第6話 就寝場所をめぐる攻防

 ドアを開けると、外はすっかり暗くなっていた。街の明かりが目に入ると同時に、通りを走る車の音が聞こえてくる。だが、すぐにねっとりとした熱気が押し寄せてきた。昼間とは違う、熟成されたようなたまらない暑さである。


「これは、まだまだ暑いな。いや、建物にこもった熱気で余計に暑くなった気がする」

「ふ、ふえっ……こ、このくらいなら大丈夫……ですよ」


 ドアの外に顔を出した真由ちゃんが、変な声をあげながら顔を引きつらせた。エアコンの涼しさに慣れた分、落差も大きいのだろう。


「いや、大丈夫じゃないでしょ。いったん部屋に戻ろう」

「は、はい」


 今回ばかりは、真由ちゃんは素直に同意してくれた。俺はドアをきっちり締めると、エアコンの効いた和室へと撤退した。




 新品のエアコンが爽やかな冷気を俺たちに送ってくる。外の異常な暑さに比べると、この人工的な風のほうが自然に感じられてしまう。俺は、真由ちゃんに麦茶を勧めるとテレビのスイッチを入れた。


「まあ、遅い時間でもないし、ゆっくりしていけばいいと思うよ。テレビでも見ながら楽にしててよ」

「は、はい。何から何まですいません」

「別に気にしなくてもいいから。夜だと言っても、ここは2階だから1階から熱気が上がってくるし、屋根の熱もあるからなかなか涼しくならないよ」


 俺は、昨晩に会社から帰ったときの室内のことを思い出しながら答えた。とてもエアコンなしで過ごせるとは思えない。しかも、真由ちゃんはお昼に倒れているのである。

 だが、どうしたものだろう。彼女には、エアコンの効いたこの部屋で休んでいてもらうのがベストだが、泊まってもらうとなると様々な問題が生じてくる。


「……今夜は温度が下がらず、蒸し暑い夜になる見込みです。熱中症は夜間に発生するケースも多く、適切なエアコンの使用を……」


 ちょうどテレビのニュース番組が天気予報を流している。それを聞いた真由ちゃんは、居心地悪そうに座布団に座り直した。ふむ、ここは社会人として俺が一計を案じるべきではないだろうか。


「あれっ、メッセージが届いてる。うっかりしてたなあ……」


 真由ちゃんがちらっとこちらを見たのを確認してから、スマホを操作するふりをする。


「あー、しまった、仕方ないなあ。……ええと、真由ちゃん」

「は、はい。何でしょう?」

「実はさあ、か、彼女からメッセージが来ててね。久々に泊まりに来いって言っているんだよ。ははっ、最近ほったらかしにしてたからさあ。……それで、俺は彼女のご機嫌とりに行かないといけないから、真由ちゃんはこの部屋に泊まっていけばいいよ。洗い物のお礼ってことで、遠慮しなくていいから」

「……?」


 俺の渾身の芝居に対して、真由ちゃんは不思議そうに首をかしげた。


「……その彼女さんは、実在するのですか?」

「ううっ」


 何気なさそうな一言だったが、思ったよりもダメージを受けてしまった。


「やっぱり、すぐにバレちゃうか。まあ、彼女が居ればすぐに連絡してるよなあ」

「あのう、どういうことなんですか。……連絡?」

「実際に彼女が居るなら、こういう場合は相談するなり来てもらうなりするってこと。その、変な疑いを持たれないためっていうのもあるけど、看病するのも女性同士の方が良いよね。いろいろと配慮できるだろうし」

「あー、そういうことですか。ふむふむ、そうですよねえ」


 真由ちゃんは感心した様子でコクコクとうなずいていたが、不意に真面目な表情になった。


「あ、あのっ、わたしは不満とかないですよ。色々と配慮していただいて感謝してます。すいません、お手をわずらわせた上に、余計な気を使わせてしまって」

「いやいや、こちらの方こそもうちょっとマシな対処ができたらよかったんだけど」

「いえいえ、そもそも迷惑をかけたのはわたしですから……」


 俺たちは、なぜか互いに謝りあった。そのうち、おかしくなって吹き出してしまう。

 ふたりして笑い合っていると、気のせいかもしれないが彼女と打ち解けた感じがした。


「この際だからはっきり言っちゃうけど、この暑さで冷房無しで過ごすのは無謀だよ。真由ちゃんは、お昼に倒れちゃったわけだし、冗談抜きで生命にかかわると思う」

「それは……でも」

「とにかく、今晩だけでも冷房の効いた場所で身体を休めた方がいい、これは絶対だよ。でも、ここで泊まってもらうには色々と問題があるから、俺がビジネスホテルにでも行って……」

「だ、駄目ですよっ。そんなことをしたらお金がかかってしまいます。ご迷惑をかけた上に、金銭的な負担までしていただくわけにはいきません」


 真由ちゃんは、断固とした口調で言った。俺としては、たまにはビジネスホテルに泊まってみるのも楽しいかな、ぐらいの軽い気持ちだったのだが。しかし、こうなると彼女の真面目さや礼儀正しさに困ってしまう。


「だけど、この部屋は単身者用だから一緒に泊まってもらうわけには……。うーん、信用してもらえるのなら、真由ちゃんはここで過ごしてもらって、俺は廊下で寝るけれど」

「そっ、それはできませんっ」


 真由ちゃんは真っ赤になって大きな声を出した。まあ、彼女ぐらいの年頃の子にとっては、よくわからない隣人の男性と一緒に泊まるのは抵抗があるだろう。しかし、こうまで激しく否定されると若干傷つく。


「わ、わたしが廊下で寝ますっ。いえ、廊下で寝させていただけると助かるのですが」

「そっちが問題なんだ……」

「えっ、どういうことですか?」

「いや、別に気にしなくてもいいから。……いやいや、良くないぞ」


 俺は、頭の中で今晩の様子を思い浮かべてみた。昼間に倒れた女の子が廊下の床で小さくなって寝ていて、立派な社会人の男性である俺が、エアコンのよく効いた部屋ですやすやと寝息をたてている。


「真由ちゃん、ちょっと真面目な話になるんだけど」

「は、はい。何でしょう?」

「俺は、こう見えても社会人四年目で、まあ男なんだよ。ジェンダーがどうこういう話もあるけど、やっぱり男子としての面子があるんだ。だから、俺が廊下で寝るっていうのは譲れない線なんだよ」

「えっ、えっ? ですけれど、お世話になった身としては、部屋主である遠山さんに床で寝てもらうわけにはいかないです。いくらなんでも、そんな図々しいことはできません」


 真由ちゃんと俺は見つめあった。しばらくすると、気恥ずかしくなってきたがここで負けるわけにはいかない。

 先に目をそらしたのは、彼女の方だった。


「……すみません。せっかくご厚意で言ってくださったのに、また迷惑をかけてしまいましたね。あの、でも、本当にいいのですか?」

「もちろん問題ないよ。こう見えても結構な修羅場を経験しているからね。会社で忙しいときは、オフィスの床や机で寝たことがあるから、このぐらいはどうってことないさ」


 俺が笑って言ってみせると、彼女は驚きと尊敬のような表情を浮かべた。実のところ、オフィスの床で寝たというのは嘘である。まあ、終電間際まで残業したことはあるし、このぐらいは誇張してもかまわないだろう。


「会社員って大変なんですね。わたし、社会に出たらちゃんと働けるかなあ」

「はは、大げさだよ。みんな結構なんとかなるものだから」


 今晩は床で寝ることになったが、真由ちゃんに尊敬のこもった眼差しで見られるのは悪い気分ではなかった。残業の果てに床で寝るのは勘弁してほしいが、隣室の女の子を助けるためなら全く問題はないのだ。

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