第三十九話 朝のフィアレス一家
外が明るくなり始めた頃、俺は長椅子に座った姿勢で目を覚ました。
寝入った時間はそれほど長くはないと思う。短時間で十分な休息を得る訓練はしているし、俺は元から睡眠が短い。
屋敷の周囲に張った結界に侵入を試みた者はいなかった。ソエルとコゼットの二人が朝方ここに来ると言っていたので、出迎えの準備をしなくては。
――この、兄泣かせの事態に対処してから。
「ん……兄様……」
ベッドの中にいたはずのカノンが、俺の膝に頭を預けて眠っている。俺の隣に座って、そのまま横に寝そべった姿勢――と、分析している場合ではない。
(起こしていいのか、この天使の寝顔を見せられて……まさかずっとこうしてたんじゃないだろうな? だとしたら俺は護衛失格だ……っ)
冷静に考えれば、カノンは俺が深く眠った短時間の間にここにやってきたということになる。しかしその隙を他ならぬ護衛対象に突かれてしまうとは――自省しなくてはならない。
そのうちカノンの睫毛が震えて、薄く目が開いた。俺は動くわけにもいかず、起きたばかりで驚かせないように大人しくする。
カノンはもぞもぞと身体を起こす。そしてむにゃむにゃと目をこすりながら、大きく伸びをする――まるで猫か何かのようだ。
「……ふぁ……おはようございます、兄様……」
「あ、ああ、おはよう……」
伸びを終えたカノンは、俺が戸惑う理由が分からないというかのようにふにゃ、と溶けるような笑顔を見せる。
我が妹ながら『フィアレス家の天使』は健在だ――こんな姿を見せられたら、同じ年頃の男子はひとたまりもないのではないだろうか。うちの場合女性でも関係なく、カノンの信奉者のようになってしまっていたが。
「今日から学校ですね……朝ごはん、兄様は何が食べたいです?」
「た、卵焼きなどが良いのではないかと……いや、いいんじゃないかな」
「くすっ……兄様、やっぱりお好きなんですね。あまーい卵焼きがいいですか? それとも、いつもと同じですか……?」
卵焼きに砂糖を加えるのはフィアレス領特有の食文化なのだが、俺にとっては故郷の味という以上に懐かしい味だ。天帝騎士団の食堂で出ていた卵焼きの隠し味が砂糖だったから――前世で経験した味を覚えていることに自分で驚くのだが。
食は人間の重要な欲求のひとつであり、その記憶は魂に刻まれる。そんなことをアルスメリアに話したら、彼女は笑ってくれるだろうか。
「今日もあーんして食べさせてあげますね、兄様……こうやって……」
「っ……カ、カノン……ッ」
長椅子に座ったままでは逃げ場がなく、妹に強く抵抗もできずに、そのまま後ろに倒されてしまった。カノンは俺の上に覆いかぶさるようにして、口元に手を差し出してきている――卵焼きをフォークで刺して差し出しているという想定だろうか。
「兄様、逃げては駄目です……動かないで……」
「ま、待って……カ、カノン。その服でそんなに近づいちゃ……」
「……?」
カノンが俺に覆いかぶさったままで、自分の服を確認する。寝間着の生地が薄く、窓から差し込む朝の光の中で、微妙に透けてしまいそうになっている――ミューリアは寝ているときも下着をつけることがあるそうだが、カノンにはその習慣がない。
「っ……はわぁぁぁぁっ……!!」
「だ、大丈夫、落ち着いてカノン、はっきり見てはいないから」
何とか妹の心に傷を残さないようにと努めるが、カノンの首から顔まできゅぅぅ、と真っ赤になっていく。
「ち、違うんです、兄様がうなされているようだったので、私、心配で、傍にいようと思って……それで、そのまま……」
「っ……そ、そっちの方か……」
「……ふぇ?」
「いや、何でもない、何でもないよ。ありがとうカノン、心配してくれたんだね」
俺は手を伸ばし、カノンの頭を撫でる。寝起きでも髪がさらさらとしていて、寝癖も一切ついていない。羨ましくなるくらいだ。
「……兄様に膝枕をしてあげようと思ったのですが、最初は隣に座っていることしかできなくて……そ、それで……」
「眠くなっちゃったのか。いいよ、僕の膝くらいなら幾らでも……」
「『くらい』ではないです、そんなふうに卑下するのは、兄様が許しても私が許しませんっ」
「……良かった。カノン、元気が出たみたいだね」
「あ……」
カノンはいつも「ありがとう」と言いたくなるような言葉をくれる。けれどいつも同じ言葉を繰り返していたら、伝わりにくくなるような気がして――俺はもう一度カノンの頭を撫でて、そして笑った。
「……兄様はずるいです。そうやって笑うと、私は簡単な妹なので、何も言えなくなってしまいます」
「僕には勿体ないくらいの妹だよ。簡単なんて、そんなことは全然ないしね」
「それはさっきの仕返しですか……? いいです、今回は許してあげます。兄様が元気なら、私はそれで十分ですから」
カノンはにっこりと目を糸にして笑う。
妹が言ったことと同じだ。俺もその笑顔を見るだけで、いつも救われている。後悔も焦りも、自分の弱さとして受け入れなくては前に進めない。
「では……着替えをしてから行きますので、兄様……」
「そうだな……僕はちょっと、屋敷の裏で気を引き締めてくるよ」
「兄様ったら……朝は肌寒いですから、風邪を引いてしまいますよ?」
仕方ないというようにカノンが言う。妹にはいつも呆れられてしまうが、俺には気持ちを切り替えたいときに行う習慣があった。
◆◇◆
屋敷の裏庭には井戸があり、そこで飲み水などを汲むことができる。
水の『流れ』を読んだところ、地中かなり深くに膨大な量の水源がある。岩盤を魔法で掘削して深部から水を汲み上げているため、そのまま飲めるほど水質が良い。
井戸に備え付けている滑車を使い、桶を引き上げる――水属性に魔力を変換すれば、深い位置にある水面から水の球を浮かび上がらせることもできる。しかし何でも魔法でやるよりは、筋力を鍛えられる機会は大事にしたい。
(といっても、本格的な鍛錬とは程遠いからな……授業で十分に身体を動かせればいいが)
魔法学園で体術が重視されるということは無さそうだが、全く教えられないということでもない。魔法を行使するうえで体力もまた重要というのは、俺としては全く同意できる考え方だ。
魔法と体術、それらを制御する精神力。この三つを常に鍛錬し、万全の状態であり続けることが護衛騎士としての俺の心得だ。
俺はここに出てくるときに簡素な稽古着に着替えている。上着を脱ぎ、呼吸を整えたあと、水の入った桶を頭の上に持ち上げた。
「……ッ!」
ザバ、と水をかぶる――目覚ましにはちょうどいい、肌に痛いくらいの冷たさだ。
続けて二度目の水を汲み上げ、もう一度かぶる。水で身体を清めるという風習は天帝国では色々な場面で見られるが、騎士の精神鍛錬においても水行が行われる。
前世で護衛騎士となる前、じっちゃんやフリードと山篭りをしたときに、滝行を鍛錬に取り入れていた。呼吸が止まるかと思うほどの水圧を受けても動じなくなったとき、一つのことに気づいた――物事の全てには『流れ』があり、それを理解したとき自然の脅威すらも脅威ではなくなると知ったのだ。
滝行でそんなことを考える奴はお前しかいないと言われてしまったが、それは俺の騎士としての在り方が二人とは違ったからなのだろうと思う。彼らは滝を力でねじ伏せたが、俺は滝と一体化することを選んだ。
水行を終えて、あたりを濡らした水を霧粒に変え、辺りの空気になじませておく。鍛錬ができる環境を与えてくれる全てに感謝し、後を汚してはならない。
『何をしているかと思えば……随分と古風な修行をしているのだな』
途中から見られていることは分かっていたが、前世のことを思い出していたことはティートには伝わっていないだろう。
長毛の大猫は騎獣小屋の戸を半分ほど開けて、俺のほうを見ていた。隠れているつもりでもなく、小屋から出てきてこちらに歩いてくる。
『……十五歳でその身体は、よく仕上がっていると言える。道理で私の動きについてこられるわけだ』
「ティートと鍛錬する以前に、食べられてしまっては話にならないからね」
『人の子など、飢えていなければそうそう食わぬがな』
「ははは……僕を喰らいたいって言っていたのは、脅かそうとしてたのかな」
ティートはしまった、というような顔をする――猫も存外、表情が豊かだ。
目を逸らして少し考えたあと、ティートはこちらをちら、と横目で見る。
『本当に喰らおうと思っていたぞ。しつこいと本来嫌われるものだ、それは理解しておけ』
「これは痛いところを突かれたな」
『ふん……どこが痛そうなものか。それより良いのか?』
「ん? ああ、ソエル先輩とコゼット先輩が来たみたいだね」
『それもそうだが……全く、おまえはこういうときにどうしてこう鈍いのだ』
二人は仕事をするために、天帝国貴族住宅区に通じる門を通ることができる。結界を通ってきたのも分かっているが、ずっと気配を探っているのも申し訳ないので、意識を遠ざけていた――しかし。
「「……あっ」」
屋敷の側面から、裏庭に回る角のところ――建物の陰に隠れて、ソエルとコゼットの二人がこちらを見ていた。
「も、申し訳ございませんっ、ロイド様……猫の
「違います、覗いていたわけでは……っ、お風邪を召されてはいけませんから、何か拭くものをお持ちしなくてはと……」
ソエルもコゼットも慌てふためいている――俺から目をそらしているのはなぜかと考えて、遅れて気がつく。
「す、すみません。これは僕の日課で……お見苦しいところをお見せしました」
「そそそんなこと、見苦しいだなんて、そんなことはぜんぜんっ……けほっ、けほっ」
「ソエル、大丈夫? ……私もその、見苦しいなんてことは……その、服を着ているときは、想像ができていなかったので……」
護衛騎士の心得として、筋肉を必要以上に大きくしないというのも一つだ。もし護衛対象が夜会などに出る際、その場に溶け込むような服装は必須となる。
『森で戦っているときは知りようがなかったが、女泣かせなのだな。ロイドは』
『い、いや……こんなところを見たら、年頃の女性なら動揺するっていうことを、もう少し考えておくべきだったとは思うけど。二人を泣かせるつもりはないよ』
『……意味が分かっていないか。妹君と母君の心中が、今後穏やかであることを祈ろう』
ティートは呆れたようにあくびをすると、ソエルを伴って騎獣小屋に入っていった。コゼットはわざわざ持ってきてくれたらしく、身体を拭くタオルを渡してくれる。
「……貴族の方も、そのように厳しい鍛錬をされるのですね」
「僕は貴族といっても、変わり者かもしれません。水行は準備をしてからでないと心臓に悪いので、真似をしないようにお願いします」
「ふふっ……はい、肝に銘じておきます。それでは、また朝食のお世話をさせていただきますので」
コゼットは赤みがかった長い髪を揺らして頭を下げると、ソエルの後についていく。
身体を拭いてから屋敷の中に戻ろうとしたところで――俺はゾクリとするような感覚に、再びソエルとコゼットが隠れていたところに目を向けた。
「お兄ちゃんったら……風邪を引いちゃうって何度も言ってるのに、またそんなことして……」
ミューリアが見ていた――寝起きがあまり良くないのでそろそろ起こさなくてはと思っていたが、今日は一人で起きられたようだ。
しかし彼女の目が据わっているように見えて、本能が警告する。この『流れ』は良くない、母の不興を買ってしまってはいけない――もう手遅れだが。
「水浴びは、温かいお湯でしなさいってお母さんはいつも言っているでしょう……?」
「母さま、それでは鍛錬として成り立たなくなってしまうので……」
「――駄目です」
言い訳は何も通じない、全て駄目。こう言われてしまうと、母に対して感謝しかない息子の俺としては、全面的にお手上げとならざるを得ない。
「お兄ちゃんをこれからお母さんが温めます……というのは、お兄ちゃんも大きくなったので今は許してあげます」
『今は』とつけている辺りに戦々恐々となる。しかしミューリアは、俺をただで見逃してくれる気はないらしい。
「お兄ちゃん、それをお母さんに貸してくれる?」
「ど、どうぞ……」
ミューリアはタオルを受け取ると、にっこりと笑う――仮面をつけていても、やはり彼女の魅了の魔力には気を抜くと当てられてしまいそうになる。
「じっとしててね、お兄ちゃん……」
じりじりとにじり寄られる――と、彼女が何をするのかは分かっていたので、俺は逃げることはしなかった。
ミューリアは髪を拭いてくれようとしていたのだ。タオルをかぶせられ、優しい手付きで髪を拭かれる――右左と手を動かすと別の部分も追従しているのだが、それが目に入りかけたところで目を閉じた。
彼女が無防備なのは、俺のことを息子として可愛がってくれているからだ。それは分かっているのだが、この距離感を甘んじて享受していい歳でもなくなってきている――俺の上半身はまだ濡れているのに、彼女の胸が当たってしまっている。
「母さま、その……お気づきでないかもしれませんが、服が濡れてしまいますよ」
「あっ……ご、ごめんなさい……っ」
ミューリアがぱっと離れる。「母親だから」と全然気にしないかと思いきや、そうでもないときがあるのは何なのか――と、動揺すると彼女の魔力に影響されてしまう。
「……お兄ちゃんの背がすくすく伸びちゃうから、お母さん背伸びをしないといけなくなっちゃった」
「髪は自分で拭けるので大丈夫ですよ……と言っても、母さまは聞いてくれないんですよね」
「ええ、だってお母さんは幾つになってもお母さんだもの。お兄ちゃんが結婚したら、そのときはお嫁さんのものになっちゃうけれどね……」
朝から一体、何の話をしているのだろう――結婚と言われても、まだ学園に入ったばかりでそういうことを想像していいのかもわからない。
(……アルスメリアを見つけられたら、俺は前世のように、彼女を護る。だが、アルスメリアはそれを望んでくれるだろうか)
ロイドとしての俺の幸福は、まず家族や隣人が幸せであってくれたらという以外にはない。そしてアルスメリアが望んだ平和が崩されないこと――そのためには、現状で対立している皇姫たちが衝突したとき、何もせずに看過するようなことはあってはならない。
「お兄ちゃんのことが、これからどんどん周囲に認められていったら……その時は、ロイドは何にも縛られないで、自由に、自分のしたいように……」
「僕は何があったって、今とそう変わったりしませんよ。母さまのお力になれるよう、頑張って勉強します。せっかく入学できたんですから」
「……良かった。昨日お部屋を覗いてみたら、お兄ちゃんがちょっと苦しそうにしてたから……カノンちゃんのおかげで元気が出たの?」
「か、母さまも見てたんですか……二人とも、僕の隙を突くのが上手いですね。完全に寝たのは少しの間だったはずですが」
「だって……本当はお母さんも一緒に寝たかったんだもの。広い寝室とベッドで寝ているとね、みんなで並んで寝ていたころを思い出しちゃって……」
「す、すみません、気遣いが足りず……その、胸に何か字を書くのは止めていただけますか」
さっきからミューリアが人差し指で胸板をなぞっている――くすぐったいというか、母親でなかったら誘惑されているのかと思ってしまうところだ。
「今のはね、一人で寂しかった気持ちを書いてただけです。でもお兄ちゃんが元気なところを見られたので、大目に見てあげます」
「ありがとうございます。そろそろ僕も着替えてきますので、母さまも支度をされてはいかがですか」
「お兄ちゃんったら、なんだか執事さんみたいね……お母さんにそんなに丁寧にしなくてもいいのに。でも、それがお兄ちゃんの可愛いところだけれどね」
ミューリアはひとしきり俺をかまって満足したのか、家の中に戻っていく。寝間着の上にガウンを羽織っただけの格好で、裏庭に出てきてしまうとは――伯爵家当主としては、少々大胆な行動だ。
「……ロイド様、お母様との接し方が、まるで恋人の……い、いえっ、そんなことありませんよね、そんな、禁断のっ……」
「ソ、ソエル……そんなことあるわけないでしょう。ロイド様は水浴びをして、清廉な気持ちでお母様と話しておいでだったのよ」
初対面では年齢よりも落ち着いているというか、厳格さすら感じたコゼットだが、年相応のかしましさというか、ソエルと二人だとそういう面が出てくる。
――君は自分が周囲の婦人からどう見られているか、多少は意識した方がいいな。無意識が罪になることも往々にしてあるのだから。
アルスメリアの言葉を思い出すが、確かに年頃の女性に上半身だけとはいえ、裸は見られてはいけないと改めて思う。どうもそれがきっかけで、ソエルとコゼットが落ち着かないように見えるからだ。
水行の鍛錬をするときは、人に見られないように注意することにしよう。そんなことを考えながら裏口から屋敷に入ると、朝食の良い匂いがしてきていた。
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