第四十六話 紅の城

 魔皇姫として、その力を誇るべき存在。グランシャルク家の次代を担う希望。


 母上や、子供の頃から側仕えをしてくれた従者たちは、私のことをいつもそう言っていた。


 私は自分の代でもグランシャルク朝を維持し続けるために、ひとつの誓いを立てた。


 魔帝国の歴史の中で、女性が帝位についたことは幾度もある。それらの女帝は在位中に誰にも敗北することなく、戦いで負けることと皇帝の座を退くことは同義だった。


 決して、誰にも負けたくない。吸血鬼と呼ばれる種族の私たちにとっては、勝利は領土と従僕を増やすもので、敗北はその反対――全てを奪われることを意味する。


 千年前、七帝国の境に正体不明の雲海が生じるまで、魔帝国は西に隣接する聖帝国、東に隣接する鬼帝国と全てを奪い合う争いを続けていた。


 あらゆる戦闘行為を封じられる『不戦結界』。それは一度も途絶えることなく目に見える国の境界として存在し続けている。


 ――結界を作り、戦いを終わらせるための道標を立てた千年前の天帝。


 その存在に興味を持って調べてみても、その素性が知れる情報は残っていない。男性であった、女性であった、山のような大男だった、人形のように美しい少女だった――不自然なほどに記録は符合せず、まるで誰かが後世に伝わらないように隠蔽したかのようだった。


 『永久皇帝』と呼ばれるほどに神格化される中で、ひとりの天人としての足跡は限りなく薄れ、失われた。あるいは意図的に消された。そのいずれであったとしても、私は結界を作った天帝の存在に執着せずにはいられなかった。


 どうしてなのか、自分でも分からない。ただ、知りたい――けれど知りたくない。矛盾した思いが、永久皇帝の存在を知った時から、常に私の胸にもやをかけた。


 天帝国の永久皇帝に関心を持っていることを、私は周囲の誰にも明かさなかった。


 天帝国が七国同盟の要であっても、魔帝国は天帝国の結界を破れず、天帝国の仲介によって聖帝国との間に和議を結んだことを、今でも忘れられずにいる。


 魔帝国がその矜持を失わないためにできたことは、聖帝国と交流を持ちながら、決して馴れ合うことはしないということ。


『あなたは聖皇姫エリシエルに決して負けてはいけない。それが、魔皇姫として生まれたあなたの守るべき義務です』


 誰よりも強く。エリシエルだけでなく、他の皇姫たちにも決して負けたくない。 


 皇姫たちの中で一番年下でも、私はもう子供じゃない。侮れるようなところは何もない、この魔法学園に来るまでに、一日も休まず努力を重ねてきた。


 それなのに、エリシエルも、リューネイアも、私のことを対抗意識を持つべき存在として見たりはしなかった。ただ、各国の皇姫という立場が同じというだけ。


 リューネイアが見ていたのは、決して注目を浴びるべき存在でもなく、入学生の中で極めて優れた力を持っていたりするはずのない、伯爵家の生徒。


『魔力測定を最後に受けた生徒と話してからでなければ、私が入学生代表となることはできない』


 私は何も気が付かなかった。ただ自分の魔力を測り、幻影舞闘で相手に勝ち、特別科への配属を決めて、わずかな安心を覚えてさえもいた。


 二歳年上の相手にも私は負けなかった。いずれ私のことを侮っているエリシエルにも、他の皇姫にも、認めさせてみせる――そんなことばかり考えて。


 ロイド・フィアレスに事実上の決闘を挑んだのは、彼への嫉妬でしかなかった。


 私は彼の力に気がつくことができなかったのに、それでも私は彼に勝つことで、自分の存在に皆の目を向けさせられると思った。


『申し訳ありません、魔皇姫殿下』


 私の攻撃を何も無かったかのように受け止めて、自棄に陥りかけた私の身体を支えながら、彼は心から詫びるように言った。


 そのときにはもう、私の心は、彼の持つ色で塗られてしまっていた。


 そんな自分を認めるわけにいかないから、私は――。


 ロイドとの戦いでは使うつもりのなかった、血晶術の秘奥のひとつを唱え始めていた。


 ◆◇◆


 魔皇姫アウレリスが手に持った扇もまた、幻影闘技場においても特有の効果を発揮する魔道具であるのは明らかだった。


 自分の魔力を『血晶』に変換する、吸血鬼の固有魔法。その真価は『血晶』の『状態変化』にある。


 ――深き紅の霧に抱かれ、やがて世界は枯れ落ちる――


 それは紛れもない秘術――アウレリスが扇を翻すと、空中に残った軌跡に赤い魔力の文字が浮かび上がる。それは舞踏詠唱とでも言うべき、詠唱変換の高等技術だった。


 アウレリスの詠唱は扇を二度翻したところで完成し、纏っている赤い魔力が、霧状に変化して辺りを満たしていく。


 初めから彼女は『それ』を仕掛けることもできた。魔眼と血晶術の複合――相手の連続する意識に欠落を生じさせ、その時間を血晶術の影響下で延長させる。


 今アウレリスがしようとしていることは、さらにその上にある――両の瞳が燃えるような紅に染まり、さらに自分の魔力を赤い霧に変えて、この古城の空間全てを満たしている。


「分かっているはずですわ。この霧に触れただけで、あなたの血……その幻体を満たす魔力は、私の中に取り込まれていく」

「……こういった領域を、僕は前にも見たことがあります」


 千年前、聖帝国の城が魔帝国の侵攻によって陥落の危機にあったとき、アルスメリアは俺に密命を下した。


 その城が落ちれば、両国の均衡が傾く。聖帝国もまた天帝国と敵対しているという状況では、誰にも悟られずに干渉を終えることが求められた。 


 魔帝国の王族、そして貴族は、その権力に応じて軍事権限を併せ持っている。彼らは司令官でありながら、時に戦局を変えるための決戦戦力として、少数で敵陣の奥深くまで入り込むことがある。


 ――俺が戦った相手は、魔帝国において公爵の地位にある女性。アウレリスと同じ、吸血鬼だった。


 聖帝国の司教、僧兵たちが持つ魔力は魔族にとって天敵であるといえる。その不利をものともせず、彼女は聖帝国の将軍を単独で討ち取り、魔眼によって支配し、足元に跪かせていた。


 そのとき俺は吸血鬼の秘術である血晶術と、それによって作られる結界に足を踏み入れた。そして俺が負けていたなら、聖帝国は今の領地を保つことができていなかったかもしれない。


「吸血鬼と戦ったことがある……魔帝国に赴いたことが? 我が一族には所在の知れぬ者もいますから、天帝国に現れても不思議ではありませんが」

「詳しいことは申し上げられません。それに、今は猶予がない」

「ええ……そうですね。あなたはもう、私の『城』の中にいる」


 赤い霧が満ちたこの空間を、アウレリスは城と呼んだ。俺の身体を覆う魔力が、不可視の状態であってもなお、吸われようとしているのが分かる。


 その感覚は苦痛を伴うどころか、甘美とさえ言えるようなものだった。


 吸血鬼に血を吸われ、眷属とされるときに味わう感覚は、他のことでは決して得られないほどの陶酔をもたらすという。


「さあ、踊ってくださいませ。あの切り取られた空に、幻の月が浮かぶまで」


 ――紅き霧は鏡となり、我が姿を映し出す 紅晶鏡界クリムゾンパレス――


 アウレリスの扇がひるがえり、彼女の一方の瞳を隠す。もう一方の瞳が輝きを増す――それは支配の魔眼ではない。


「っ……!」


 幻体の感覚は、視覚、触覚など本体とほぼ同じであると言っていい。


 アウレリスが使った魔眼は、相対した者の視覚を惑わせるもの。初歩的な幻術の効果に近く、しかし絶対的に違う。


 効果が小さいからこそ、防ぐことができない。相手の動きを先読みして、自分の身体を動かすこともできない――なぜなら。


 アウレリスの姿が紅霧に溶けるようにして消えた瞬間、彼女の気配がこの紅霧の中で、無数に生じたからだ。


 前方に、右上方に、左後方に――そして、背後に。現れた殺気に、ただ感覚だけで応じる。


「――おぉぉっ!」


 剣を後ろに繰り出す――だがそこにあったのはアウレリスの本体ではない。


 紅い霧が結晶となって作り出した鏡。それは剣を受けて粉々に砕け散る――割れた破片のひとつひとつにアウレリスの姿が映り、こちらに微笑みかける。


『あなたには何も見えていないのです、ロイド・フィアレス。こうなってしまえば、決してあなたの剣は届かない』


 勝ちを確信したようにアウレリスが言う。


 血晶術によって作り出した鏡。それが映し出したアウレリスの瞳は、本体と同じように魔眼の力を持っている。


 魔眼を複製することなど、容易にはできないはずだ。ならば答えは一つ、本体の魔眼が鏡に映って効果を発揮しているのだ。


『――感謝していますわ。あなたのおかげで、私はまた強くなれる……!』


 アウレリスの気配が再び後方に生じる。しかし剣を振り抜いても、鏡が砕け散るだけ――手応えを全く感じられない。


(この紅い霧の中で、アウレリスはどこにでも存在し、どこにでも現れる……しかし攻撃しても彼女の姿を映した鏡を破壊するだけ……これが吸血鬼の『城』)


 あの時戦った彼女もまた、自らの勝利を確信し、憐れみのようなことを口にした。


『――これではどうですか?』


 囁くような声と共に、再び後ろに殺気が生じる。思考するより早く反応しかけて、本能が警告する――これは初めに後ろを取られたアウレリスの意趣返しなのだと。


 繰り出すべきは、今までよりも速く、鋭く、確実に相手の動きを止める斬撃。


 《第一の護法 我が剣は空にして、空を穿つ――『破空』》


 天騎護剣による、高速で身体を捻りながら放つ薙ぎ払い。血晶の作り出した鏡とともに紅霧に満ちた空間が二つに裂かれ、古城の壁に斬撃の痕が刻まれる。


 砕け散る鏡の一つ一つに映し出されたのは――扇で覆っていない、アウレリスのもう一つの瞳。


 ――紅き霧が包む時の牢獄 紅刻眼クリムゾングレア―― 


 扇で一方の眼を隠したときから、アウレリスはこの瞬間に向けて動いていた。


 高位の固有魔眼を発動させる際に生じる一瞬の隙を限りなく零に近づけるために、彼女が選んだ方法は――あらかじめ一方の瞳だけ『紅刻眼』を発動させておくこと。


 俺が後方に現れた鏡を砕いた瞬間、アウレリスの本体はさらに俺の後ろに回り、砕いた無数の破片に『紅刻眼』を映す。それはまさに、力持つ視線で織りなされた牢獄だった。


 『無心繰むしんそう』を使っていない今、『紅刻眼』を受けることは敗北を意味する。同時に二つの魔眼を使うことはできないという意識、そして過去に戦った吸血鬼をアウレリスが上回ったという事実が、俺の想像を超えていた。


 ――そんなところで、君は負けるのか?


(……っ!)

 

 まるでそこに、彼女が――アルスメリアがいるかのように、声が聞こえた。


 ――私は七帝国の魔法使いの誰よりも強くならなければいけない。


 ――君が『天帝の盾』であるのなら、最も強い騎士でいてもらいたい。




 誰よりも、強くなると誓った。


 主君の理想ゆめを、何者も妨げることができないように。


『君はいつでも高く飛べる。その美しい透明な魔力で、ともに世界を変えよう』


 声もなく、心が叫んだ。


 紅い視線が俺の意識を支配しようとする。しかし、俺の意識は連続している。


 最後の一撃を自分の手で放とうとしたアウレリス――その扇を、俺は剣の裏刃で受けていた。


「――ッ!!」


 アウレリスは驚愕する。俺が反応できると思っていなかったのだろう。


 魔眼を破るためには、目をそらすことをしてはならない。その言葉には続きがある。


 ――それは魔眼を破る方法もまた、魔眼であるということ。


「……鏡……」


 アウレリスの血晶術による詠唱変換は、魔道具の扇を組み合わせることで複雑な詠唱をも可能にして、この紅霧の結界を作り出した。


 ――天人もまた、魔道具によって詠唱変換を行う。そして戦いながら、詠唱を完成させる。


 《第三の護法 水面に映る月のごとく――『湖月』》


「私の詠唱を……戦いながら、再現して……」


 俺の詠唱変換は、剣の刀身に詠唱句を浮かび上がらせるというもの。そして俺の魔力は透明であり、アウレリスに詠唱を悟られることはなかった。


 アウレリスの眼前で、俺の姿を映した『透明な結晶』の鏡に亀裂が入り、砕け散った。


 《第二の護法 影は騎士の姿を映し、鎧をまとう――『影鎧』》


 鏡に俺の魔力をよろわせ、俺自らはアウレリスのさらに裏に回る。それだけなら体術だけでできることだ――アウレリスの注意が『影鎧』に向いていれば。


「――まだっ……!」


 弾かれるように振り返りざまに放たれた紅牙が、俺の剣を弾く。アウレリスは再び紅霧に溶けるように姿を消す――そして。


『はぁぁぁぁっ……!』


 ――紅き霧の中で、夢幻の如く影は舞う 霧幻紅影陣ブラッディ・イリュージョン――


 紅い霧のすべてが、アウレリスにとっての『爪』となる。


 あらゆる方向に浮かび上がったアウレリスの姿全てが、本体と判別できないほどの殺気と共に襲いかかってくる――振り下ろされる爪は紅い霧の中では『無限に』間合いを広げ俺の幻体を切り裂こうとする。


 霧の中で影絵のように映し出されたアウレリスの姿が代わる代わる実体化し、俺に向けて魔力を帯びた爪を突き出す――時に同時に、時にわずかにずらして、俺を捉えようとあらゆる手段を使いながら。


『あなたは……どんなふうに生きたら、そこまで……っ!』


 それでもアウレリスの爪は届かない。吸魔の力を引き寄せる『蜉蝣』は使っていない、ただ流れを読み、致命的な間合いにアウレリスを入れない――自在に間合いが変化するアウレリスの攻撃を、天騎護剣の裏刃で『流し』続ける。


 《第一の護法 激流に浮かぶ葉の如く――『浮葉ふよう』》

 

『……届く……届かせてみせる……私は……私はっ、魔皇姫なのだから……!』


 遥か後方にある古城の壁を削るほどの爪撃で薙ぎ払われても、それは避けられないということではない。


 流れを読み、最適の回避を選ぶことができれば、降り注ぐような連撃も凌ぐことができる。


 この戦いがどのような終わりを迎えるのか、俺の目はすでに終局を見ていた。


 幻体が持つ魔力は限られている。紅い霧の結界を作り、魔力で作り出した刃を俺に繰り出し続けているアウレリスは、いずれ限界を迎える。


 それを彼女も分かっているのだろう。それでも、最後まで舞う――魔皇姫の誇りにかけて。


 正面に現れた影が実体化し、爪を繰り出す。紅い魔力の刃が、顔の横をすり抜けていく。


 俺が攻撃を返さないことを、彼女も、見ている誰もが気づいている。こうなってはならなかった、この戦いの舞台に立った時には、覚悟を決めておくべきだった。


 同じ学友となる魔皇姫に、正式な模擬戦の場で剣を向けることを。


「……っ!」


 霧とは違う、銀色の光の粒が、俺の視界を通り過ぎた。


 魔皇姫の流した涙。それは決して、俺との力量の差が流させたものなどではなかった。

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