プロローグ・3 終わりの先
やがて回廊の終端に達し、俺は陛下がいる部屋に通された。
四年前と同じ。御簾の向こうに見える『揺り籠』の中で、陛下は眠っていた――しかし俺が近づくと、彼女が起きた気配がする。
「……もう少し続けられると思ったけれど、不甲斐ない。どれだけ魔法が得意でも、命だけは縮めたり伸ばしたりできないものだ」
もう声を発することも難しいと聞いていたのに――彼女は在りし日の生気を取り戻していた。
小さくすすり泣いていた侍女が、席を外す。それを見送った陛下がふっと笑った気配がした。
「ヴァンスに涙は見せたくないと言っていたのに、彼女はやはり気が優しい」
一つ年下の侍女。物心づいた時から一緒にいた、陛下の紛れもない親友。
彼女は陛下の護衛となり、この部屋に出入りするようになった俺を、初めのうちは警戒していた――実直に見える騎士でも、男女の間には何があるのか分からないと。
そんな彼女の物言いを聞いて、陛下は笑っていた。私のような青白い顔の女に興味を示すほど、ヴァンスは不健全ではないと言って――。
そのとき俺は何も言わなかった。陛下は俺の心を見ようと思えば見られるのだから、俺の真意などお見通しのはずだった。
「これまでずっと付き添ってくれた相手を、素直に労っても良いのでは?」
「彼女は私が死んだら殉死すると言うからね。あまり感謝の言葉を口にするのも考えものだ。最後は、嫌われた方がいいのかもしれない」
「それは、到底無理な話です。陛下を慕わない者は、この国にはいない」
「……戦いを好む人々以外は、ということになるか。しかし『不戦結界』は大規模戦闘魔法を封印するだけのもので、人の行き来はいずれできるようになる」
天帝陛下による『不戦結界』が七つの国に国境線を引いたあと、他の六皇帝はその力を脅威に感じ、次々に講和を申し入れてきた。
『不戦結界』がどのようなものか、天帝国から情報を引き出そうという思惑もあるだろう。
それでも戦うことしかせずにいた皇帝たちを、同じ卓に着かせようとしている。その日のことは、永久に歴史に刻まれるだろう――しかし。
「七国皇帝の会談が行われる日まで……陛下は、ご存命ではないとおっしゃられた。それは、変えられそうにありませんか」
深刻な顔も、悲壮な空気も、陛下は望んではいないと分かっていた。
死という言葉に向き合って、陛下の姿を正面から見ていられる気がしなかった。
「私の魂魄が消滅するまで、あと数時間といったところだろう」
「……魂魄を回復させる方法は、無い。それに変わりはないと……それなら私は、今ここに来て正解だった」
少し遅れていたら、陛下の魂は現世から消えていた。
俺は陛下に呼ばれていない。護衛騎士でも、本来なら約束もなしにこの部屋に入ることはかなわない。
「もう四年になるのか。たった四年だったと言うべきかな」
「……あまりにも早すぎました。もう少しゆっくり駒を進めても良かったのではないですか」
「私も遠い理想だと思っていたからね。けれど思っていたよりもずっと、風はそちらに向かって流れていたんだ」
アルスメリア陛下は七皇帝の中で唯一、戦いを終わらせようとした。
その意志に呼応する者が、この国にも、他の国にもいた――だからこそ、稀代の魔法使いであえる陛下でも一人ではできないことを、実現させることができた。
「けれど、これだけでは戦いは本当に終わることはないだろう。長年の因縁が、結界という壁で隔てられたくらいで消えたりはしない。それは正直を言って心残りだ」
「……それでも、清々しいという声です。そんなふうにやり終えたという姿を見せられては、やはり泣く者もいるでしょう」
陛下が次代の皇帝を指名したあと、政務の中枢はこの天空宮ではなく、帝都に移されている。
この天空宮に残っているのはごく少数の人間だけ。護衛となる騎士は、俺だけだ。
――フリードは、俺にこれからのことを聞きに来たのだろう。陛下亡き後のことを。
俺の意志は四年前から一片の揺るぎもなく、変わっていない。それを確かめて、フリードは騎士団に戻っていった。
「君は……」
アルスメリア陛下が尋ねようとして、言葉を止める。その響きが、初めて聞いた時のように懐かしく感じた。
「……私は、泣きません。その理由は、すでにおわかりのはずです」
「……私は、君にそこまでを命じていない」
そう言った陛下の声が、震えていた。
終わりを自覚しているから、覚悟ができるというものではない。彼女が死を恐れていること、それでも安らかにいようとしているのに、俺はその心を乱そうとしている。
「陛下の命が尽きるまで、私の命を捧げる。そう、四年前に誓いました」
「……君は自由になる。私に対する誓いは、私が消えることで意味をなくす。私は君に、私がいなくなったあとのことを……」
「それは、フリードに頼んであります。彼には重荷を背負わせるようですが……彼以外には、安心して頼める人物はおりません」
陛下の言葉を一つずつ、丁寧に――決して許されないことでも、否定していく。
陛下の敷いた予防線はもはや残っていない。残っているのは、俺と陛下の感情の問題だ。
「……友達甲斐のない友人だ。きっと君は、そう言われる」
「そうかもしれません。最後に彼と戦わなかったことが、少し心残りです」
「強くなりたい……か。自分が何者であるかを示したい。君のその夢は、これからでも始められるはずだ」
「始めるのは、ずっと先でも構いません。私は『天帝の盾』と呼ばれたことを誇りに思っています。それは本当に、私自身の命よりも優先されることであるらしい」
御簾の向こう、揺り籠から降りて、陛下がこちらを見る。その足はまだしっかりと地に突き、健在であったころを思わせる。
「らしいとは、何だ……まるで他人事のようだ」
「まだ騎士になったばかりのころは、忠義のために死ねるということが理解できなかった。私はあなたの護衛となってから、新しい自分になったのです。子供の頃の自分は、もう少し生きてみてはどうかと言うのですが……今の私に、その考えはない」
「……君は、愚か者だ。天帝国一の……いや、世界で一番の、ばかものだ」
伝えることに迷いはなかった。
馬鹿と言われることも分かっていた。しかしそれくらいなら安いものだ。
「いつかその魂が蘇る日に、私は護衛としてお供できません。陛下と共に、『転生の儀』に臨みたく思います」
千年続いた天帝国において、伝承として伝わるのみの神域魔法。
陛下ほどの魔法の才を持ってしても、成功するかどうかは分からない。失敗すれば魂魄は散逸し、もう一度再生することもなく消えるだろう。
――しかし陛下は、賭けようとしていた。
自分の命を賭け、平和への道筋を示した世界が、本当に戦いをやめられるのか――それを、自分の目で見るために。
「……転生すれば、私は私のままでいられるか分からない。それは君も同じだ……どれだけの綺麗事を言っても、君にとっては自分の命を絶つということだ。これから死ぬ私とは違う。君を慕う人々を振り払ってまで、そんなことをする必要は……」
「……死ぬまで、命を捧げる。それを陛下が亡くなったあと、私が自由になるという意味だと、野暮なことは言わないでください」
御簾の向こうで、陛下は両手で顔を覆った。
もう一度その姿を見たかった。しかしそれを彼女は望まなかった――魂魄の崩壊が始まった彼女の身体は、どれだけの魔法の力でも、維持することができなくなっていたから。
「私はあなたが見る景色を、共に見てみたい。それが百年でも、二百年後でも、どれだけ時間が経ったとしても」
「……なぜ、そう思う?」
分かりきっているはずなのに問う。その性格が、いつも『皇帝』であろうとするところを、本当に尊敬している――。
「……最後まで、言ってはくれないのか?」
「それは俺たちが、これで終わりじゃないからだ。アルスメリア」
光を通す御簾に陛下が――アルスメリアが手をかざす。
俺はその手に、自分の手を伸ばす。そして重なりあった時、この寝所に張り巡らされていた球状の魔法陣が、魔力を吹き込まれて起動した。
侍女が泣いていたのは、この魔法に巻き込まれないように、離れることを命じられたからだ。それを、俺も理解していた。
全てが光に包まれていく。その中で、俺たちを隔てていたものが消える。
それは幻なのかもしれない。これから死にゆく俺が見た幻燈なのかもしれない。
それでも確かに、俺の手の中に、アルスメリアの手があった。小さなその手には、彼女がそこに存在する証――熱があった。
手を握り合わせながら、アルスメリアが背伸びをした。
それは護衛には余りあるほどの、彼女からの餞別だった。
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