第十三話 名前
食事のあと、部屋に戻る前にミューリアから声をかけてくれて、就寝前に話す時間を取ってもらえることになった。
カノンはもう寝る時間になり、屋敷の一階ホールの明かりも最低限まで落とされていて、辺りは薄暗い。
俺は二階に上がって、書斎にいるというミューリアのもとを訪ねた。扉が少し開けてあるのは、入っていいというサインだ。
こういうとき、素直に入っていきたいのは山々だが――この何か起きそうな空気を、俺は見逃すことができない。
「失礼します……わっ」
部屋に入ったところで、後ろから目隠しをされた。俺は驚いたように声を上げるが、予想していたので全く動揺していない。
入り口の陰に隠れて、ミューリアが俺の後ろに回っていたのだ。彼女が手を外し、俺が振り返ると、ちょっと不満そうな顔をしている。
「もう少し驚いてくれると思ったのに。ロイドは本当に敏感ね」
「母さまの手だというのはすぐ分かったので、驚きませんでした」
「そんなこと言って、普段はかまおうとするとすぐ逃げちゃうのに。お母さんは、誤魔化されませんからね」
自分でも時々綱渡りをしていると思うが、これくらいならまだ『七歳の子供』としては違和感はないらしい。
しかし――ヴィクトールとのことは、俺がどうやって危機を回避したのかをミューリアに見られていたら、隠し通せていたか分からない。
「今日は本当に、カノンを守ってくれてありがとう。私はロズワルド子爵……ヴィクトール君の父君の対応で、家にいなくてはならなかったの。本当にごめんなさい」
ミューリアが深く頭を下げる。彼女の事情は分かっているし、子供同士で遊んでいてあんなことになるとは思いたくないものだ。
ロズワルド子爵は、ミューリアの寛容さに付け込んだ。しかし寛容は普遍の美徳であり、何があっても彼女の敬うべき点であることに変わりはない。
――というのは、アルスメリアの受け売りだ。戦いのない世界に必要なもの、彼女はその一つとして人々がより寛容になることを上げていた。
「母さまが謝ることは、何もありません。僕の役目はカノンを護ることです。それは、誰に言われなくてもそうしていたと思います」
「……ありがとう。謝りたいからというだけではないけれど、ロイドが何か話したいように見えたから、今日は遅くまででも起きていてもいいわ。何でも言っていいのよ」
就寝着の上からガウンを羽織ったミューリア――昔は添い寝をされたこともあったが、最近はされていないので、こういった服装は久しぶりに見た。
アルスメリアは自分のことを小さくて痩せていると言っていた。彼女は俺に『謙遜がすぎる』と良く言ったが、皇帝という立場でも自らのことを高く評価しようとしなかったのが、アルスメリアという少女だ。その姿を見れば、初めは誰もが言葉を失うというのに。
この感情に理由はないのかもしれない。ただ俺が、自分のことを見出したミューリアに対して、少なからず思慕を抱いているだけかもしれない。
僧院からここに来られたことで、俺は多くのことを知った。少なくとも僧院の中だけで育つよりは、早く求めるものに近づける――だから、感謝している。
「……ロイド、あなたはときどき、別の遠い場所を見ているような目をしている。何か、したいことがあるの?」
「僕は……探しているものがあるんです。それを、見つけないといけない」
「探しているもの……それは、ロイドの知っている人? それとも……」
打ち明ければ、アルスメリアのことだけでなく、彼女を探す俺が何者なのかも話さなくてはならならない。
しかし、ここで曖昧なことを答えれば必ず後悔する。
「はい、人を探しています。どうしても探し出したいと、ずっとそう思ってきました」
「……分かったわ。私もきっと力になれるはずよ。その、探したい人の名前は……」
「それは……」
第十七代天帝、アルスメリア・ルーン・レンティオス陛下。
その名を口にしたはずだった。いつものように声を出した、そのはずなのに。
「……っ……ぁ……」
言葉が出ない。その名前を口にすることができない。
「僕は……っ、本当は……天帝国、の……っ」
千年前、天帝騎士団に所属していた護衛騎士。天帝の護衛、ヴァンス・シュトラール。
いずれも、声にできない。言葉にすることを禁じられている――魔法によるものか、それとも別の何かに強制されているのか。
それでも声を出そうとすると、喉に激しい痛みが起こる。ミューリアはそれを見て、弾かれるように動き――俺を抱きしめた。
「いいのよ、無理をしなくても。辛いなら、言わなくてもいい……」
違う――辛いわけじゃない。俺はアルスメリアのことを覚えていて、探して――少しでも早く見つけ出したいのに。
その名前を声に出すこともできない。敬愛する主君の名を呼べない騎士が、のうのうと生きていていいわけもない――行きどころのない感情は、自分への失望に変わる。
「……母さま……ごめんなさい。僕は……」
「謝らなくてもいいの……そう、ロイドも言ってくれたでしょう。私はそれで救われたの……これからもあなたの母親でいていいんだって、そう言ってもらえた気がして……」
気がつくと目から涙が溢れていた。身体を離すと、ミューリアの頬にも涙が伝う。
互いの涙を拭おうと考えたのは、二人とも同じだった。そうしているうちに、俺はあれほど抑制のきかなかった感情を、鎮めることができていた。
「……お母さん、魔法を使っちゃった。ロイドに、少しでも安心して欲しいから」
「ありがとうございます。母さまの魔法は、やっぱりすごいです」
アルスメリアの名も、ヴァンスという名も――俺が口にすることができないのは、それが『転生の儀』の代償だからなのか。
しかし、記録には残っているはずだ。文字にして見せることも――しかし俺は、羽ペンを借りて紙に書こうとしても、
本に載っているアルスメリアの名前を指し示して、伝えることはできるはずだ。歴史書を持ってくることも考えたが、どうしてもその選択から思考が遠ざけられる。
これは呪いか、それとも制約か。俺は転生することで何かを犠牲にしたのか――今まで自覚できていなかったことさえも、呪いじみたものの一環のように思えてくる。
「……母さま、名前を言葉や文字で伝えなくても、僕が思っている人を探すような魔法はありますか?」
「ええ、あるわ」
ミューリアは事も無げに答える。相当難しいことを言っていると思ったのに――と、やはり簡単というわけではないようで、彼女は少し考えて、一度席を立った。
「今日はよく晴れているから、きっとあの魔法が試せると思うのだけど……ロイド、少し待っていて。書斎に置いていない、この家に伝わる秘伝の魔法書があるの」
「秘伝の魔法書……」
フィアレス家の秘伝が、アルスメリアの行方を探すための手がかりを与えてくれるかもしれない。
早まる鼓動を落ち着かせながら、俺はミューリアが戻ってくるまでその場で待った。
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