第2話 波乱の午後

 お隣さんの成瀬家のドアは、少し開いたままになっていた。

 急用で出ていったにしても、時間が経ちすぎている気がする。チャイムのボタンを押してみると、無機質な電子音がドアの隙間から聞こえてきたが、内部からは何の反応もない。少し迷ったが、俺はドアのノブに手をかけた。


「どうも、隣の遠山です。成瀬さん、何かあったのですか」


 声をかけながらドアを開けたが、薄暗い室内は静まり返っている。単身者用の俺の部屋と違って、広々とした間取りだが、清潔で整理整頓されているようだ。ただ、少し片付き過ぎているというのか、生活感がないような気もする。


「えーと、ちょっとお邪魔しますねー。な、何かないか確認ですよー」


 できるだけ明るい声で言ったつもりだったが、語尾がうわずってしまった。何か起こったと決まったわけではないが、無断で他人の家に上がるのは緊張してしまう。靴を脱いであがると、奥の部屋から明かりが漏れているのに気づいた。

 居間らしき部屋に入ると、まぶしい光が俺の目に突き刺さった。西日がもろに差し込んできている。まぶしいだけでなく、凄まじい暑さだ。

 窓でも開けようかと思ったとき、カーペットの上に制服姿の女の子が倒れていることに気づいた。


「えっ? あっ、だ、大丈夫?」


 俺は慌てて、うつ伏せに倒れている女の子に駆け寄る。とっさに抱き起こそうとして、ふと思いとどまる。こういうときは、ゆすったりしない方がいいのだったっけ。


「ね、ねえ、君、大丈夫? ええと、その、隣の部屋の者なんだけど」

「……ぅっ……いよう……」


 女の子は朦朧とした様子でうめいた。よかった、なんとか意識はあるようだ。もしかして、急病だろうか。女の子は、形の良いおでこに大量の汗を浮かべている。


「……はあ、はあ……い、う……」

「どうしたの? えっと、どこか苦しいのかな」

「……あ、つい……暑いよう」


 女の子は、幼い子が懇願するかのような口調であえいだ。普段はしっかりした様子の子だっただけに、俺は衝撃を受けた。早くなんとかしてあげないと。

 室内を見回すと、女の子の近くにエアコンのリモコンが落ちていた。すかさず運転のボタンを押したが、肝心のエアコンが動作しない。運転中を示すランプが虚しく点滅するだけだ。


「故障しているのか」


 俺はエアコンを諦めて、ベランダに続くガラス戸を開け放った。室内に風を入れれば、いくらかはマシになるかもしれない。だが、入ってきたのは顔を背けたくなるような熱風だった。


「くっ、これはひどいな。西日のせいで、ベランダに熱がたまっている」


 ベランダの隅にエアコンの室外機があったので確認してみたが、こちらも動いている気配はない。くっ、これはマズイな。無意識に首筋に手を当てると、汗でびっしょりと濡れている。室内では女の子が倒れたままで、そばには手提げカバンと可愛らしい模様の巾着袋が力なく散らばっていた。


「こうなったら、仕方がない」


 俺は女の子に駆け寄ると、そっと抱き上げた。今までの人生で、女の子をお姫様抱っこした経験なんてなかったが、なんとかうまくいった。制服越しに伝わるやわらかな感触に、背徳感というか罪悪感を覚えたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 足でドアを開けて廊下に出ると、思わず周囲を確認してしまった。俺にやましい気持ちなどないが、はたから見れば、怪しい男性が意識のない女の子を抱えて部屋に連れ込もうとしている犯罪的な絵面である。いや、犯罪的というより犯罪そのものか。幸いなことに誰も見ている人はいないようだった。



 自分の部屋に戻った俺は、エアコンの設定温度を下げて女の子を布団に寝かせた。一息つくと、なんだか妙な状況になっていることに気づく。6畳の和室の布団の上に、制服姿の女の子が横たわっている。苦しそうだった女の子は、今は安らいだ表情で胸をかすかに上下させながら、すやすやと眠っていた。なんというか……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。俺は女の子にタオルケットをかけてあげると、キッチンへと向かった。


 頭に貼る冷却シートを冷蔵庫に保管していたように思ったのだが、春の引っ越しのときに捨ててしまったようだ。仕方なく、お風呂場から洗面器を持ってきて氷水を作成することにする。いや、熱中症で倒れていたみたいだったから、病院で診てもらった方がいいのだろうか。

 そんなことを考えながら、和室に戻ると、女の子が身体を起こしてエアコンを見上げていた。まるで尊いなにかを見つめるような仕草だった。少なくとも、俺は女の子にそんな視線を向けられたことはない。


「……あっ」


 不意にこちらを見た女の子が驚きの声を上げた。彼女は目を大きく見開くと、口元に手を当てる。

 こ、これはマズイのでは。気がついたら、見知らぬ部屋で寝かされていて、怪しげな男が居る。そりゃあ、悲鳴の一つもあげたくなるだろう。だが、そうすると何事かと他の住人がかけつけてきて、大変な事態が起こるのではないだろうか。俺は、青少年なんとか条例を思い出して、背筋が寒くなる。


「ええっと、俺はお隣さんで、君が部屋で倒れていたから連れてきただけだよ。やましい気持ちはなくて、完全に人道目的というか……」


 人は、どうして弁解すればするほど怪しい雰囲気を醸し出してしまうのだろうか。社会的地位が危機に陥っているにも関わらず、適切な言葉が出てこない。


「……あ、ありがとうございます。おかげで助かりました」


 女の子は慌てた様子で正座すると、ぺこりと頭を下げた。きちんと布団からおりるという礼儀正しさである。よかった、変な風に誤解されなくて済んだようだ。


「えっと、俺は隣の部屋の遠山だけどわかるよね?」

「はい、この前はお世話になりました。わたしは、成瀬……真由です」

「ああ、真由ちゃん……って呼んでも大丈夫かな? 成瀬さん呼びだと、奥さん、ええと君のお母さんとまぎらわしくなるから」

「大丈夫ですよ。友達や家族からもたいていそう呼ばれていますし」


 女の子、真由ちゃんはコクリとうなずいた。しっかりとした受け答えをする子だが、可愛らしい感じの動作をする。


「そいえば何があったの? ええと、部屋の扉が開いていたから確認してみて、そうしたら真由ちゃんが倒れているのを見つけたんだよ。てっきり熱中症だと思ったんだけど、事件とかじゃないよね」

「じ、事件とかじゃないです。おっしゃるとおり熱中症、だと思います。今日は図書館で勉強していたのですけれど、その、換気のためか暑くて……」

「わかる、わかる。最近はどこの公共施設も、感染予防のために窓を開けたりしてるもんね。しょうがないとはいえ、やっぱり暑いよなあ」

「ええ。それで、ちょっと具合が悪くなって部屋で休もうと思ったんです。帰って、真っ先にエアコンをつけようと思ったのですけれど、動かなくて……」

 

 真由ちゃんは、顔を曇らせた。倒れたときのことを思い出したのだろう。


「そっか、この暑さだもんね。ええと、具合はどう。熱中症は怖いらしいから、念のため病院で診てもらった方がいいのかな」

「い、いえいえ。そこまで大げさなものじゃありません。最近、寝不足で疲れていただけだと思います。それに、休ませていただいたおかげでだいぶ良くなりましたから」

「なら、いいんだけど」


 俺は、氷水が入った洗面器を持ったままでいることに気づいたので、畳の上に置く。それを見た彼女は、ふらつきながら立ち上がろうとした。


「ご迷惑をおかけしました。後日、お礼にうかがいますので、このあたりで……」

「いやいや、まだ寝てなくちゃ駄目だよ。顔色が良くないし、あの暑い部屋に戻ったら、また倒れちゃうかもしれない」

「で、でも、これ以上、お世話なるわけには……」


 ううむ、礼儀正しくて良い子なのだが、他人に迷惑をかけまいとする意識が強すぎるようだ。なんとかして休ませたいが、どうしたものだろう。

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