チャプター2 墓参り。

 神様はどうして女性をヒステリーにお創りになったのですか? 

 女性は失敗作ですか?


 それとも女性とは本来ヒステリーな生き物なのでしょうか?

 神様、教えてください。


 エイメン。

 青山リリーはそこで歌を歌った。


 「歌を忘れたカナリヤは、後ろの山に捨てましょか? いいえそれはかわいそう」

 竜一が死ぬ間際、よくリリーに歌って聞かせたこの歌を墓前で3番まで歌った。


 年1回、法事したところで、故人が現世で生き返るわけではない。前を向きなさいと、リリーは友人から何度もたしなめられた。


 けれど思い出に変えるには荷が重すぎて、どうにもこうにも処理できなかった。

 あの日以来、竜一は2度とリリーの前には現れなかった。


 朝起きたとき、そして夜寝る間際まぎわの合図のワン切りベルも、あの日を境にこなくなった。


 リリーは遠く空を見上げた。

 雲1つない青空がむなしく縦横じゅうおうに広がった。


 「なんで除夜の鐘を108突くか知ってる? それは108の煩悩を打ち消すためなんだよ」

 竜一がいつか語った言葉を思い出し、悲しみから解放されたいと思った。


 思い出というものは、大概、成就した段階で輝きを失う。

 成就できないからこそ、人は思い出を永遠に温めようとするのだ。


 リリーは竜一を裏切った。

 竜一を捨て、としが50も離れた佐村河内横溝に従った。


 利用価値を考え、お金のあるなしを計算に入れ、男2人を両天秤りょうてんびんにかけ、その結果、竜一を捨てた。


 もう一度。もう一度だけ。

 神様。

 竜に会わせてください。


 自分の言葉で竜にあやまりたい、心の底からそう思った。

 会いたいときに、伝えたい言葉が届かないのはどうしてなんだろう。

 それが恋人というものの宿命なのだろうか。

 思いはそのまま深い郷愁につながった。


 夜空に輝く一番星になって、リリーを遠くから照らすよ。いつも。どんなときも。オレはリリーを日なたになり、影になって、照らし続ける。リリーを一人ぼっちにはさせない。約束するよ。


 竜一の言葉はそっくりそのまま現実となった。

 竜一は多くを語ることなく、あの世へと旅立った。


 せめてあの夜、そして竜一の子供を身ごもったこと。

 子供である竜路との暮らしを少しでも伝えたいと思ったが、時既ときすでに遅かった。


 一番伝えたい言葉なのに、伝えたい思いは夜の空にかき消されてしまった。

 言葉とはそんなものなの?


 伝えたい相手に、なぜか伝える機会を失ってしまう。

 リリーは胸を痛めた。


 竜一が死んだのは、リリーへの当てつけがすべてだった。

 リリーが追い込んでしまったようなものだった。


 リリーが一生、竜の存在を忘れないよう、心の傷としてかさぶたとなって皮膚の上に残ったようなものだった。


 リリーはいつも心の中であの日の竜一を追いかけていた。

 なぜ身を崩すのを知っていながら引き留めなかったのか。ヤクザ社会に身を染めた竜一をなぜ更生させなかったのか。後悔の念で押しつぶされそうになった。

 

 夏。太陽がサンサンと降り注ぐ丘陵地に、1人の少女が荷物を持ち出向でむいた。

 

 小さな御影石みかげいしでできた墓石はかいしの前で、リリーは戻ることのない日々を想った。


 白いブラウスを着たリリーは、風を感じることもなく、丘の上で膝を丸めた。

 竜一の3回忌が訪れ、リリーはいても立ってもいられなくなり、子供を連れ、小高い丘の上に登った。


 道ばたに咲く西洋タンポポ。時期を間違えたヒナゲシ。ピンク色した虞美人草ぐびじんそうが、小高い丘の中腹に所狭しと咲き誇り、リリーを出迎えた。


 小高い丘の中腹に座り、リリーは数分間。同じ姿勢のまま過ごした。

 長いS字スロープを抜けた、中規模な墓地の中央で、青山リリーは墓石はかいしおけの水をくまなく与えた。


 「竜一さん。次、産まれてくるときは絶対一緒になろうね。ごめんね。あなたの気持ちをわかってあげられなくて」

 3歳になった子供の左手をそっと柔らかく握り、青山リリーは天をあおいだ。


 リリーの瞳に涙があふれ、それを見た子供が不思議がった。

 雨雲が頭上に広がった。


 霧状の小雨こさめがリリーの真上から降り注ぎ、髪の毛をシトシト濡らした。

 リリーはさほど気にも留めず、墓石に語りかけた。


 「おかあたん、どうして泣くの? 心配いらないよ。僕がいるよ。ずっとそばにいるからね。大丈夫だよ。心配いらないよ」

 子供の竜路がリリーをなだめた。竜路にはまだ本当のことを何も言っていない。


 リリーが深く愛した男のこと。それが竜一であること。竜路の父親だということ。

 リリーは何も告げず、この3年を過ごした。


 山肌からの風を耳で感じ、膝を抱え。霧状の雨をしのんだ。体からふっと力が抜けてゆくのを遠い記憶に重ねた。


 木々は雨に濡れ、大気は湿気を孕んだ。

 どんよりとした空はリリーの心のようで、見通しがまるで立たなかった。


 眼下がんかには、雨露に濡れた屋根が白く煙り、なだらかな勾配こうばいをつくっていた。


 傾斜を利用して建てられた民家が、ぽつりぽつり間隔を開けて、立ち並んでいる。

 しっとりと濡れた木々は遠く。深みを増し。リリーはその場から離れようともせず、あるがまま祈りをささげた。


 竜一は小さな石になってしまった。

 話したくても、もう何も語ってくれない小さなグレーの墓石に。


 竜一の家族はリリーを恨んで暮らし、葬式にも参列させてもらえなかった。

 雲を見上げる。


 雲は比較的ゆっくりと東の空に流れ、灰色におおった空を規則正しく泳いだ。


 竜一を想った。

 竜一を死に追いやったのは自分だ。

 リリーはやるせない思いで、右手の平をながめた。


 雨が小さな薄紅色うすべにいろした手のひらで小さく雨粒となって踊った。

 竜一の遺体は、それはそれは、むごたらしい最後をしていて、とても見るに忍びなかった。


 前歯は上の歯が3本しか残っていなくて、下の歯が2本辛うじて抜け落ちず残っていた。わずかに残った歯も、ぐらぐらで、歯茎はぐきから抜けかけていた。


 鼻は内側にめり込み、目玉は両目がえぐられ、竜一がバットで撲殺ぼくさつされたことが刑事の口からリリーに伝えられた。


 竜一はヤクザ社会に足を踏み入れ、ヒットマンとして生涯を終えた。

 それも未遂の状態で敵対する相手に拉致され、袋だたきにあった。


 舌はのびきり、壮絶な拷問が繰り返し行われたことを物語っていた。

 肝臓は破裂し、右腕は根元から引っこ抜かれていた。紫色のあざが体の至る所にあり、それはそれは無惨な死に様だった。


 顔に十字の切り傷があり、ほおは刻まれ。頭髪もわずかに前髪が残るだけで、ほぼ9割方、ナイフのようなものでけずり取られていた。


 ペニスにはくぎが48本。尻の穴には丸太まるたが串刺しになり。

 背中の骨もぐにゃぐにゃで、まるで豚の死骸しがいみたいだったと、検死官がリリーに告げた。


 竜一は、幾つもの重しをつけられ、どぶ川に遺棄された。

 それは見せしめを意味していて、発見されることを前提としていた。


 リリーは深く落ちくぼんだ瞳で、竜一との思い出の日々をたぐろうとした。

 そこには優しい竜一少年の姿。澄んだ緑色した瞳しか思い浮かばなかった。


 検死官は言った。

 「思い出を大事になさってください」

 それほど変わり果てた竜一に、かける言葉は何もなかった。


 どうして私は、あの白髪の老人。佐村河内横溝を信じてしまったのだろう。

 リリーは竜一と別れることになったあの日をまわしく思った。


 早朝握ったおにぎりを墓前にそなえた。

 好物のサザエの壺焼きを2つ、献花台にそなえた。


 「竜、腹一杯お食べ」

 あの世で食べ物に困らないよう、おにぎりを2つ握り置いた。


 竜一が大好きだった、フォゲット・ミーナッツ。忘れな草も、忘れずに添えた。

 リリーは深く目を閉じた。

 聞こえてくるのは、竜一がタバコを取り出すときの、ビニールがよれた、くしゃくしゃという音だった。


 耳をすます。

 リリー。もういいんだよ。

 すべては終わったんだ。


 僕は誰もうらんじゃいないよ。

 リリーのことも。あの白髪はくはつの老人のことも。


 竜一の声が聞こえるような気がして、リリーは辺りを見回した。

 さあ。どこにでもお行き。

 好きなところに行っていいんだよ。


 もう誰もリリーを束縛したりしないから。

 まだあどけない顔をした竜一少年が、 寂しげな笑みを浮かべてリリーに語りかけた。


 強がりを言うときの竜一そのもののこわばった表情で、リリーを見つめ返す。

 すべては幻が見せるすべにすぎない。


 リリーは立ち尽くし、そしてまた膝を抱え、お座りをした。 

 やがて彼女は立ち上がり、スカートに付着した濡れた枯れ草を指で払った。


 竜路の頭をハンカチでなで、歩幅をせばめながらなだらかな小道を下った。

 坂道の途中に停車したステーションワゴンの前で立ち停まり、キーレス・エントリーした。


 左足から室内に踏み入れ、少し遅らせて右足も車内に引き入れた。

 イグニッションにキーを差し込む。エンジンが遅れて作動し、それに伴う深い回転音に耳を澄ませた。


 静かなモーターの音が彼女を包んだ。

 ナビゲーターに触れた。


 彼女はジョージ・ウィンストンのあこがれを聴いた。

 いつか竜一が演奏者を尋ねたCDだ。


 だんだんと強く、そして弱くなるピアノの音色に、彼女は深く耳を澄ませた。

 動き出さず、そのままの姿勢で最後まで聴き、CDがチェンジしたのを確認した。


 一曲、聴き終え、リリーはフーと息をはき、竜路を見た。


 竜路が、

 「お母たん。なんで家に帰らないの。ポチがおなかすかせて待ってるよ」

 そう言ったが、彼女はすぐには動作しなかった。


 彼女は姿勢を崩さず、竜路の頭を左手でなでた。

 そして左手でギアをオートドライブに入れ、車を発進させた。


 チェンジしたCDの一曲目が車内に静かに流れた。やはり心地よいすべしで、今度はサクソホンの哀しげな音色だった。


 彼女は車を走らせた。

 竜一の写真を左手で持ち、運転しながら彼女は遠慮がちに写真を眺めた。


 まだ2人が上手に付き合っていた頃の写真で、試練が訪れていなかったころのものだ。


 思い出だけがまた一つ歳をとり、彼女の胸に悲しみを運んだ。

 リリーも竜路も、何も変わらず今日という日を迎えた。


 竜一だけがこの世にいない生活に、果たしてなれることができるのか。

 リリーは空を仰いだ。

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