チャプター3 平凡だけど幸せな、達也の一日。

 雨の日が好きだ。

 雨の日は大音響で、家でカラオケができる。


 おんぼろアパートで暮らしていると、小さな音にも隣人の反応がある。ましてアヤとセックスをするときは大変だ。部屋のきしむ音。あえぎ声が漏れないかとにかく神経を使う。


 湯上がりで靴下をはこうとした達也は、太りすぎのため腹が邪魔して左の靴下がはけない状態に少しイラッとした。懸命に前かがみになって、ようやく左足の靴下をはいた頃には喉が渇き、マンゴジュースのおかわりをしたくて台所へ急いだ。


 デブチンは昔から汗かきと相場が決まっていて、水分をよくとる。

 昨夜は夜中の3時頃に目が覚めた。


 大きな笑い声にびっくりして飛び起き、辺りを見渡すものの、どうやら夢の中で自分が笑っている事に気づき、愕然がくぜんとした。なので今日は少し寝不足ぎみで、おまけに体調も悪い。


 気を入れ直して達也は小説を書くことにした。厳密に言えばパソコンで文字を入力するので、文字を打つという方が正確かもしれない。


 話すことが得意な人が意外と書くことが苦手なことがあるように、文字を書くことが得意でも、文字を直接パソコン打ちするのが得意とは限らない。


 なので達也は、文字をノートに一度、下書きし、それをパソコンに打ち込むようにしていた。


 達也が今、書いている小説のモチーフは、身分の違う男と女が恋に落ち、やがて女性が自ら死を受け入れることで完結する。


 ありふれたものを題材にして小説新人賞を取ることが難しいことをまだ25歳の達也は理解していない。


 登場人物の特徴はまあまあ細部にわたって描かれていたが、それより大事なテーマがはっきりせず、訴えたいものが何なのか、伝えたいものがはっきりしなかった。


 流れるようなスピード感のある小説。そんな位置づけができる、若者好みの小説だった。


 構成、プロットも今一つ魅力に欠けたが、何より自分の小説を客観的に見る心の余裕を持ち合わせていないことが最大の理由かもしれない。

 一事が万事といえた。


 『すぐれた詩は、優美ゆうびなメロディーをあわせ持つ』

 これは同じく同人誌で作曲家を志す友人、影山純一の言葉で、優れた詩は、そのものがリズムを持っていて、ひとりでに作曲(名曲)ができてしまうたとえだ。つまり詩そのものが曲を導く。


 小説も、しかりだ。

 良い小説はひとりでに次のアイデアが次々と浮かぶが、駄作ださくはあとが続かない。筆が一向に進まない。


 むかしビリー・ジョエルが、何かの雑誌の対談で、名曲オネスティーを作曲した経緯を語っていたが、曲作りするまさにそのとき、神のお告げのように空から曲が舞い降りてくる現象は、ペン先に神が降臨こうりんする瞬間ととても似ている。


 ゾーン(神の領域)に入ってしまう瞬間を達也は大切にしていた。

 『やっぱり、もう少し登場人物に筆を入れた方がいいな』

 達也は自分の書いた小説を読み返し、赤く朱色のペンで、打ち出した原稿用紙に筆を入れた。


 みなが寝静まった頃に机に向かいペンを持ち、2~3時間、コンピューターで文字を打つ。単純な作業だが、心がやされる。自分を見つめ直すいい機会にもなった。


 達也はたとえ一瞬でも読む者を考えさせ、泣かせ。笑わせる。何か発信できるメッセージを書きたいと思っていた。しかし現実はなかなか思うようにはかどらない。


 だいいち、みながみな完璧な文章を書ければ、一億みな小説家になってしまう。もっといえば、完璧な文章など、この世の中には存在しない。 


 なので達也は文章が上達する訓練として、アメブロで、ブログを書くのを日課にしていた。


 最近では、

 『ゴリラ君にささげる歌』

 というフィクションを掲載し、若者から高い評価を得た。


 これはもちろん経験に基づいたものではない。達也はサラリーマンの経験がないので、人づてに聞いた話をまとめたにすぎない。

 

 『ゴリラ君にささげる歌』

 入社して2週間が過ぎた。人は見られている。見られていないようで、常にジャッジ(審判)されていると思った方がよい。


 中途入社33歳の私の先輩は、どちらもごついが、運動部経験のない、26歳だ。

 一人は自己破産していて、水商売上がり。


 もう一人はパチンコが趣味の通称ゴリラ君。

 不動産業界の経験が半年が売りの、入社3ヶ月の青年である。


 社長はそんなゴリラ君を見かねて、つい助け船を出す。

 『おい、上山。聞いてるか? 不動産業の経験が半年くらいじゃ未経験と同じだ。わからないことはすべて、Kさんに聞け』


 経験半年のゴリラ君は、不動産を少し知っているからか他人に聞くのがいやなのか、あまり周りの人の意見に耳を傾けたことがない。


 (これはどうしたらいいですかね~?)

 (ここを確認しないとトラブルになりますので必ず確認してくださいね。場合によっては業法違反になりますから)


 夕方確認したかどうかを尋ねると、していませんと平然と答えることが多い。

 いいかげん、説明するのが億劫おっくうになり、しまいには口をきくのもいやになる。


 もう一人の未経験の青年は、おぼえが悪いながらも、言ったことを忠実に実行する。


 この差が20年後、30年後にどう開くか私にはわからない。

 言っても無駄だ、そう思われる損失は言葉では計り知れない。だいいち、何かの時に適切な助言をもらえるはずがない。


 ゴリラ君のために尽くしてくれる人は、残念ながら皆無だろう。

 ゴリラ君を見て思うのは、たとえ松下幸之助さんの下で仕える機会をもらっても、きっと、

 『なんであんなじいさんが皆の心を引きつけるんだろう?』

 そんなふうにしか目に映らないのでは?


 学ぶ意欲の低い人は、それだけで不幸を背負っているようなものだ。

 自ら成長の芽をんでしまっているようなものだ。エトセトラ、エトセテラ。


 年下の達也が書くにしては、ちょっとま~えらそうだけど、ざっとまあ~、こんな感じです。

 

 アパートの部屋の明かりをたよりに、今日も一匹の野良猫のらねこが窓越しに影となり映った。ジャックのルーティーンで、一日の終わりに、達也の家を訪れるのが日課になっている。

 

 片目のジャックが、今日も達也の家にエサをもらいに、やってきた。ジャックは、野良猫どうしの喧嘩で、片目を失っていた。


 ふけた顔をしていたが、実際の年齢は見た目以上に若く、人間でいえば25歳くらいだろうか?


 のらねこ特有の寂しい目をして、達也をほんの斜め45度から見つめ返す。

 猫というのは警戒心が強く、猫が嫌いな人には決して寄りつかない生き物だ。


 『ジャック、よくきたな。ちょっと待っててね』

 猫の世界も、見た目以上に苦労が絶えないことをジャックの背中が物語っていた。


 片目を失うばかりか、よく見ると耳も片耳、喧嘩で食いちぎられていた。猫エイズ、猫の白血病が多いのも劣悪な環境では蔓延まんえんして当たり前のような気がしてならなかった。


 冷蔵庫に行き、残り物のシャケ、おつとめ品のちくわをハサミで一口サイズに刻み、野良猫用の小皿にのせて猫の前に差し出した。


 ジャックは喧嘩のしすぎで歯が悪い。元気なのは、しもの方だけだ。

 のらねこジャックは、

 『ミャー』

 と一度だけ鳴いてお礼を言うと、むさぼるようにエサに食らいついた。


 今日はいつもより早く9時から小説を書いているので、まだ10時30分だった。少し気分がすぐれないので、水前寺清子さんの『いっぽんどっこの歌』を聴くことにした。


 パソコンにインストールしたCDを聴く。 いつもの水前寺さんが男気おとこぎよろしく、気前よく、さりげなく歌っていた。しかし残念ながら、今日は雨が降っていない。


 ボロは着てても、心の錦♪

 どんな花よりキレイだぜ♪


 一番を歌い終えたところで、隣の人が壁をドンドンと叩く音がした。壁たたきをする気配が一向にやまないので、仕方なくイヤホンに切り替えることにした。


 『ちくそ~オレは小説家の卵だぞ。なんてことしやがるんだ。卵、というよりいや、幼虫かな』


 残念ながらこの町には達也に関心を持つ者など一人もいない。自意識過剰になっているだけで、誰にも相手にされていないことに、達也は気付いていなかった。


 『オレが、オレがの我を捨てて、おかげおかげの、げで生きる』

 ワープロ打ちした壁の張り紙が、今日も寂しく達也に話しかける。


 そうだ、感謝の心を忘れては、身もふたもない。アパートに住まわせてもらって、雨風しのがせてもらってるだけでも感謝しなきゃ。


 こんなに安い賃料で、暮らせるアパート、ほかにないもんな。

 達也は自らの考えを改めることにした。


 ちょうどそのころにはジャックは皿のエサをきれいにたいらげ、寝床ねどこへと帰ってゆくところだった。


 『あ~あ~また窓に小便しょうべんぶっかけやがって』

 これも1つの、ルーティーン?


 ジャックが尻をふりふり悠々ゆうゆうと寝床へと帰って行く。

 『あ~引っ越したいな。でも金もないしな~。引っ越したら、ジャックが餓死しちゃうかな』


 達也は、25歳にして、昭和生まれによく間違われた。所かまわず、受けないダジャレを連発するからだ。


 『あったり前田のクラッカー』

 ひとりごとの今日のギャグも毎度のこと、やはりさえていなかった。


 不意にアヤの声が聞きたくなり、アヤの自宅に電話をした。暗記してるはずの電話番号下(しも)4桁が、不意に頭に思い浮かばなくて、お茶を飲んで一息入れた。10秒ほど考えて、ようやくアヤの自宅に電話した。


 トウルルー。トウルルー。トウルルー。

 3度の呼び出し音で受話器が上がった。電話に出たのはアヤだった。


 『島崎です』

 『アヤか? オリだ』


 『どちらのオレ様ですか?』

 『何を言うてケツかる、イカの金玉。会えなくて寂しいよん。むすこもビンビンやで』


 悪のりするときの達也は、いつも関東なまりの、なぜか関西弁を話すことが多い。いつか風俗で幼児プレイを体験したいと思っているくらいなので、会話にもときどき幼児語が入り交じる。


 『オリの、ちんぐり君は、ビンビンや。アヤのマングリちゃんは、どうでチュか?』

 赤ちゃん言葉がとどめを刺した。


 『はあ?』

 『アヤちゃ~ん、大好きデチュ』


 『あの~、わたくしアヤの母でございますが…』

 声が似ているのをうっかり忘れていた、うっかり者の八兵衛、達也でした。穴があったら入りたいと思ったところであとの祭り。


 お母さんは、

 『あなたの、ちんぐりは、まあいいとしても、人のマングリまで、心配なさらなくてもよろしいんじゃありませんか?』


 ものすごい音を立てて、受話器を置いた。 

 開いた口がふさがらないのは、達也だった。


 う~アヤのお母さんだなんて、これは喜劇を通り越して悲劇だ。あえなく撃沈したのでした。 


 聞くところによれば、アヤはお風呂に入っているそうで、あともう20分もすればお風呂から出てくるとのことでした。


 さすがに折り返し連絡を欲しいなんて言えないし。こちらからもう一度なんて。

 この日から、母親の待遇はもちろんのこと、アヤの父親からも真剣につきあいを反対されることになることを達也は思い知るのである。

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