第三十五話 助教官


 あえて、ということなのだろう。こちらに歩いてくる女性は、平常時に身体を包む魔力も完全に抑制してこちらに歩いてきた。


 魔力で判別などしなくても、俺とカノンにはその姿を見ればひと目で分かるというのに。


「……お母様?」


 髪の色までは偽装できないし、普段から仮面をつけている女性も俺たちの周囲にはそうはいない。天帝国では仮面をつけること自体は稀ではなく、貴族の舞踏会などで仮面を着けた人を目にすることはあるのだが。


 俺もカノンと同じくらい当惑している――ミューリアがまるで、教官のような服を着ているからだ。男性ものを着ているレティシア教官とは違い、こちらは女性もので、細かい仕様も異なっているが。


「ふふ、何のことかしら。私はあなたたちの指導にあたる教官の一人、臨時講師のミュ……ミュー先生よ」

「いえ、母様だというのは分かっているので……そこの前提は崩せませんが」

「そんなつれないことを言わないで。私はあなたたちの母親である以上に、この学園にいる間は講師として公平でなくてはいけないの。だから、先生と呼びなさい」

「は、はい。では、お母様先生……でしょうか?」


 そういうことではない、と護衛にあるまじき指摘をしそうになる。カノンも分かってはいるのだろうが、すぐに切り替えられないようだ。


「カノンちゃんの気持ちは嬉しいけれどね、私は学園の中ではあなたのことをカノン殿って呼ばないといけないの。お兄ちゃんはロイド殿で、私はミューリア先生。そう、私は今日からあなたたちの先生になるのよ」


 もうミューリアと呼ばれること自体は受け入れたらしい。長く一緒に暮らしたが、未だに母の考えることは俺にとって時折難解だ。


 しかし、彼女がなぜここにいるのか、このところ家を空けることが多かったのはなぜか――それを考えると、俺はミューリアが突拍子もないことをしているとばかりも思えなくなる。


「呼び名を変えると、愛称を呼んでいるみたいで照れますからね……親子で何をしているのかって」

「お兄ちゃんがそんな初々しい反応をするのは珍しいから、それはそれで楽しそうね……じゃあお兄ちゃんだけはミュー先生にしようかしら」

「母様、兄様に恥ずかしい思いをさせるのは駄目です。家の中と外では、ちゃんと切り替えるのがいいと思います」

「カノンちゃんったら、すっかり大人になっちゃって……私と服を入れ替えたら、私の方が学生に見えてしまうかもしれないわね」

「い、いえ……その、私の服では、母さまには……」


 カノンが何を言いにくそうにしているのか――と考えて、俺は思考を散らした。カノンの服ではミューリアには胸がつかえるというのは、察しても口に出してはいけない。


「母様、以前この学園に在籍していたというお話でしたが、その……教官というのは、その関係でのことでしょうか」

「そう、可愛い子どもたちの顔を見に来ただけじゃないのよ。今回私がここにいることには、れっきとした理由があります」


 ミューリアはふんす、と胸を張ってみせる。ここで俺たちに会うまで長い間密かに準備をしていたのだろうから、かなり張り切っているようだ。


「私がここにいたころ、事情があって領地に帰ることになったことは、二人とも知っているのよね。マリエッタが話しちゃったって言っていたけれど、それを聞いてお母さんはとても悔しい思いをしました。いつか私が自分で話すつもりだったのに、って」

「申し訳ありませんお母様、私がお母様の昔のことを知りたいと、マリエッタさんにおねだりをしてしまって……」


 俺もそこに居合わせて話を聞いていたのだが、マリエッタさんはどちらかというと進んで教えてくれたので、カノンがおねだりしたというわけでもなかったと思う――が、まあ細かいことなので言わずにおく。


「でも、二人が小さいころはこの学園に来ると決まっていなかったから、家から通うのなら心配はないと思っていたの」

「それが、僕の我がままで家を離れることになって、心配になったと……」

「そんなことはないわ。ただ、機会があるとしたら今しかないと思ったの。私の籍が魔法学園に残っていて、卒業することができなかったから……当時学園で知り合った人たちに相談することにしたの」

「お母様も、学園に復学されるのですか?」


 その発想は全くなかった――ありえなくはないと思ったのだが、ミューリアは口元を隠して笑うと、自分の服の襟に触れて言った。


「教官の人はこれと似た服を着ているでしょう? さっきさりげなく言ったけれど、私は臨時講師として戻してもらえることになったの。受け持ちは特別科の助教官という立場ね」

「助教官……凄いです、ミューリアお母様。在籍していたときの成績がとても優秀だったから、そういった役職を頂けたのですね」

「さすが母様です」

「カノンちゃん、ロイドちゃん……じゃなくて、お兄ちゃんまでそんなに褒めてくれるなんて。やっぱり色々と調整してここに来たのは、間違いじゃ……」


 なかった、と安易に答えることもできない。それはミューリアが、天帝国の領地を預かる立場にあるからだ。


「しかし、フィアレス家の者としては、当主が魔法学園で助教官をしているというのは、責任ある立場として少し心配ではあります」

「そのために、中央でお仕事をして根回しをしておいたのよ。宰相様の覚えを良くして、他の貴族の方々にも貸しを作ったりして、今後の領地の方針についても家臣団に話してあるわ。昔ロズワルド家のことがあってから、みんなすっかり大人しくなってしまっているけれどね」


 ミューリアが若い女性の当主だからと軽視していた人々は、もうフィアレス伯爵家の領内には存在しないと言っていい。ロズワルド家がフィアレス家を転覆させようと企んだ行為を毅然として処断したことで、誰もミューリア個人の力、そして統治者としての資質を疑わなくなったからだ。


 彼女が今日まで俺たちにも知らせずに色々と動いていたのは、全てこのため。俺たちが魔法学園にいる間も、傍にいたいと思ってくれたからだった。


「……お母様は、本当に、無茶をなさいます。でも、私はそんなお母様が大好きです」


 カノンがそう言うと、ミューリアは少しだけ躊躇した――それは、大きくなった娘を衒いもなく抱きしめることに、遠慮を覚えたからだろう。


 そんなミューリアを見て、近づいたのはカノンのほうだった。昔はミューリアが屈み込んでカノンを抱きしめていたが、今は少しミューリアの方が背が高いだけだ。


「ごめんなさい、心配性で。あまり過保護にしたら二人に嫌われてしまうと思ったけれど、私も未練が残っていたの。ここで過ごした日々は、私の人生の中でも大切な時間の一つだったから」

「嫌うなんて、そんなことは決してありません。母様がここに来るために頑張ってくれたこと、これからも一緒にいられることが嬉しいです」

「ありがとう、カノンちゃん。お母さんもここに来られて嬉しいわ。助教官という責任のある立場を任せてくれた学園の方たちにも、感謝しなくては」


 俺たちの親であるからと、ミューリアに特別な便宜が図られた――ということでもないのだろう。


 彼女が在学中に優秀な成績を残していたこと、本意ではなく学園を離れたこと。学園の上層部に当時のミューリアを知る人物がいて、彼女の要望を聞いて、学園に復帰する形を考えた――それで、助教官という役職が与えられたということか。


「公平を期すために、私がいつも授業のお手伝いをするわけではないのだけど、一緒になることもあると思うわ。宿舎は同じにしてもらえることになったから、これから案内するわね。ティートちゃんは港で待っているの?」

「はい、これから呼びに行くつもりです。かなり退屈をさせてしまいました」

「騎獣が自由に遊べる場所もこの島にはあるから、後で行き方を教えてあげる。それじゃ、港まで一緒に行きましょうか。学園の中の主要な場所には、転移陣で行けるのよ」


 ミューリアはカノンと連れ立って歩いていく。俺が後ろからついていくとミューリアが振り返る――何を伝えたいのかは分かるが、素直に従えないのは、我ながら年頃の息子という感じがする。 


「お兄ちゃんも恥ずかしがらないで、隣に来て」

「そうですよ、兄様。せっかくお母様が来てくれたのに、格好をつけていてはだめです」

「い、いや、そういうわけじゃ……分かった、僕の負けだよ」


 俺は二人に追いつき、ミューリアの横に並んで歩いた。昔は手を繋ぐこともあったものだが、今はそうしない――出会ってからの時間を感じ、俺はしばらくミューリアとカノンの話に相槌を打ちながら、周囲の景色を見て歩いた。


 しばらくして話が落ち着いたあと、ミューリアは俺に尋ねてくる。


「……ロイド、私が嘘をついてたって怒らないのね」


 入学する前、ミューリアは『私もついていきたいけど、しなきゃいけないことがいっぱいあるから』と言っていた。それで先に学園に着いているというのは正直を言って意表を突かれたが、今にして振り返れば、ミューリアはそれらしい兆候をあらかじめ見せていた。


「僕たちをいつでも見守っている……とも言っていましたから。考えてみれば、そういう意味だったのかと納得しています」

「ふふっ……ロイドには見抜かれてもおかしくないから、あのときは緊張していたのよ。でも良かった、怒っていないみたいで」

「こんなことでは感謝こそしても、怒りはしないですよ」


 何気なく答えるが、しばらくミューリアは何も言わなかった。そのうちに、カノンが口を開く。


「お母様は、兄様が許してくれるかが一番心配だったのですね。兄様の優しいところを、誰より分かっているはずなのに」

「でも、お兄ちゃんが責任感が強いことも分かっているから。伯爵が領地を離れるなんて何事だ、って思っているでしょうし」

「思っています。ですが、領民をないがしろにするわけではない。合間を見て天帝国に帰ることができるなら、大きな問題はないと思います」

「ああ……こうしてお兄ちゃんのお墨付きを貰っても緊張しちゃう。息子にお説教をされるお母さんってどうなのかしら……」

「マリエッタさんにも、改めてお礼をしないといけませんね。お母様が安心して領地を留守にできるのは、家臣団の長であるマリエッタさんのおかげですから」


 そう――彼女はフィアレス家の侍従長としてミューリアを支えてきたが、元は子爵家の出身で、家臣団の長の役職を父親から継ぎ、領内で二番目の権限を持つ人物となった。


「マリエッタがこちらに来るときは日程を調整するか、私と入れ替わりでというのが条件の一つになっているの。彼女もここに来るのを楽しみにしているでしょうね」


 ミューリアの気持ちを尊重して周囲が動いていた。彼女の積み重ねた人望があってこそ、今回のことが実現したというわけだ。




 ティートはどこかに行っていたようだったが、俺たちが港に行くころには戻ってきていた。


『そこに見えるはロイドの母君か。私はティートと言う、会うことができて光栄だ』


「私はミューリア・フィアレスです。こちらこそ会えて嬉しいわ。猫の王バスティート」


『私は流浪の獣にすぎない。今は契約に基づき、ロイドとその家族である二人とともにありたいと思っている』


 俺と話すときに比べると随分丁寧な対応だ――と、妬いている場合ではない。


「猫様、私とお兄様は無事に合格することができました。これからお家に向かいましょう」


『何となく感じてはいた。ここに転移してくる生徒が皆落胆していたのでな。ロイド、何かやったようだな。一瞬おまえの魔力を感じたぞ』


「ティートも少しここを離れていたみたいだね。何かあった?」


 聞いてみると、ティートは少し考えるが、どうやら教えてくれる気はないようだった。


『猫にも色々とあるものだ。機会が来れば話してやろう、合格したのならここで過ごす時間も長くなりそうだからな』


 ティートはそう言って、ミューリアに案内され、宿舎に向かうために転移陣のある場所に向かう。俺とカノンもその後に続いた。


 この学園に知り合いがいる――ミューリアだけではなく、もしティートもそうだとしたら。それを確かめるのは、もう少し先になりそうだ。

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