第十話 家族
ミューリアは俺をこの屋敷に連れてくるとき、幌馬車の客室の中で、隣に座った俺に優しく語りかけながら、その一言を言うときだけは表情を曇らせた。
――私がこれから連れて行く先を、あなたが好きになってくれるといいのだけど。
この屋敷での暮らしは穏やかで、何の不自由もなかった。ミューリアの表情が憂いを帯びていたのは、豊かな暮らしのできる貴族たちの心が高潔とは限らないからだ。
権力を手にすると、さらに大きな権力が欲しくなる。高い場所から見下ろす世界を、小さなものだと思うようになる。
ヴィクトールが初めてこの家を訪れたとき、ミューリアは俺に何も強制しなかった。それはヴィクトールが――いや、ロズワルド家が平民を蔑んでいるとわかっていたからだ。
だが、俺はどう思われようと気にしない。この家に連れてきてもらったことを、今になっても後悔したことなど一度もない。
カノンが笑顔で過ごすには、俺は近くにいない方がいいのかもしれないと思ったことはあったが、それも今は過ぎた話だ。
「……私は、ロイド……あなたを、カノンを守るためにここに連れてきたようなもの。それをはっきりとあなたに告げずに、優しい
仮面をつけたままでも分かる。ミューリアがどれだけ悲しそうな顔をしているのかは。
そんな顔はしてほしくない。俺の気持ちを、彼女にはもっと明るい方向にとらえてもらいたい。
「僕はここで話を聞いていて、ミューリア母さまのことを、誇りに思いました」
そう、はっきりと言った。
ミューリアが見せたくない、貴族の陰の部分。心に波を立てる出来事だって起こる――それでも。
「僕がこの家に来たことを、気に入らないと思う人もたくさんいます。でも、母さまがいいと言ってくれるなら、僕はここにいたい。ここにいて、この家を守れるようになりたい」
「……っ」
カノンを護ったことが、ミューリアの期待通りだというのなら――俺は母の期待に応えられて嬉しいと思う。そのために連れてきてもらえたなら、願ってもない僥倖だ。
「僕はカノンを、大人になるまで守ると約束しました。もっと大きくなったら、母さまのことだって……母さまはとても強いけど、僕も強くなれるように頑張ります」
頬に傷すらも負わないように。妹に心配をかけないように――そんな領域を超えて、前世での全盛期よりも強くならなくてはいけない。
千年前と違うこの世界では、何が起こるか分からない。護衛騎士の心得、その一つは――常に自分より強者が存在すると考え、
「……私のことは、心配しなくても大丈夫。お母さんだって、強いんだから。でも……ロイドがそんな気持ちでいてくれて、嬉しいわ」
「僕は母さまに認めてもらって、ここにいるんだから。それくらいしなくてはいけません」
そう言うと、しばらくミューリアは何も言わずにいた。勢いのままに言い過ぎてしまっただろうか――と思っていると。
ぱちぱちと、手を叩く音がする。白い手袋をした手で、マリエッタさんが拍手をしていた。
「お見事です、ロイド様。いえ……主人に対して言うことでもございませんが」
「……マリエッタ、つかぬことを聞くけれど……ロイドに自然な姿を見せすぎているような気がするのだけど」
「私はロイド様の教育係ですので……ミューリア様よりも過ごす時間が多いため、自然と心を開いてくださったのです」
マリエッタさんが自分から素を出しているのだが、なぜか俺が原因にされてしまった。ミューリアはマリエッタさんにそれ以上何も言えず、すっと仮面を外して俺を見てくる。なぜ今外す必要があるのか――それは。
「……ロイドは、私よりもマリエッタと仲がいいのね」
――十九歳の母親が、思い切り拗ねている。
彼女の機嫌を損ねたら、俺は屋敷から放逐されてしまうのではないか。今からでもマリエッタさんに誤解を解いてもらわなくては――と考えていると。
ドアがノックされて、ミューリアが返事をする。すると、カノンが入ってくる――森でのことがあったので湯浴みをするという話だったが、まだ服装が変わっていないので、後回しにしたのだろうか。
「カノンちゃん……怖い思いをさせて、本当にごめんなさい」
ミューリアが絨毯に膝をつくと、カノンがその胸に飛び込んでいく。マリエッタさんがハンカチで目元を押さえている――彼女はつかみどころがない性格のようで、意外と涙もろいところがある。
「ぜんぜん、怖くなかったです。兄様が助けてくれました」
カノンの背中を愛おしそうに撫でていたミューリアが、動きを止める。そして、俺のことを見る――カノンを抱きしめて目を潤ませていたので、ちょっと目が赤くなっていて、じっとりと見られると申し訳なさが加速する。
「か、母さま、その……カノンと仲良くと母さまが言っていたので、僕もそうしたいと思っていて……」
「……兄様が優しいのは、お母さまが言ったから?」
「そ、そうじゃなくて……それは僕が自分で……」
転生前でもこんなに追い詰められたことがあっただろうか――と思う。あちらを立てればこちらが立たずで、
しかし俺の様子を見て、ミューリアの方が折れてくれた。
「ふふっ……そうね。お兄ちゃんは、カノンちゃんのことが元から大好きだもの。優しくしたいって思っていたのよね」
俺が一番困るだろう表現を選ぶミューリア――だが、それを否定しては始まらない。
「お兄ちゃんとカノンちゃんが仲良くなったら、ずっとこうしたいって思っていたの。私たちは、家族なんだから」
カノンを左腕で抱いたまま、右腕を広げて、ミューリアが微笑む。
「……私にご遠慮なくどうぞ。ロイド様」
マリエッタさんは俺の肩に手を添え、行くように促す――この包囲網を抜けようと思ったら、俺はどうやらもう少し大人にならないといけないらしい。
ミューリアの腕の中に俺も収まる。カノンが手を伸ばしてきて、俺と手を結び合わせる――間近で見る妹は、天使の本領を発揮していた。
「兄様と私と、母さま……これから、ずっと仲良しです」
「そうね……お兄ちゃんがもし反抗期を迎えたら、みんなで見守ってあげましょうね。マリエッタがいれば大丈夫かしら」
「……それは、私も参加してよいとのお許しでしょうか。では、失礼いたします」
マリエッタさんは俺とカノンの後ろについて、肩に手を置いてくる。俺は一体何をしているのだろう――そうは思いはするが、悪い気はしない。
そう思っていたのは、ミューリアが次の一言を放つまでのことだった。
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