回の件が無事に解決すると良いのだが。
俺の目的はドライブだったが、せっかくなので買い物をする芳江さんに同行することにした。
「いいのかねえ、帰りはバスが出ているから送ってもらっただけで十分さね」
「久しぶりの百貨店だから、俺も買い物していこうかなって思ったんですよ。よければ、荷物持ちでもしますよ」
「あれ、ならお願いしようかね。……この歳になって、こんなイイ男に荷物を持ってもらえるなんてねえ。ほほ、あとで近所の婆さん達に自慢できるよ」
芳江さんは、そう言ってカッカッカと快活に笑う。俺まで楽しい気分になるような、良い笑顔だった。
百貨店は、日曜日にもかかわらず人は少なめだった。おそらく新型コロナウイルスのせいだろう。俺は芳江さんの荷物持ちとして、食品フロアについていった。
芳江さんは専門店で漬物を吟味し、次に和菓子店で涼しそうな菓子を買った。値段は高いが、いずれも高級感が漂い質も高そうである。
フロアをまわって食材を一通り購入したあと、最後に立ち寄ったのはお肉の専門店だった。
「この牛肉の味噌漬けをもらおうかね。それと、それ……袋は別々にわけておくれ」
なかなか良いお値段の肉を、芳江さんは迷いなく注文する。
「豪快に買うんですね」
「旦那がねえ、夏バテに効くような美味い食べたいっていうからさ。はあ、あれが食べたいこれが食べたいと言ってれば食卓に並ぶと思ってからねえ、まったく」
不満を口にする芳江さんではあるが、旦那さんの食べたい物をきっちり買っているようだ。漬物を買うときも旦那さんの好みを考慮していた気がする。夫婦関係というのは、はたから見ただけではよくわからないものだ。
俺は、買い物を済ませて満足げな芳江さんと一緒に車に戻った。
アパートで車から降りると、強い日差しが肌に突き刺さった。俺はドアを開けて荷物を取り出す。芳江さんは、助手席から降りようとしたところで動きを止めていた。慎重な手付きで、何かをつまみ上げているようだ。
「どうしたんですか?」
「いや、髪の毛が座席に落ちててねえ。こんな婆さんを乗せたばっかりに、あんたのいい人に誤解されたら困るだろ」
「残念ながら誤解されて困るような人は居ないんです。この車の助手席に乗った女性は芳江さんだけですよ」
少し前に真由ちゃんを乗せたのだが、それを口にするわけにはいかない。芳江さんはしばらく目を丸くしていたが、カッカッカと笑い、つまんでいた髪の毛を捨てた。
「そりゃあ、すまないことをしたねえ。この婆が一番にあつかましく座っちまうとは」
「なあに、芳江さんのお役に立てて光栄ってものですよ」
「ほほ、あんた顔だけじゃなくて口も上手いじゃないか。今日は本当に助かったよ。若い男に荷物を持ってもらって買い物なんて、若返っちまうかと思ったねえ。……ほれ、大したものじゃないけどお礼だよ」
上機嫌な様子で笑った芳江さんは、牛肉の味噌漬けの袋を差し出した。買う時に、どうして袋を分けるのかと思っていたが、こういうことだったのか。
「いいんですか? これって高いものでしょう……じゃなくて、高かったですね」
「なあに、今日の車に加えて、この前のプリンと世話になったからねえ。遠慮せずにもらっておくれ」
「……では、ありがたくいただきます。今日の夕食にさっそくいただきますよ」
実はちょっと食べてみたかったので、ありがたい。何気ないドライブが意外な結果になったものである。
「まあ、美味いものでも食べて元気を出しておくれよ」
芳江さんは、そう言って部屋に戻っていった。
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