第十五話 猫の森

 七国暦807年 春陽の月 天帝国 フィアレス伯爵家近隣の森 最深部



 ここに来るようになって、七年目になる。最初に来たときは、人里からそれほど離れていないようなこの森の奥に、古代から状態が保たれている原生林があるというのは予想していなかった。


 天帝国の特産品でもある『天空樹エデンバウム』は、巨大建築物や船の竜骨に使われる材料として好まれるが、成長するまで時間がかかる。数百年の樹齢を持つ木々がこうして手つかずで残っているというのは驚異的だ。


 それほどの巨木が密生していても、日の光がこぼれて進む道を照らしている。苔むした岩がごろごろと転がって起伏も激しく、獣道そのものだ――ここには、カノンも成長したとはいえ連れては来られない。


 七歳のときから、俺はアルスメリアを探すために何をすればいいかを考えてきた。


 名前を声に出すことができず、自分から歴史書の記述を指し示すこともできない。千年前の皇帝について自然に話が出ることもなく、彼女が『転生の儀』を行ったことについて後世ではどう伝わっているのかも、記録はほとんど残っていなかった。


 それはアルスメリアがこの時代において、神に等しい扱いをされているからだ。


 七国戦争を終わらせたアルスメリアは、直系の跡継ぎを残さずに世を去った。夫を持たなかったことも、彼女を『孤高の救世主』として神格化させていた。


 護衛の名が歴史書に残ることはないが、アルスメリアが大願を成就する上で、側近たちはよく彼女を支えたという文章はあった。


 ヴァンス・シュトラールの名が記載された記録もあったが、護衛騎士筆頭となった年月が書かれているのみだ。フリード大将軍の戦績はつぶさに記録されていたが、護衛は護衛であることを広く知られるべきではないので、当然といえば当然といえる。


(俺のことが一行で終わっているって、アルスメリアは笑うんだろうな)


 そして自分の事績が、事実に基づきながらも脚色されて残されていることに、不満そうにするのだろう――「私などのことを後世に伝えてくれることには感謝しなければならないが、いささか美化がすぎる」と。


 十五年だ。生まれ変わってから十五年経っても、俺はアルスメリアのことを忘れてはいない。会わないうちに記憶が風化するということもなく、自分が思う以上に魂魄に刻まれた記憶は色褪せなかった。


 あの天蓋に映し出された星が分かれた時から、八年。俺はミューリアに国内の幾つかの場所に連れていってもらい、アルスメリアの魂魄を持つ人物を探したが、見つけることはできなかった。


 天帝国の皇帝の魂魄を、他国の人間が持っているというのは考えにくいが、可能性としては捨てきれないと思い始めていた。国内の情報を集めることも続けながら、他国についても知る必要がある。


 ようやく、その準備が整った。不戦結界――今は『封印境界』と呼ばれている七国の国境を自在に行き来することは難しい。


 ならば、どうするか。ミューリアの力を借り、相談して出した結論は――。


『朝の散歩はそこまでだ。いつもながら余裕が過ぎるぞ、ロイド』


 魔力感応で語りかけてきたのは、凜とした声――少年のようにも聞こえて、舞台劇の男役を演じる女性のようにも思える。


 言われた通りに余裕というわけではない、先ほどから常に注意深く『流れ』を読んでいる。


『こちらはおまえに言われた通り、準備をしていたのだからな』


 隠蔽された魔法罠――大樹の幾つかに仕掛けられており、遠隔発動ができる――を、声の主が一斉に起動する。


 魔法陣に込められているのは、獣の属性を持つ魔力――猛々しくもありながら、優雅で気品を感じさせる。


 しかし魔法陣から飛び出してきたものは、獰猛な山猫の姿を模した『獣精』だった。


 獣精は声を上げながら俺に襲いかかる――だが俺は、避けずにただ歩く。


 《第一の護法 嵐の海を渡る鳥のごとく――『凪』》


 相手は回避するところまで読んで動くが、こちらはそれをさらに読み、先を行く。ただ歩いているわけではなく、魔力に引きつけられる獣精の習性も利用し、攻撃を自分に当たらない場所に誘導した。


『おまえという男は、見ていて本当に腹が立つ……戯れていながら、馬鹿げたほどに強い。理不尽にもほどがある……!』


「これでも限界まで集中しているよ。ここでやってきた鍛錬の賜物だ」


『鍛錬などとまだ言うか。私はおまえを喰らいたいのだっ……!』


 俺の横を通った獣精が地面を削り、岩石の破片混じりの土埃が上がる。わずかな時間差を設けて波状攻撃で重ねられると、こちらから動く他はなくなる――そして誘うように作られた抜け道は、ただ一つ。


 相手の戦術も、最初の頃とは大きく変わった。生まれ持った強さと敏捷性を最大限に活かす、肉食獣の戦い方――そこに今は、狩猟者の戦い方が取り入れられている。


 最初は身体能力で凌駕され、あわやという場面もあった。だが俺はこの森に通い続け、ここで手合わせを続けた――全ては自分を鍛えるため、そして『猫の王』と呼ばれるバスティートがなぜこの森にいるのかを知るためだ。


『分かっていてもそちらを抜けるしかあるまいよ……ロイドッ!』


 俺は笑う――それは余裕からというわけではない。これから繰り出されるだろう相手の攻撃は読んでいる。


 本気のバスティートの攻撃を、思い描いた形で凌ぎ切る。今日は、そのためにここに来た。


 巻き上がった土と石礫が作る壁を抜ける。そこに仕掛けられているのは読みどおりの魔法罠――『縛竜陣』。


 竜を捕らえるために作られたとされるその陣は、捕まれば抜け出せない。


 両足を掴む、魔力で編まれた獣の手。そして拘束は上半身にまで及び、完全に動けなくなったところで、バスティート自身が本命の牙を立てる。


『――今日限りでこの茶番も終わらせてくれる!』


 猫の王が、天人を仕留めることができず、何年にも渡って戦い続ける。それはバスティートの本来の性質を考えれば、考えられないことと言って良かった。


 《第二の護法 影は騎士の姿を映し、鎧をまとう――『影鎧』》


 完全に捕らえられた『俺』が、気配を絶って待ち伏せていた猫の王に食らいつかれる――しかし、引き裂かれたのは魔力による写し身。


『入れ替えたというのか……抜け道のない、あの状況で……!』


「――抜け道ならある。分かっていたはずだ、バスティート」


 そう――巻き上がった土石の壁よりも、高く飛べばいい。


 上空にいた俺は身を翻し、バスティートの背中に着地する。白いふさふさとした毛並み――最初はこれに触ってみたいという、猫にとっては迷惑な好奇心から、頑張ってこの背に乗ろうとしたものだった。


「今日も僕の勝ちだね」


『む、むぅ……』


 困ったような声が聞こえるが、バスティートはしばらくすると戦闘態勢を解き、背中に乗っている俺をうかがった。


 俺が乗ってもびくともしない大きさの猫。千年前は天帝国に生息していなかったが、今に至るまでのどこかでその姿が国内で確認されるようになった。


『……今日こそおまえを喰らって、この馬鹿騒ぎも終わろうと思ったのだがな。終始遊ばれてしまい、私は不満だ』


「遊んでるわけじゃないよ。最初から言ってる通り、僕は本気であなたと友達になりたいんだ」


『私と友になって何になるというのだ。何の利益もあるまい』


「あなたは『翼を持つ猫』だから、僕より広い視野を持っている。遠くにも行ける……だから、憧れてるんだ。憧れる相手と友達になりたいっていうのは、そんなに変かな?」


『根本からずれている。ロイド・フィアレス、おまえは変人だ。それも相当な』


 ぼやくように言うと、バスティートは長い尻尾で俺の肩に触れて、降りるように促す。


 従うといつものように去ってしまうかと思ったが、美しい白猫は、今日はじっと俺を見てくる。二つの目の色は青と金色で、神秘的な輝きを放っていた。


『……しかし私の爪や牙が、おまえの身体能力を越えているというなら、当たらぬにしても多少は溜飲が下がる。当面は勝てぬようだが、いつかは喰らってやるぞ』


「ああ、それでかまわないよ。僕も簡単には食べられないけどね」


『ふん……まあいい、土産を持ってきたなら、出すがいい。話があるのなら聞いてやろう』


 毎回戦ってからでないと話を聞いてくれないが、一度落ち着けば急に戦いを挑んできたりはしない。それは騎士の信条にも通じるものがある。


 俺は運んできた荷物から、バスティートの好物である食べ物と、マタタビ酒の入った小樽を取り出した。この酒は人間には癖があって飲みづらいが、この猫の王は特に好み、舐めるだけで上機嫌になる。


『……これで餌づけされているのではない、おまえが私に献上しているのだ』


 そう言いつつも、長い尻尾が立ち、ふわふわと揺れている――ちらちらとマタタビ酒を気にする仕草は、大きな猫といえど何とも愛らしいものだった。

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