第四十二話 皇姫の指名
『学園は貴君に何も強制をしない。例え、魔皇姫殿下のご意向であっても』
レティシア教官の声は、可能な限り抑制したのだろうが、震えを隠せていなかった。
二人の教官が特別科の担当であっても、皇姫たちが指導を受けようとする姿勢でなければ、この場をまとめるというのは荷が重い。
あるいは、セイバ教官は力で抑え込むことは可能なのかもしれない。皇姫たちが並外れた資質を持っていても、それはまだ完成までに至っていない、未成熟なものだ。
しかしまだ開いていない花でも、他の生徒を圧倒するだけの力がある。これまでの人生で自分の実力や可能性を小さなものだと思ったことは、皇姫たちには無いだろう。
その自信を折らず、手加減をしたとも悟られず、魔皇姫と手合わせをする。『流れ』を頭に巡らせても、容易に答えには辿り着かない。
『……兄様、魔皇姫殿下はご無理をおっしゃっています。でも……』
『確かに難しい問題を突きつけられている。けれど上手く解決策を導き出せなければ、どのみち前に進むことはできない』
『っ……それでは、兄様……っ』
他国の皇姫と、伯爵家の護衛が試合をする。本来なら戦いの舞台に立つことさえ、不敬と見なされる行為だ。
しかし他ならぬ皇帝本人の指名であれば、話は変わる。
受けなければ、魔帝国の天契を拒絶することになる。戦いを止めることと引き換えに、魔帝国が天帝から引き出した譲歩。それは、千年違えることのない取り決めとして存在していた。
アルスメリアが俺をこの場に導いた。魔皇姫が俺と戦う場を、天契が作り出したのだ。
「恐れながら、改めて名乗らせていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ。私はアウレリス・グランシャルク。グランシャルク朝第一皇女ですわ」
「私は先ほどもご紹介にあずかりましたが、ロイド・フィアレスと申します。フィアレス家に拾っていただき、妹のカノンの護衛を務めています」
名乗った矢先、皇姫たちの視線に宿る感情が変化する。
俺が伯爵家の正当な血筋ではないこと、そして護衛という立場であること。その両方が、皇姫たちにそれぞれ違う驚きを与えたようだった。
「……魔法の資質において、貴族が平民より必ず優れているとは限らない。けれど、必ず特殊な血が流れているはず。あの魔力は天人族の中でも並外れていた」
「護衛とは……一貴族の護衛がそれほどの力を持っているというのは、やはり天帝国の人材の層が厚いということか」
「皇族の護衛でも特別科に入るのは大変なのに、貴族の護衛が入っちゃう時点でとんでもないよね、クズノハ」
「私たちは分かってたじゃない。気がつくのが遅かったアウレリスに主導権を握られるのは不本意だけど……」
竜皇姫、人皇姫、獣皇姫姉妹が感嘆を口にする。聖皇姫だけは何も言わず、ただ俺から視線を外さずに見ているだけだった。
この場により上位の教官が来ていれば、皇姫たちに別の条件を提示することもできたかもしれない。
そうならなかった今、学園はこの状況を許容していると考えられる。
――ロイド・フィアレス殿。貴君には、皇姫殿下が安全に学ぶことができる環境づくりに協力を願いたい。
皇姫たちが一人も欠けずに入学できるように尽力する。それもまたマティルダ副学長の言う『協力』と解釈するなら、俺は自分で答えを決められるということだ。
「天帝国伯爵家は、才能のある子供を養子にしている……しかし、フィアレス家の血族ではなく、さらに護衛ということであれば……」
「アウレリス、それは……っ!」
エリシエルが声を上げる。それでもアウレリスは止まらなかった。
彼女は身につけている指輪――両手に一つずつ嵌められている――のうち、左手に着けられたものを外す。そして唇を寄せると、紅の魔力を吹き込んだ。
「皇女殿下……っ」
ずっと何も言わずにいた魔皇姫の近侍の女性が声を上げる。もう一人、少年が付き従っているが、彼もまたかすかに目を見開いていた。
「これが我が皇家に伝わる『主従の指輪』ですわ。天契に従い、私はロイド・フィアレスに勝利した暁には、彼を眷属にすることを希望します」
誰もが言葉を失っている。カノンも――ミューリアは皇姫の前で抑制しているが、その魔力が今にも溢れてしまいかけている。
「……『手合わせ』ではなかったのですか? 騙し討ちは、卑怯ではないのですか」
「それはロイドが一介の護衛であると確認する前の話ですわ。魔帝国の天契は、他国の皇族と貴族以外に決闘で勝利したとき、自らの眷属とすることを許している。もちろん、ロイドがそれに同意した場合の話ですが」
俺が欲しいと思った理由はただの興味か、それとも別の何かか。
そんなことは、今は深く考えるつもりもない。
隙を見せれば付け入られる。ここがそういう場所であることが良く分かったし、『流れ』を読んでいながら身を任せた俺にも責はある。
「……兄様は……たとえ皇姫殿下がお相手であっても、決して……っ」
「いいんだ、カノン」
俺の前に出てくれたカノンを制する。
盾はただ、護るために在る。それは心までも含めてのことだ。
「潔いんですのね。ますます気に入りましたわ。ジルドは負けたことの言い訳をするばかりで、残念に思っていましたの……もちろん、いつも私の傍に侍れとは言いません。ただ、必要なときに呼び出しに応じてもらうというだけですわ」
アウレリスの心には、まだ幼い部分がある。
成長すれば、その資質は大輪の花を咲かせるのだろう。しかし今は、自分の才気を過信しすぎている。
この場にいる全員が、俺の答えを待っている。各国の護衛は油断なく俺を見ている――魔帝国の護衛たちは、俺を敵とでも見ているかのようだ。
事実、俺はアウレリスの敵となった。アウレリスが天契を持ち出し、勝利したときの要求を出したということは、魔帝国にとって尋常ならざる事態となったことを意味する。
「……アウレリス、分かっているのですか? 天契に従って他者に要求するということは、自分も同じ条件を背負うということなのですよ」
エリシエルはアウレリスを案じて言っている。だが、アウレリスにはそうと受け取られていない。
「もちろん分かっていますわ。だから私は、ロイド……あなたに今は何も聞きません。あなたがもし勝利したなら、求めるものは自由に決めて構いませんわ」
自分が負けることなどありえないと、アウレリスは言外に示唆している。絶対の自信を支えているのは、魔皇帝の一族が持つ固有魔法、血晶術だろう。
確かに抑制された中にも、感情が高ぶったときにわずかに見える魔力の色は、宝石のように美しい。それは血のような紅の宝石、
「……ロイド君、君の意向を聞かせてください」
セイバ教官が問いかけてくる。俺に任せることを詫びるようなその瞳を見て、俺は思う。彼のような真面目な人物が、皇姫の集う学級を指導するのは骨が折れるだろう。
副学長の要請を受けていてもいなくても、俺はこうすることを選んだだろう。魔皇姫の前に出て、彼女が手のひらの上に乗せて差し出した指輪を確かめる。
「……っ」
「……? アウレリス殿下、どうなさいましたか」
魔皇姫が勝利すれば、俺はその指輪で縛られることになる。手合わせの前に確認しておくのは必要なことのはずだが――。
『ロイドったら、自然にアウレリス殿下の手を取ったりなんかして……』
『兄様、大胆すぎます……もう少しご遠慮をなさってください、魔皇姫殿下もひとりの乙女なのですからっ……』
「っ……も、申し訳ありません。指輪のほうは、確かめさせていただきました」
目を見開いて固まっていたアウレリスは、思い出したようにぱちぱちと瞬きをすると、弾かれたように手を引く。角が空を切る音がするくらいの勢いで。
「ぶ、無礼者っ……触れていいとは言っていませんわ」
「ふぅん……ロイドって結構大胆なんだ。こういうの慣れてるのかな?」
「アウレリスも無理しなきゃいいのに。こんなに動揺してたら戦う前に侮られるよ」
ユズリハとクズノハの姉妹をアウレリスは何も言わずに睨みつける。そして、二人の教官に、改めて礼をして見せてから言った。
「私とロイド・フィアレスは、これから幻影舞闘を行います。お互い『手合わせ』で傷を負うわけにはいきませんものね……準備をしてもよろしくて?」
「了解いたしました。私とレティシア教官から、事前の報告は行わせていただきます」
「ええ、勿論ですわ。手間を取らせて申し訳ありませんわね……行きますわよ」
アウレリスは近侍を伴って、校舎を後にする。転移陣を使い、幻影舞闘を行う場所に移動するためだろう。
他の皇姫一行もそれに続く。全員がすれ違うときに俺とカノン、そしてミューリアのことを見ていたが、その全てが警戒するような視線ではなく、中には憐れむようなものもあった。
一介の護衛が、魔皇姫に勝てるわけがない。侯爵家のジルドに勝っても、皇姫たちとの試合に勝てるとは限らない――むしろ俺の方が敗色濃厚と思われているわけだ。
「……兄様、本当は私がアウレリス殿下とお手合わせをしたいくらいです。例え魔皇姫殿下であっても、兄様を好きなときに呼び出すなんて横暴ですっ」
「ありがとう、カノン。アウレリス殿下は、僕を呼び出してどうするかまでは考えていらっしゃらないと思うよ。あくまで、要求の形をつけられただけじゃないかな」
「お兄ちゃんに勝ったという事実があれば、アウレリス殿下は皇姫さまがたの中で優位に立つことができる。入学時点のこととはいえ、生徒たちの中で魔皇姫殿下が最も優秀という意識を与えられたら、影響力は長く続くものね……」
そこまでのことを考えているかは分からないが、魔皇姫は他の皇姫たちに対する対抗意識が特に強いというのは間違いない。
しかし俺がカノンの護衛である以上は、必ず勝たなければならない。戦いの中で見出だせる答えの中で、最善のものを選ぶ。するべきことはそれだけだ。
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