第36話 終わりゆく夏
お寺へのお参りのあと、俺は泣き止んだ真由ちゃんを連れて車に戻った。彼女がしきりに謝ってくるので「今日は謝るのは禁止」と言うと、彼女は涙を浮かべたまま笑顔を見せた。
アパートに戻った頃には結構遅い時間だったので、芳江さんたちへのお礼は後日にすることにして今日は休むことにした。
いつものように6畳の和室に、布団を2つ可能な限り離して敷く。俺たちは互いに「おやすみなさい」と声をかけて布団に入った。
この日に限って、タイマーを設定したエアコンの動作音が気になった。何か異常があるわけではない、単純に眠れないから気になってしまうだけなのである。暗い部屋の中、外からは風の音が聞こえてくる。天候が崩れるという予報はあたっていたようだ。
眠れない原因は、少し離れたところで寝ている真由ちゃんのことだ。彼女は夏休みが終わったら引っ越してしまう。これで、良いのだろうか。
いや、俺は頭の中に浮かびかけた考えを慌てて打ち消した。良いのか、ではない。これで良いのだ。彼女は家庭の事情で引っ越すのだから、俺がどうこうする余地はない。……それに、彼女を困らせるようなことはするべきではないのだ。これが大人の対応というものだろう。
外からポツポツと雨音が聞こえてきた。久しぶりの雨だ。しばらくして勢いが強くなってきたが、夜の雨がは静けさをより強調する。
大人ってなんだろう。俺の中の何かが問いかけてくる。自分の気持ちに蓋をして、社会や人間関係を重視する。それが、本当に大人なのだろうか。社会や集団での立ち回り方、どう振る舞えば自分に有利か、そんなことばかり考えて大事なことを見失っているのではないか。社会、常識、建前、面子、そんなもので自分を固めて、何を守ろうとしているのだろう。
ザアザアと降る雨音の中で、思考が堂々巡りしている。
ふと、隣で真由ちゃんが寝返りを打つ気配があった。俺は彼女をどう思っているのだろう。彼女にどういう未来を歩んで欲しいのだろうか。
俺は目を閉じて、眠ってしまうことにした。これがきっと一番良い選択だと信じて、眠ってしまうことに決めたのだった。
翌朝、外はきれいに晴れ上がっていた。雨が大気中のホコリを洗い流したのか、普段よりも空が透明に見える。気温は明らかに下がっている。季節が進みつつあるのだ。
芳江さん宅に挨拶したあと、真由ちゃんは実家へと旅立っていった。駅まで車で送ろうかと提案したが、笑顔で断られてしまった。ならば、と俺はできるだけの笑顔で彼女を見送る。
「お世話になりました。本当に、本当にありがとうございました」
真由ちゃんは深々と頭を下げた。顔を上げたとき、少し泣きそうになっていたが俺は気づかないふりをする。
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってね。……数学の問題は、ちょっと苦しいけどがんばるよ」
「ふふ、じゃあ数学以外を問題を聞いちゃおうかな。……こうしていると、名残惜しくなってしまうから、もう行きますね」
彼女は、笑いながら目元をそっと拭った。
「では、さよな……」
「じゃあ、またね」
「……また、よろしくお願いしますね」
くるりと背を向けると、真由ちゃんはアパートの敷地の外へと歩いていく。しっかりとした足取りだった。俺は彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
部屋に戻った俺は、ごろんと大の字に寝転んだ。窓の外は、さわやかな青空が広がっている。家でごろごろしているのが、もったいないぐらいの天気だ。温度も下がって、ぐっと過ごしやすくなった。真由ちゃんも駅まで苦労せずに行けるだろう。
俺は立ち上がると、台所の流しの下を開けた。飲まずに忘れていたビールの6本パックが入っている。俺は躊躇なく缶を開けると、琥珀色の液体を喉に流し込んだ、
少しぬるい苦味と炭酸の刺激が喉を通り越していく。愉快とは言えない気分だったが、ビールは美味かった。あっという間に1本を空にすると、和室に戻って次の缶を開けた。
幸いなことに、夏季休暇は明日までだ。多少飲みすぎたところで問題はない。全く、こんなさわやかな午前中だというのに何をやっているのだろう。世間から見れば、愚かとしかいいようがないだろう。
「馬鹿で何が悪い」
俺は独りでつぶやくと、ビールの缶を口に運んだ。馬鹿かもしれないが、俺はそれを選択したのだ。
人生にはこんな日だってある。俺はエアコンにビールを掲げてみせると、2本目の缶を空にしたのだった。
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