最終話 ずっと続く夏じゃなくても

 8月30日、俺はアパートの駐車場で引っ越しする成瀬家の方々を見送っていた。芳江さんと哲男さんも出てきて、真由ちゃんの両親と挨拶している。


「色々とお世話になりました。今後とも宜しくお願いします」


 真由ちゃんの父親が深々と頭を下げた。線の細い印象のあった人だが、今はきりっとした良い表情になっている。実家に戻り親戚の会社で働くという覚悟を決めたからだろうか。


「つまらないものですが、どうぞ」


 母親が丁寧な手付きでタオルを差し出してきたので、有り難く受け取ることにする。盆前に会ったときは、やつれた感じだったが、今は穏やかな表情になっていた。

 真由ちゃんの祖母が倒れた件で一家には大きな変化があったのだろが、なんとか落ち着くことができたようだ。世の中、大変なことは起こるものだが、少しずつでも前に進んでいればなんとかなるものである。


「では、このあたりで失礼します。まだ荷物を残しているので、ちょくちょく戻ってきますが、どうぞよろしくお願いします。ほら、真由もご挨拶を」

「えと……よ、よろしくお願いします」


 真由ちゃんが頭を下げ、父親がドアを開けて車に乗り込むと、母親がそれに続いた。


「気をつけて行くんだよ。こっちのことは、あたしらに任せてくれればいいからさ。……達者でね」

「うむ、あなたたちも健康に気をつけて。まずは、新しい生活に慣れてゆっくりと足場を固めると良い」

「またこの人は、偉そうに言ってさあ。そんなことは老人に言われなくてもわかってるだろうに。健康に気をつけなきゃいけないのはあたしらの方だよ」


 哲男さんと芳江さんのやりとりに、成瀬夫妻が笑みをこぼす。ふと、運転席の父親と目が合った。


「遠山さんもありがとうございました。新型コロナウイルスが流行してるときに会社で転勤になって、大変だったでしょう。また、お世話になってしまうのが心苦しいですが」

「いえいえ、どこの会社も大変ですからお互い様ですよ。無理はしないように、がんばって下さいね。……まあ、無理をしなくちゃいけないときもあるのが仕事なんですが」

「はは、全くですね。お若いのにしっかりしておられる。今度機会があったら、一緒に飲みたいですね。……では、また」


 夫婦ともども頭を下げてから、車は出発していった。

 駐車場には、俺と芳江さんと哲男さん……そして真由ちゃんが残った。




 成瀬家の引っ越しなのだが、真由ちゃんはこのアパートに残ることになったのである。

 祖母の件で引っ越しを決めた成瀬夫妻だったが、色々と慌てていたようだ。真由ちゃんは高校3年生で受験を控えている。ならば、この時期に転校するより残りの期間は慣れた学校で勉強した方が良いのでは、という考えに至ったようだ。

 娘一人で生活させるのに抵抗はあったようだが、彼女も半年が過ぎて大学生になれば独り暮らしする可能性が高いのである。ならば、少しばかり早めに独り暮らしを体験させてもいいのではないかという話になり、真由ちゃんもそれに賛成したのだ。

 もっとも、独り暮らしと言っても、父親は仕事の関係でちょくちょくこちらに戻ってこないといけないようだったし、母親の方も友人に会いに戻ってくるようだ。だから、独り暮らしについてはそれほど心配していないようである。普段、真由ちゃんが何か困ったときは、芳江さんたちが面倒をみることになっているからかもしれない。一応、俺もその中に入っている。



 芳江さんたちと別れてアパートの階段を登ると、今までおとなしくしていた真由ちゃんがにっこり笑って口を開いた。


「えへへ、これからもよろしくお願いします。前は、お別れみたいな雰囲気を出したのに、あっさり戻ってきちゃってちょっと恥ずかしいですけれど」

「俺は、また一緒に過ごせることになって嬉しいよ」


 変に気取らず正直に気持ちを口にすると、真由ちゃんは顔を赤くした。俺から目をそらしたり、見つめたりを繰り返す。


「えっ、あう……わ、わたしも、嬉しいです……その」


 2階の廊下で俺たちは見つめ合った。どちらともなく前に踏み出そうとしたところで、カンカンと勢いよく階段をのぼる音が聞こえてきた。俺たちは、何食わぬ顔で距離をとる。

 足音の主は、芳江さんだった。


「ふう、このあたしとしたことがすっかり忘れてたよ。何か美味しいものでもと思って買ってきておいたのさ。ほら、二人でお食べ」


 芳江さんが差し出してきたのは、牛肉の味噌漬けの包みだった。以前に百貨店で買ったのとは別の店の名前が書いてある。


「えっ、いいんですか。これって高いものでしょう」

「若い人が何を遠慮しとるのかね。先の長いあんたたちが、しっかり食べないとねえ」


 牛肉の包みは一つだったので、俺が代表して受け取ることにする。


「では、ありがたく頂きます。お礼はあらためて……」

「だから、遠慮は不要さね」

「いや、そういうわけには……あっ、また百貨店なんかに買い物に行くときは言ってください。車をだしますよ」

「ふーん、それには甘えちまおうかねえ。周りの婆さんどもに、若い男に車を出してもらったって自慢できるしさ」


 芳江さんは、にっこりと笑った。つられて真由ちゃんも朗らかに笑う。


「このお肉、あとで二人で分けていただきますね」


 俺が牛肉の包みを見ながら言うと、芳江さんは不思議そうな顔をした。


「なんでわざわざ分ける必要があるかね。真由ちゃんに焼いてもらって、二人で一緒に食べればいいじゃないか」

「えっ?」

「ふえっ、あの、その」


 変な声を出してしまった真由ちゃんを、芳江さんは楽しそうに見ている。


「お父さんとお母さんが驚くといけないから、ほどほどにね……」

「い、いや、意味がわからないですよ」


 俺はとぼけてみせたが、芳江さんは実に良い笑顔を浮かべた。そして、ペシッと俺の肩を叩く。


「まあ、あんたのことは信頼しているから、心配はしてないけどね。ほっほっほ」

「ふえ、あの、わたしたちは……その」

「ですから、意味が……」


 芳江さんは俺たちの言葉など、どこ吹く風という様子で階段を下りて行った。どこか背中がうきうきしているように見えたのは、気のせいだろうか。

 俺と真由ちゃんは、顔を見合わせると大きなため息をついたのだった。



 俺は、なかば開き直って成瀬家へとお邪魔していた。リビングルームでは、旧式のエアコンがカタカタと頼りない音を出している。真由ちゃんが冷えた麦茶を出してくれた。

 本来なら、感動の再会とかこれからの生活で盛り上がるところなのだが、芳江さんの言葉が気になって仕方がない。


「芳江おばさんはどういうつもりで言ったのでしょう。わたし、知られるようなことは言ってないはずなんですけれど」

「俺も知られるようなことはなかったはずなんだ。でも、あの言い方だとカマをかけたってわけじゃなさそうだったね。何か心当たりがあるような言い方だった」


 芳江さんがくれた牛肉の味噌漬けは高価な品だ。俺たちを試すために用意したとは思えないのだが。


「ああっ、もしかすると……」

「どうしたんですか?」

「お盆前に真由ちゃんが実家に帰ってたときの話なんだけど、芳江さんを車で百貨店へ連れて行ったんだ。あのとき、芳江さんが助手席から降りる際に、髪の毛を拾ってた」

「も、もしかしてわたしがドライブに乗せてもらったときのものでしょうか。あう、すみません」

「いや、俺が不注意だった。芳江さんは自分の髪の毛を落としてしまったから、俺に恋人が居たら疑われてしまうんじゃないかって冗談めかして言っていたんだ。それで、俺はつい助手席に女の人を乗せるのは芳江さんが初めてだって言っちゃったんだよね。……実際は真由ちゃんが初めてだったんだけど。とにかく、そこで疑いだしたのかもしれない」


 よく考えてから答えるべきだった。芳江さんは、自分以外の髪の毛を見つけていたのに違いない。だから、俺が何か隠していると見抜いたのだ。

 思い返せば、抹茶プリンの件もあった。あれは、俺が取引先にもらったものを真由ちゃんにあげて、食べきれなかった分を真由ちゃんが芳江さんのところへ持って行ったという設定だったのだ。なのに、俺は駅前で買ったと言ってしまったのである。誤魔化してはみたが、髪の毛の件と合わせて一気に疑いが濃くなったのかもしれない。


「芳江さんって鋭いですからね。わたしも、一人で留守番なのにずいぶんと沢山買い物するんだねって言われたことがあります。とっさに、特売だったからって答えたんですけれど……その日は特売じゃなかったんですよ。芳江さん、何も言わなかったけれど、きっと怪しんでたんでしょうね」


 俺たちは、深いため息をついた。実のところ、芳江さんはずいぶんと前から俺たちの関係を疑って探りをいれていたのかもしれない。こうなると、哲男さんが供養会の葉書を持ってきてくれたことすら怪しく思えてくる。


「こうなったら仕方がない。近いうちに芳江さんを買い物につれていってサービスしたり、何か美味しいものでも持っていこう」

「あうう……恥ずかしいです」 


 真由ちゃんは頭を抱えてしまった。俺は、お茶を飲みながら過去の行動を振り返ってみる。十分に気をつけていたつもりだったが、油断があったのだろうか。

 一人で反省していると、真由ちゃんがじっと俺を見ていた。


「どうしたの?」

「さっき、遠山さんは車の助手席に女の子を乗せたのは、わたしが初めてだって言いましたよね」

「ああ、そうだけど」


 変な見栄を張っても意味がないので正直に答える。


「ふーん、そうだったんですか。ふふふ」


 なぜか真由ちゃんはご機嫌な様子である。


「ど、どうしたの?」

「いえいえ、何でもないです。遠山さんて、いつも堂々としていて、何でもそつなくこなすから、てっきり……いえ、何でもないです。ふふふ」

「えっ、何なの?」


 真由ちゃんは、にこにこと笑って質問をはぐらかす。なんだか、俺の大人の威厳がちょっと損なわれたような。


「成瀬君、実は俺って意外とモテないとか、そういうことじゃなくてだね……深い理由が……」


 俺が抗議しかけたところで、プシューと情けない音がした。

 発生源を見上げると、エアコンのランプが不規則に点灯して運転が止まっている。


「ど、どうしてなの? わたしが動かすと、どうして調子が悪くなるの。あう、お母さんやお父さんが使っているときは大丈夫だったのに」

「まあ、このままだと暑いから俺の部屋で涼もうか」

「そうですね。このエアコンには休ませてあげましょう。えっと、芳江さんからいただいたお肉も持っていきますね」


 牛肉の味噌漬けを手に取った真由ちゃんは、にっこりと笑った。エアコンの運転を止めると、俺たちは部屋を後にした。


 外に出ると日差しがまぶしかったが、以前のような暑さは感じない。季節は確実に進んでいるようだ。

 再び始まった真由ちゃんとの生活だが、今後はどうなるだろう。夏の次は秋、冬が来て春になれば、彼女は大学生になる予定だ。その時、俺たちの関係はどうなっているだろうか。


 早く入るようにせかす真由ちゃんにうながされて、慣れ親しんだ自分の部屋へと二人で戻った。新型のエアコンを稼働させると、さわやかな冷気が流れてくる。


 夏は、もう少し続くようだ。

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社会人4年目、真夏にエアコンが故障した隣室の女子高生と同居を始める 野島製粉 @kkym20180616

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