第三十八話 追憶
原生森林区は島の未踏地域をそう呼称しているだけのようだが、一日で見て回れないほどの広大な敷地があった。森林の中に洞窟を見つけたりもしたが、現時点ではここにカノンが来る予定もないので、調査は保留にしておく。
『ロイドたちが勉学に励んでいるうちに、私が暇つぶしに探索しておこう』
「好奇心は猫を危険に追いやる、というようなこともよく言われるけどね」
『心配してくれているのか? ならば危険があるとしたらおまえを連れてくるとしよう』
森林を駆け巡りながら魔法の撃ち合いをしたのだが、俺もティートもさほど疲れていない。手合わせが終わったあとは、ティートの背中に乗せてもらって移動していた――転移魔法陣まで戻り、宿舎の前にたどり着いたときには、もう日が沈む手前だった。
俺たちが屋敷の門をくぐったところで、中から二人のメイドが出てくる。一人は小柄で、一人は長身――どちらも魔力持ちだ。
「ロイド様、お帰りなさいませ。私は今日から勤めさせていただくことになりました、ソエルと申します」
「同じく本日よりフィアレス家の皆様にお仕えさせていただきます、コゼットと申します」
ソエルは緑の短い髪で、小柄で愛嬌のある少女だ。コゼットは赤みがかった髪を長く伸ばしており、細身だが何か武術を身につけているようだ――見るからに隙がない立ち姿をしている。
『一人は護身術など嗜んでいるということではないか。もう一人も魔力だけ見れば、それなりの資質を感じるな』
ティートの言う通りだが、それに加えてもう一つ気になることがある。それは、二人が俺やカノンと同じ年頃に見えるということだ。
「ソエルさんとコゼットさんですね。その、つかぬことを聞きますが、お二人は魔法学園の学生ですか?」
「はい、魔法学園の二年生です。学園には奨学生枠があって、お仕事をして学費の補助をしていただくことができるんです」
「私とソエルは春休みのうちに研修を受けていますので、従者としてのお仕事に関しては問題なくこなせるかと思います。よろしくお願いいたします」
同じ学生でも、授業が終われば仕事をする人たちもいる――自分たちが貴族として恵まれた環境にあると再確認しながら、彼女たちにあまり負担をかけないようにしなくてはと思う。
「こ、こちらの猫の
『脅かしているつもりはないが、やはり私の見た目は怖いのか』
『身体が大きいから迫力はあるだろうね。ティート、どうする?』
『朝と夜は同じ時間に食事を出してくれればいい。昼はこの者たちも学園にいるのだろう』
「……猫の王、バスティート……天帝国の方が騎獣とされているなんて……」
コゼットはティートを見ても落ち着いていて、興味深そうに見ている――ティートは背中から降りた俺を一瞥すると、ソエルに付き添われて屋敷裏の騎獣小屋に歩いていった。
残ったコゼットは俺を見ている――何というか、俺という人物を測ろうとしているようなそんな目だ。
「カノンと一緒に料理をしてくれていたと聞きました。僕からもお礼を……」
「い、いえ。それは、お仕事ですから……カノンお嬢様からはロイドお兄様のことを、とても紳士的で優しく、お強いとうかがいました」
「すみません、妹は多少僕に甘いところがあって……身内でも適度に厳格にしなくては、と話してはいるのですが」
そう言うと、コゼットは初めて微笑んだ。
「お兄様がそうおっしゃるだろうとも言っていらっしゃいました」
「いや、まいったな……悪戯なところもありますが、僕にはもったいない妹です」
「仲が良いご兄妹で何よりです。それでは……ロイド様、お召し替えはいかがなさいますか?」
少し緊張した面持ちでコゼットが言うが、俺は笑って答えた。
「着替えは一人で大丈夫ですよ」
「は、はい……かしこまりました」
貴族の男性が、女性の従者に着替えを手伝ってもらう――それは珍しいことでもないが、少なくとも俺は頼んだことがない。
「この家では従者の仕事をお願いしますが、お二人は僕たちにとって先輩です。どうか気を楽に……と言っても、嫌味になるでしょうか」
「い、いえ。そんなことは……そう言っていただいて大変光栄に思います。ソエルと一緒に、これから頑張ってお仕事をさせていただきますので、何卒よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします」
貴族とそうでない人の間には壁がある。階級に従った振る舞いをしたほうが、貴族に仕える人々を安心させられるというのも、これまで何度も見てきた。
俺は伯爵家の一員となっても、生まれながらに階級が人を隔てているという意識を持ったことはない。
――私の命の価値と、他の誰かの命の価値が違うなどと考えたことはない。
――君が私を守って死んでもいいというなら、私はそれを否定する。
――私に対する忠義が真実なら、ともに最後まで生きてみせろ。ヴァンス・シュトラール。
最後は自分ひとりだけで、終わろうとしていたのに。ともに生きろなどと、あの時どんな思いで俺に言ったのか。
アルスメリアは、どこまでも俺の進言に耳を貸さない、とんでもない主君だった。
「……ロイド様……?」
「ああ……いえ、何でもありません。時折考え事をする、悪い癖です」
俺は屋敷の中に入る――今の顔は、誰にも見せたくはなかった。
自室で着替えを終えて、ダイニングルームに行くと、カノンとミューリアが待っていた。今夜の主菜は魚料理――この島では魚介の類が手に入りやすいのだろう。
「お帰りなさい、兄様」
「お帰りなさい、お兄ちゃん」
同じ食卓を、二人と囲む風景。しばらくの間見られないと思っていたのに、当たり前のようにそこにある。
過去に向けられていた目が、再び
だが、ロイドとしての俺を見てくれている人もまた大切で。
カノンとミューリア。二人が居てくれるからこそ、今の俺がいると思っている。
「待たせてごめん、カノン。母さま、只今戻りました」
「全然待ってなんていません、丁度兄様が戻られる時間に合わせていたので」
「カノンちゃんの神業よね。お兄ちゃんのことなら何でもわかっちゃうのよ」
長く一緒に暮らしているからというだけではすまない、妹の勘というものがある。
そして彼女は、俺の心情がいつもと違っていると、決まってそれも見逃さない。
「兄様には、明日に向けて元気を出していただかないと。クラスの方々にお会いするのですから、覇気のある姿をお見せしなくては」
特に皇姫たちには失礼のないようにしなくてはいけない。クラウディナから聞いた皇姫たちの発言についても、後で二人には話しておくべきだろう。
「覇気か……そうだね。皇姫殿下は僕の成績を知っているから、背筋を正して堂々としていなくては、落胆させてしまいそうだ」
「お兄ちゃん、最初から正念場を迎えてるのね……何か困ったことがあったらお母さんに言ってね、助教官としてできるだけのことをするから」
「母さまにはご迷惑をかけないように、自分にできることをしてみます。カノン、それで明日のことだけど……」
魔皇姫殿下のことを話すと、さすがのミューリアも緊張した面持ちで、俺のことを心底心配しているようだった――しかし、カノンはというと。
「兄様なら、きっと大丈夫です。でも……一つだけ心配なことがあります」
「ん……?」
カノンは俺の反応を見て「仕方ない兄様ですね」というように苦笑する。
「どのような結果になっても、魔皇姫殿下が兄様に関心を持たれるのは避けられないように思います」
「それは……級友として、お互いに磨き合えるような関係になれれば、願ってもないことだと思うよ」
そう言ってもカノンは不服そうな顔をしている。ミューリアも同調していて、これはとてもよくない流れだ。
「どの国でも、皇族は誇り高い方々だから。お兄ちゃんが一目置かれる……いえ、見初められちゃうなんてことになったら、お母さんとしてどうすればいいのか……」
「試験の成績のことで疑問をお持ちになっているだけです。それについて納得がいく答えを出したいとおっしゃるのは、ごく当然の……母さま、僕の声が聞こえていますか?」
「兄様はまだご自分で自覚がないのです。お母様と私が、これまでどれだけ心配してきたか……そうですよね、お母様」
「ええ、お兄ちゃんったら夜会に出て少し踊っただけで注目されちゃうんだもの。身のこなしが洗練されていて、騎士様みたいに頼りがいがあるなんて言われて……お兄ちゃん、聞いてるの? お母さんは大変だったんですからね」
俺の動きが騎士のようだと感じていた人がいるなら、侮れない観察眼の持ち主だ――と、感心している場合ではない。
俺は母と妹によって同年代の女性から
夜間の護衛は、対象の部屋の外で行うのが普通だ。外部からの侵入者をいつでも防げるように、簡易結界に誰かが触れたら目が覚めるようにして休息を取る。
アルスメリアを護衛していたときも、最初のうちはそうだった。皇帝の寝室に入るなど許されるわけがなく、扉の外で仲間と交代しながら寝ずの番をしたものだ。
「この屋敷には天井裏があるから、そこから見守らせてもらうという手もあるんだけどね」
「それでは落ち着きませんし、兄様もよく休めません。本当は天蓋も無くていいくらいなのですから」
夜間の護衛をするために寝室の外で見張ると言ったら、カノンに部屋の中に引き入れられてしまった。
天蓋つきのベッドで、カーテンを閉じれば妹の寝姿は見えなくなる。カノンがそれでいいというのであれば、意地でも外で見張るというわけにもいかない。
「……兄様、本当に大丈夫ですか?
「僕は木の上でも寝られるくらいだから、長椅子なら寝心地が良すぎるくらいだよ」
「もう……兄様ったら。少しでも寝苦しそうにしていたら、こちらに……」
「……カノン?」
こちらに来るように、と言われるのかと思ったが、カノンは最後まで言わないままだった。
彼女はぷい、と後ろを向いてしまう。急な態度の変化に、俺はどうしていいかと考えて――こちらをうかがうカノンが、笑っていることに気づく。
「……私ももっと大人にならないと、兄様に嫌われてしまいますね」
「十分大人だと思うけど。すごくしっかりした妹で、僕の自慢だよ」
「……本当ですか?」
「うん。ゆっくりおやすみ、カノン」
カノンは頷くと、ベッドに入ってカーテンを引く。俺は長椅子に座り、毛布にくるまって目を閉じた。
「……兄様も、私の……」
囁くような声が聞こえてくる。俺は、あえて聞き返したりはしなかった。
「……おやすみなさい」
その言葉を最後にして、部屋の中が静かになる。
俺は音を立てないように振り返る。
淡い月光がカーテンを通り抜けて、眠っているカノンの姿がかすかに見える。
御簾の向こうにいるアルスメリアと交わした言葉が蘇る――彼女は、眠りたくないと言っていたことがあった。
「……っ」
胸を掻きむしりたくなるような、言葉にできない感情があった。
――俺が護りたかったもの。
今の俺が、護るべきもの。
どちらも必ず護ってみせる。もう一度出会えたなら、必ずそうすると誓ったのだから。
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