チャプター1 ハメマラ。

 『ハメマラって、知ってるか?』

 むかし第二次世界大戦を経験した88歳のおじいちゃんが健太に問いかける。おじいちゃんといっても馬鹿にしてはいけない、神奈川県で6店舗をてがける不動産会社の会長で、まだまだ現役の営業マンだ。


 当然、しもの方も現役で、さおの方は、立ちは悪いが辛うじて使える。絶倫とまでは言えないが、ふにゃちんだなんてバカにできない。24歳の彼女だっている。


 さすがに精液は出ないが、イクとき、スカッと音が出るような、こじゃれたジイサマだ。ってか、自分でイクとき、スカって言ってるみたいですが……。


 このおじいさんはツワモノで、商売ガタキのヤクザ屋さんに、拉致されそうになったことがあり、この地区では有名な名物おじいちゃんとして名が通っている。


 学習塾も開いていて、親御さんの顧客からの紹介もあり、客もリピートしている。

 そこそこ繁盛しているのは、おじいちゃんの人柄か?

 しかし、そんなおじいちゃんにも、裏の顔があった。


 そのむかしとは言っても戦後、戦地から日本に帰ってきてからすぐの頃、那須の20000坪の青地(死に地)を1000万円(今のお金で1億円)で売買した伝説の詐欺師でもある。


 建設業を営んでいた頃には、足場から落ちて死んだ土木作業員を葬式代がもったいないとかで人柱じんちゅうとしてコンクリートと一緒に埋め、警察に届けなかった、札つきの悪じいさんだ。


 友人は法務局の謄本とうほんのデーターを書き換えて詐欺を起こし、刑務所で3年の刑期を勤めた過去を持つ。


 会長と社長にはオメルタのおきてがあり、絶対に口外しない約束事が11条ある。でも今では悪いことから足を洗い、お天道様に顔向けできないことから完全に足を洗ったのは立派だ。


 『ハメマラっていうのはな、歯。目、マラの意味でやな、年をとると歯、目、マラ(ポコチン)の順に役に立たなくなるという隠語じゃ』


 朝の3分間スピーチは、いつも時間がオーバーして終わらない。けれど結構おもしろいことを言うので、従業員には評判がいい。


 駄目な会社は会議やミーティングばかり長くて、なかなか営業を外に送り出さないが、ここは簡潔明瞭かんけつめいりょう、スピーチも短かった。


 おじいちゃん……大東会長は、

 『君たちには革命を起こしてほしいんじゃ。我が社に革命を起こしてくれ』

 とも言った。


 『全責任はわしが取る』

 そう言い切った。


 会長はいつか会社を全国規模にしたいと思っているが、なかなか現状はそう簡単にはいかない。こうして会長の夢は社長に受け継がれた。


 会長がスピーチを続ける。

 『手当という言葉を知っておるかね? 手当と言うのはだな、調子の悪い、冷えた患部、胃や腸に、直接、医者が手を当てることじゃ』


 そのむかし江戸時代、まだ薬がこれほど人様に行き渡っていなかったころ、調子の悪い患部に直接、手を当てて体温を上げ、体調を取り戻すことがあったそうだ。


 会長は、基本、薬を飲まない。飲んでも漢方薬で、化学薬品は滅多めったに口にしない。なので自然治癒を信じていて、体調が悪くなると寝るか、冷えた患部に自分の手を当てる。


 『まずは自分の成績になることを考えにゃいかんぞなもし。それが駄目なら次いで、利益を店に落とすことを考えにゃあかん。それが駄目なら他の支店。それが駄目なら、グループ会社。姉妹店。それが駄目なら関連企業。順番を間違えちゃ、いかんぞなもし』


 会長の3分間スピーチが終わり、社員は皆一同、自分の席に戻る。事務員、吉川直美の入れたお茶は、よく暖まっていて、おまけに心がこもっていた。


 『今日もガンバ』

 交通費の書類を受け取りに来た営業事務、吉川が、健太に声をかける。健太は親指を突き立て、トップガンのトムクルーズみたいな仕草をする。けれどあまり格好良くない。


 『一本いっとく?』

 冷蔵庫からリポビタンDをもってこようかと、吉川が言う。


 健太は、

 『うん』

といい、早速グビッと一気いっきした。


 人というのは、とかく不満を持ちたがるものだ。1つの不平不満が腐ったミカンのようにジワジワと会社全体に伝染しないよう、会長は常に全神経を使い目を光らせていた。


 『不満があるなら結果を出してから物を言え』

 それが会長の口癖でもあり、本心でもある。


 時にガス抜きも必要なのはわかるが、ガス抜きばかりでは会社は成り立たないし、存続できない。


 金を会社に入れてくれる人が、会社を支えてくれる人であって、非生産部門はそれをサポートするに過ぎない。


 いつでもどこでも不平ばかり言っている奴にろくな奴はいない。

 会長はそう断言した。

 

 『人材には3つある。1つは人罪じんざいじゃ。これは会社を腐らせる、いてもらっては困る存在の人間で、別名、腐ったミカンとも言う。腐ったミカンはジワジワと周りを腐らせ、気づいたときには箱の中のミカンすべてを腐らせるような、トドメを刺す悲劇を生む。もう1つは普通の人材じんざい。会社の用事をそつなくこなし、必要以上のことはしない、定時にしっかり帰る社員。悪くもないが、よくもない。捨てゴマのような、存在感の薄い存在。そして最後が人財じんざいで、会社の財産となる人財じゃ。みなには是非、この人財になってほしいと思うておる』

 大東会長が新年の挨拶で述べた言葉だ。


 どんなに良い人財がたくさんいても、色の3原色のように、腐ったミカンがたくさんいては、結局は打ち消されて色は白になる。


 つまり無いのと同じことだ。

 企業は人なり……人のいかんで会社の繁栄が決まると、大東会長は思っていて、常日頃からこれを実践していた。


 なので面倒見がよく、社員からも慕われていた。その直属の部下に、会長から直接仕事を叩き込まれた社長、古川清がいる。


 あだ名は、ドン・ガバチョ。ひょっこりひょうたん島のドン・ガバチョに顔が似ているので、みなから影でそう呼ばれ、恐れられていた。


 古川は肉屋から不動産会社に33歳で転職した変わり種で、強烈な個性の持ち主でもある。


 一度言い出したら助言は聞かない、頑固が売りの63歳だ。なので度々会長とも意見の相違で衝突する。


 でも心の底で2人は信頼し合っているので、喧嘩別れなどする気はさらさらない。会長の右腕、よくいえば切れる懐刀ふところがたなのようなものだった。


 今でこそ成功を手にした会長と社長だが、ここまで辿り着くには、それ相応の苦労と歴史がある。


 持ち前の強靱きょうじんな体力とバイタリティーがなければ、身も心も持たなかったであろう。


 とにかく大東会長も古川社長も頑張った。

 仕事が趣味を公言する2人だからこそ、成功を手にできたのだろう。趣味が仕事の2人は、今では地元の名手としてケーブルテレビで紹介されるまでになった。


古川社長は駆け出しの頃、あまり表だって言えないが、占有権を主張するヤクザ屋さんが作ったプレハブ住宅に火をつけ、深夜ブルドーザーで、撤去したことがあった。


 冬場の深夜、メラメラと燃える仮設住宅は異様な光景で、これまた殺気だったドンガバチョの横顔を照らし出した。


 また今使用している自社ビルに至っては、競売で落札する際、畳の下に敷き詰めた1万円札、500万円を紛失したと主張する渡辺組一家に、なくした物、一覧をメモに書かせ、あろうことかそれを警察に持って行き、恐喝でつかまえてもらった過去がある。


 毎日がこのようなことの繰り返しなので、当然、古川はいたるところで恨みを買っていた。ややもすれば命を狙われているといった方がいいかもしれない。


 強烈な個性と、手が早い、癇癪かんしゃく持ちな性格が災いして、夫婦げんかの末にかみさんから、脇腹を包丁で刺されたこともある。反対に従業員の背中を傘で突いて刺したこともある。


 そのむかしお肉屋さんを営んでいた夫婦だから、包丁さばきはたしかなものだが、人を刺すのはいただけない。幸い事件にはならなかった。


 本社、といっても従業員が8名の自社ビルで、影山健太と吉田真也が雑談を交わしている。健太は課長、吉田は係長。その下に、部下が3人いた。部長の島田雅光は、社長から付け数字ばかりもらっていて、みなから嫌われていた。

 

 『VSOPマンションって、知ってる?』

 今年29歳になる影山健太が、としが同じ後輩に向かって言う。影山健太はお相撲さんの高見盛に似ているので、みなから『ごっつあん』と呼ばれていた。


 ごっつあんが、ハンカチで汗を拭き拭き吉田に話しかける。やせぎすの吉田が貧相な顔をして相づちを打ち、ごっつあんが話を続ける。


 ごっつあんの趣味はヤフーのオークションにオモチャを出品することで、プラモデル、パチンコもたしなんでいた。タバコは3年前にやめ、その代わりに500円玉貯金を始めた。


 ヤフオクに出品するオモチャは、仮面ライダー、ウルトラマン系が多く、変わったところではシルバー仮面、鉄人28号、スーパージェッター、ジャイアントロボ、スペクトルマンも、ストライクゾーンで、どまん中だった。


 とにかく目を引く怪獣はすべて、健太のコレクションの対象といっていい。

 オバケのQ太郎も、最近のコレクションとしてはヘビ・ロテ(ヘビーローテーション)となっていた。


 健太は不動産の仕事をして6年になる。前職は大手のマンション系不動産会社の仲介をしていたが、戸建て、土地を扱いたくなって、地場業者に転職した。


 『マンションだけ扱えても、土地、戸建てを扱えなければ不動産屋としては、半人前だね』


 知り合いの社長の、この見くだした言葉がもとで、大手の不動産会社を退職した経緯がある。


 それまでの、ごっつあんは、キャバクラでひと月に30万も使うこともある、浪費家だった。


 持ち金で飲み歩くのはいいのだが、ごっつあんの場合は、カードローンで飲み歩いていたので、月末はカードローンの請求で恐怖だった。


 おまけにギャンブル癖があったから、財布はいつもからっけつで、小銭ばかり持ち歩いていた。


 朝方4時頃まで、キャバクラをはしごし、しめのゲイバーで飲む頃には、酒の味も、浪費した金の計算もわからなくなるくらい酔っぱらっていた。


 注文したフルーツバスケット、ドンペリ、指名料で、外車が買えるのでは、友人たちは、みな口々に噂し合った。


 とにもかくにも転職で失ったものも大きいが、健全な生活を手に入れることができたのは大きかった。


 今の大東コンツエルンでは、小さいながらも土地、戸建てが十分に扱えるので満足しているが、やはり不満がないわけではない。


 機動力が高い割りに、給料が安い。

 そして休日が週一というのも、若い健太には不満だった。


 飲み歩く時間もないくらい、いつもどこかに動き回っていて、常にクタクタだった。


 『うちの会社って、もしかしてブラック会社?』

 健太は営業事務の吉川直美に、いつかそう尋ねたことがある。


 セクハラもするし、社内暴力をする社長がいるかぎり、

 『うちの会社はブラックね』

 吉川はそう断言した。


 いつかは飲み会の席で胸を触られた吉川は、極力、古川の近くに寄りつかなかなった。


 会長は貝殻のように、不協和音に気付いても何も言わない。

 ある意味、暗黙の了解で古川に全権委任しているといっていい。


 とにかく満足に吉川とデートするにはせめて隔週で、最低月2回の連休が必要だった。


 そのくせ仕事がはねてからの深酒はやはりここでも半端なく、キャバレーや、フィリピンパブで、朝方閉店まで会長につきあわされることも多く、財布のヒモも緩みっぱなしだった。


 会長はどんぶりをひっくり返したように、湯水のように金を使う。宵越しの金は持たないというのが会長の口癖で、おごることも多く、趣味の仏像にも散財していた。ただしおごるのは、専ら一件目だけで、はしごした2件目、3件目、ラストは必ず割り勘となって、翌日、徴収された。

 

 『VSOPマンションっていうのはね、V(ベリー)S(スペシャル)O(ワン)P(パターン)のやくで、売れるマンションには、とっても特別な、1つの法則があるっていう、不動産用語なんだ』

 ごっつあんが言う。


 駅から近い、利便性に富んだ人気の沿線。 環境が良く、緑が多くて、日当たりの良い南面三室(ワイドスパン)。


 価格、グレード感。 管理体制。4LDK。低層型マンション。高層マンション。

 エントランスの豪華さ……これらの何かが満たしていないと、安く買ったはいいけど、安くしか売れないという負のスパイラルに悩まされることになる。


 健太が住みたいと思っている東急田園都市線、東急東横線も人気の沿線で、特に山をくりぬいて造った田園都市線は踏切がなく、街が碁盤の目のようにできていて景観も立派だった。


 『住むなら田園都市線かな』

 これは不動産屋の、いわば合い言葉みたいなものだった。


 デスクで向き合った健太(ごっつあん)とデバガメ(出っ歯で亀な)吉田が、好きな芸能人、AKBネタで盛り上がったころ、社長が会長室から戻り、場は静けさを取り戻した。


 『まだいたのか?』

 社長のこの言葉で、デバガメの顔に緊張が走った。


 余談になるが、AKB48は、仲間同士、女性同士でキスすることで有名だ。これは、おニャン子クラブ、モーニング娘の伝統からきていて、秋元康がさせていることが基本にある。女性同士、苦手意識を持たせないための、ボディーランゲージだそうだ。


 おしゃべりの吉田がやっと黙った頃、健太は出かける準備をした。

 とにかく吉田は愚痴が多い。社長のいるときこそ口にしないものの、後ろ向きな発言が日頃から目立っていた。


 そのくせ自己主張、自己顕示欲が強く、自分を主張することばかり口にするので、みなから煙たがられていた。


 健太はそれをコンプレックスの裏返しと思っていて、周囲に認めてもらいたい思いが強いためだと思っていた。学歴がないのも影響があるのだろう。


 口が、もーれつア太郎のイヤミのようにとがっていて、出っ歯で、みなから影で出歯亀(デバガメ)と呼ばれていた。


 このまえはマンションを売っていただいた若い女性のお客様に、

 『物まね芸人の有吉と、アンガールズの山根さんを足して2で割ったような顔ね』

 そう言われて、しょげていた。


 けれど吉田は意外と意地悪で、なかなかの策士でもある。

 転んでもただでは起きない。


 攻撃を受ければ、倍にして返すから始末が悪い。

 矛先は自然と、上司の健太に向くことが多い。


 年賀状の当選番号、下2ケタを42番、96番のどちらかで、毎年送ってきたり、茨城に帰省したお土産みやげに、しじみの錦松梅きんしょうばいを買ってきたり、意図的なメッセージを込めて相手の気分を滅入めいらせる。


 『あっさり(あさり)~死んじめ(しじみ)』

 吉田が会議室で冗談を言うのを聞いた健太は、吉田が確信犯であることを遅れて知るのである。


 5月の誕生日にもらった観葉植物は、吉田自らが買い出しに行きますというので、変だなと思っていたら、ドラシナ・コンシシネを買ってきて、


 『どやどや死ね死ね。買ってきましたよ』

 リボン付きで健太に渡した。


 吉田は本業の傍ら、副業で彼女にパンティーをはかせてネット売買していた。

 パンティーは、必ずしも彼女にはかせたものとは限らなくて。彼女が旅行に行ったときなど、吉田がシミをつけたものも、ときどき品薄で出回るらしかった。


 デバガメ君は、ピンク隊長というあだ名のもと、日銭を稼ぐのに全精力を費やし

た。


 健太の通う藤沢本社ビルには、テナントと関連企業が複数入っていて、テナント料だけでも、けっこういい収入になった。 


 最上階は、会長が住んでいて、5LDKのペントハウス、メゾネットになっている。リビングが20畳あり、テレビはプラズマ・テレビで、最新型、大きさが103インチもある。


 そこにイギリス人の愛人が出入りしているのは暗黙の了解で、みな周知していた。

 愛人は24歳でイギリス人。六本木に住んでいた。ベンツで車を走らせてはスポンサーの会長宅まで足繁く通い、モデルを生業としていた。


 モーターショーの常連で、PIAAのブースで、毎年話題となる美女だった。とにかく顔が小さくて、口のサイズが小さいので、フェラチオの時、極太の会長のイチモツをくわえるのに苦労した。


 『米ポルノと日本のポルノの違いは、息の吸い方にある』

 会長は、愛人がイギリス人なので、なんでも知っている。


 日本ではセク~スの時、女性は『あ~いいわ、いい』なんて言って、息をはくが、米ポルノでは逆に『スースー』と息を吸い込んで、感じまくる。


 会長はノーカットのDVDを何十枚と鑑賞して、愛人との営みの研究にしているので、米ポルノにも詳しい。


 時には馬のケツを叩くように、彼女の尻を叩きながら、エクスタシーを迎えた。

 背中は愛人の爪のあとで、ビリビリと引っいたスジが何本も縦縞たてじまになっていた。


 本題に戻ろう。

 不動産の仕事とはいっても、本当に幅が広く、やることはたくさんある。

 DM(ダイレクトメール)の発送に、手まきチラシ。

 折り込みチラシの打合せ。


 電話営業。飛び込み営業。カウンター営業。駐車場の管理、賃貸、仲介営業。

 司法書士の紹介。測量士の斡旋(あっせん)。

 地上権、借地権の売買。


 解体。建築。借地権の名義変更代行。

 ローン事務の斡旋あっせん

 ハウスメーカーの紹介。


 登記簿の閲覧による地上じあげ。

 ハウスメーカーの、土地なし客への土地紹介。


 メーカー訪問。業者訪問。オープンハウスに、オープンルーム。住宅相談会。

 草刈り。庭木の手入れ、立ち退き。退去後のリフォーム。水道管の修理。アパートの電球の交換。建築……。

 

 ざっとまあこんな具合で、書き出すとキリがなく、無限に続く。つまり不動産の仕事というのは、やる気のある人にとっては時間がたりないくらい、本当にやるべきことがたくさんある。


 1000(せん)、3(みつ)屋と呼ばれるくらいだから、1000の仕掛けをしなければ、3つの果実は刈り取れないということかもしれない。


 食っていけない不動産屋の多くは、店を構えるだけの、待ちの営業をしていることが多く、多くは自分から積極的に仕掛けようとしていない。


 それらは持ち回り営業と言って、他人のネタを持ち回ってゼニを得ようとする安易な発想の上に成り立っているから、なかなか成績に結びつくはずがない。


 みなが追いかけているものを速攻で食うには、よほどのスピードと、資金力を持ったバックボーンがいる。


 基本はやはりVSOPマンションをたくさん自社で仕入れて媒介いただくことで、他業者から、是非うちでも売らせてくださいと、お願いされるようになることだ。


 売ってくださいと頼まれるか、売らせてくださいとお願いするか、これは営業の世界で天と地の差がある。


 この基本的なことがわからない営業マンが意外と多い。

 営業はお願いすることではない。


 相手に依頼されるようになって始めて本物といえる。

 紹介をもらえるようになれば、もっといい。


 『うちでも売らせてもらえまへんか? お願いしまっさ。まあ、ええやないですか?』

 これはもはや営業じゃない。おもらい営業だ。


 おもらい営業なんて、具の骨頂だ。

 お客様に関して言えば、お金をいただいて始めてお客様と呼べるのであって、文句だけ言って他で買うお客様は、そもそも客でなく、単なるクレーマーといえる。


 そこを勘違いしている営業マンは意外と多い。時間は限られている。確率営業を実践しなければ、もはや成績は馬群の中に沈んでしまう。


 『今日もお客さんが来なかったとか、電話が鳴らなかったとか……』

 そう言っているうちは、永遠に軌道には乗らないだろう。


 健太は叩き上げの社長の言うことを忠実に守っているので、大東コンツエルンでの成績はそこそこだった。


 とはいえ、前の会社ではスランプに陥り、2ヶ月0を打ったことがある。

 2ヶ月、何も売れないのは、営業の世界では本当にきつい。ましてや全国展開する仲介業者で3ヶ月、0を打つのは、もはや死刑に値していた。


 3ヶ月目、もし何も売れなければ会社を去ろう、そう思ったとき、9000万のマンションと、1億3800万円の戸建てがどちらもバタバタと両手で決まった。


 健太は前会社で、生まれて初めてEMC会議に出席し、成績優秀者として表彰パーティーに出席した。上は北海道支店から下は九州支店まで、全社500名の中から選ばれた精鋭達、20名で構成されたパーティーが、グアムで盛大に行われた。


 あるとき健太は、成績優秀社員の一人に、不思議に思っている出来事を聞いた。

『なぜ愚痴を言わないの?』

3回目のEMC会議で、質問したことがある。


 『愚痴を言ってる時間がもったいない』

 そう、返答が帰ってきた。


 みな自己啓発の本をたくさん読んでいて、歴史の本からも多くを学んでいた。異業種との交流も活発で、不平を言ったり、迷っている時間はないとの意見だった。


 『本当に優れた人物なら、愚痴を言うより前に、会社そのものを変えてしまうよ。会社に革命を起こしてしまう。それくらいのバイタリティーが備わっているものさ』


 健太は自分が悪い洗脳…悪いサブリミナル・コントロールをしていることに気づき、その日を境に後ろ向きなコメントはしないよう心がけた。


 たしかにそうだ。自分の思い通りにならないから、愚痴るのだ。裏を返せば、自分の能力を嘆いているようなものだ。


 健太はそれから不平を言うのを一切やめ、自分が会社を引っ張っていく立場の人になろうと努力した。


 健太は裁判の書類をかばんから取りだし、ひととおり目を通した。今日は東京地裁で、立ち退きの裁判がある。強制執行するためには、今日、裁判で有利な判決をもらう必要があった。


 顧問弁護士は、東京弁護士会の35期生で、相手方弁護士より、3期年上だ。

 『3回目の裁判が落としどころかな、3回目で決着つけましょう』


 弁護士同士、話は既についているようなものだった。

 結果は、大東コンツエルンに有利に働いた。

 3回目で、筋書き通り、裁判は結審した。


 この弁護士には、健太が個人的にもお世話になっていて、速度違反の赤切符を、警察署長に直談判じかだんぱんして融通きかしてもらったことがあった。


 裁判所から戻った健太は、手まきチラシの1500枚をチラシ専用のアタッシュケースに入れて、藤沢市辻堂のライフタウンを目指した。


 影山健太は今年29歳で、175センチ。95キロある。よく柔道をやっていたのと外見で間違われるが、少年時代はマンガ少年で、スポーツとは無縁だ。


 中学で、このままではいけないと思い、友人のすすめで卓球部に入ったが、あまりの運動量に息が続かなくて、半年で退部した。


 運動はセックスをのぞいて、全部苦手だった。あえていうならボーリングで、過去に136をマークしたことが一度だけあった。


 としは吉田真也と同い年で、海老名に住んでいる。事務員の吉川直美は健太の恋人で、公私ともに彼女に助けられている。


 健太の右手の恋人を救ったのが吉川で、風俗をのぞいて27歳まで素人童貞だった健太と、飲み会で隣になったのがナレソメだ。


 吉川はぽっちゃり系で25歳、穏やかな性格をしている。健太にはできすぎた女性だ。 巨乳で母性本能に満ち、抱き心地も満点だった。155センチ、49キロ。


 適度に肉付きが良くて、アイドル系の顔をしている。髪はショートで、大きめの瞳、瞳のエリスがキラキラと輝いている、今時いまどきの娘だ。


 吉川は週3でパブでバイトしているので、話題も豊富で、洗練されていた。カラオケも上手で、デュエットも、そつなくこなした。


 夕方になり、吉川は、少し早く営業所をあとにした。ダイレクトメールを手提げかばんに入れて、郵便局の営業時間に間に合うよう、事務所を出た。


 そのころ健太はチラシまきで、既に汗だくの状態だった。吉田はパチンコ屋で、毎度のことながら2万円すり、へこみ、会社に戻る途中だった。


 今日は、珍しく古川の雷が落ちなかった。

 前職で横浜支店、町田支店、新宿支店を経験していた健太は、地理に明るかった。


 投資客が持つ投資物件の処分で、伊豆や千葉、埼玉など広域にわたって、契約書の片判で、出かけることが多かったのも、だてではない。


 新潟や大阪、遠いところでは北海道まで日帰りで出向くこともしょっちゅうで、交通手段も車、電車、新幹線、飛行機と、ありとあらゆる手段を使って目的地へ向かった。


 北海道に立ち寄る際にはススキノを、大阪に出張の際は飛田新地で、遊んで帰ることも忘れなかった。


 営業を続けていて思うのは、人の気持ちは日々移りやすいということだ。

 急がせて逆効果もあるが、それは言い方に配慮が足りないためで、安心感さえ伝われば、客も満足して契約書に判を押す。


 要はどれだけ相手の立場に立って、言葉を選べるかだ。

 自分の思い通りにしようとするから、拒否されるのだ。


 人の心というのは不思議なもので、了解したときは気分の絶頂にいても、しばらくすると気分は必ず下降するようにできている。


 そして一度、断られた契約をイエスと言わせるのは、それはもう労力がいることを肝に銘ずるべきだ。


 できればYES、YES、YESと、YESを3回続けて言わせるつもりで、契約まで済ませてしまいたい。

 

 ここ藤沢は東海道53次の舞台にもなった、安藤広重の世界が、原色で夢いっぱいに広がる。そのむかし宿場町として栄えた、遊郭の名残が、町のはずれに点在していて、ちょいのはファッションヘルス、ピンクサロンに様変わりしているものの、今もなお健在だった。


 今にも、やり手ババアが出てきそうな裏路地を健太はチラシを持って、さっそうと駆け抜ける。既に汗だくだ。


 ライフタウンでまききれなかった、200枚をここでまき終えて、任務を終了するつもりでいた。


 直帰のお墨付きをもらったものの、まだやりのこした仕事があるので、事務所に戻らなくてはいけない。


 そのころには社長も会長も、もう既に家路に着いているころだろう。健太は事務所に連絡を入れ、あと1時間で戻ることを伝え、吉田に待っていてもらうよう伝言で伝えた。


 今日は、居酒屋で一杯いきたい気分だ。

 汗だくになった体にビールを飲ませるために、健太は頑張っているようなものだった。



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