チャプター2 近所に、メキシコ人が引っ越してきた。

 近所のアパートに、メキシコ人が引っ越してきた。

 どこで聞きつけてきたのか、このメキシコ人のお姉さんも、しなびた緑黄色野菜を持って、トンビーばあさんを尋ねてきた。


 『おはようごじゃいます。アメルダ・ディババ言います』

 『日本語はしゃべれるのかい?』


 しおれたホウレンソウと、カスカスのセロリをいやいや手に取ったトンビーばあさんは、もうちょっとましな野菜もってきなさいよ。心の中でそうつぶやいた。


 『リル・ビット』

 まだ言葉に英語が混じる。


 『そうかい。じゃあ、日本語を教えてあげよう』

 相手の反応を見ながら、ボディーランゲージを織り交ぜ、にこやかに笑う。はっきり言って、不気味だ。こんな親切なばあさん、今までに一度も見たことがない。


 『お腹が減ったら……』

 『オナラ、ひったら??』


 『違うよ。ハングリーだよ。ジジババさん』

 『ジジババないです。ディババ言います』


 『ごめんさい。ハングリーOK? ディババさん?』

 『イエス。ハングリー。ザッツ、ライト』


 『そうだよ。ハングリー、ミーンズ、くそったれ』

 『クソッタレ?』

 『イエス、イエス。オーイェイ』

 アメルダを見た。


 アメルダは大きな口を開け、

 『クソッタレ、クソッタレ。OK。OK』

 おぼえたての言葉を連呼れんこした。


 『さすがやな、ジジババさん。おぼえが早いわい』

 『ジジババないです。ディババです』

 トンビーばあさんの顔が意味もなく明るくなる。血色がいい。


 『道を教えてください……ティーチ・ミー・ザ・ウェイ』

 『ア~ハア』


 『この変態。どすけべ』

 『コノヘンタイ、ドスケベ』

 口の周りにうっすらとひげをはやしたメキシコ女性は、ニコニコして、トンビーばあさんの口元に見入った。身振り手振り、ジェスチャーをまじえ、言葉をおぼえるのに必死だ。


 『ファット・イズ・ユア・ネイム?』

 『ア~ハア』


 『クソジジイ』

 『クソジジイ、クソジジイ』

 メキシコ人は、少し得した気分で、アパートまでの道のりを自転車で引き返した。


 『ほな、サイナラ。ジジババさん』

 『ジジババないです。ディババです』

 アメルダが手を振った。 


 帰りの自転車では、

 『クソッタレ、クソッタレ』

 おぼえたての言葉をまたしても連呼れんこしていた。


 いつかどこかで気付くはずだが、そんなこと、トンビーばあさんには、知ったこっちゃあなかった。


 カレイとヒラメの見わけ方も、親切に教えてあげたから、感謝されるいわれはあっても、非難される筋合いはない。


 『左カレイに、右ヒラメ。わかったやろか?』

 ばあさんは遠くを見つめた。


 『若者は好きだけど、バカモノはねえ~。いや、バケモノか?』

 メタボ体型の、メキシコ人の背中を見送った。白いブラがぜい肉に食い込んでいた。


 『歩く人間爆弾。肉団子やな。さて、アイスでも食うか』

 独り言を言った。


 そこを偶然、近所の鷹見さんのおばあさんが通りかかり、トンビーばあさんに声をかけた。


 『ご飯、食ったのかい?』

 『わたしゃねえ、嫁にろくなもの、食わせてもらってねえだよ。一日一食。今日も、めざし一匹だけだがね。貧血で、鼻血もでやしないがに』


 『そりゃあ、大変だがね』

 鷹見さんが言葉を返す。嫁の悪口に発展し、嫁、久子の話題が会話の中心に据えられた。


 うまずめ、石女いしおんなの久子は、トンビー家に嫁いで13年になる。

 もう13年という声もあるが、ここまで辿り着くには、月並な言葉ではあるが、並大抵な苦労では語れなかった。


 若夫婦と食べ物が合わないトンビーばあさんは、お菓子や、団子を常に買いためていて、食後、必ずおやつをいただいた。


 『わたしゃね、ハンバーグなんて、死んでもいやだからね』

 けれど3食、おかずもごはんも、今まで残したことなど一度もなかった。めし粒1つだって、きれいに残さず平らげた。


 『お百姓さんが精魂込めて、丹念にこさえた米や。残したら悪いがね』

 それが、ばあさんの口癖だった。


 『米に白米と書いて、カス……かすや。米に健康と書いて、ヌカ……ぬかや。久子さん、わたしゃねえ、玄米げんまいしか食わねえんだよ。白米はやめてくれって、あれほど言ったろう? 白米はね、米でいうところの、余ったカスだがね。読んで字のごとしだわさ』


 過干渉かかんしょうのトンビーばあさんと一緒に過ごすのは、並大抵のことではなかった。細かいとこ。おおざっぱなところが、屈折して折り混ざっているので、事は単純には済まされない。


 いつか友人の花渕奏代に、内情を打ち明けたときは、 

 『遅かれ早かれ、あなたより早く先に死ぬわ。それまで親孝行のつもりで、面倒見てあげなさいよ。あなた、実の母親を早く失ってるんでしょ?』

 柔らかく、いさめられた。


 へりくつが道理になっているから始末が悪い。でも、トンビーばあさんは生まれてこのかた70年。そんなこと全く意に介したことがなかった。


 近所に新規開店した久子のブティックには、毎日。一日3度。トンビーばあさんが顔を出した。開店資金300万を援助してもらっているので、そう邪険にも扱えない。


 昼食時にも顔を出し、店屋物のカツ丼。天丼を頼み、アルバイトの女の子に、久子の失敗話、とちり話を大げさに話して聞かせた。 


 時には買う気もないのに試着して洋服をやぶり、よくもわるくも洋服の品評会をした。久子にとって、トンビーばあさんは脅威そのものだった。


 『割れ鍋に、ドジブタ』

 正確には閉じフタなのだが、トンビーばあさんにとってみれば、嫁の久子は、ノーマルで、あまりイジメ甲斐がいなかったが、退屈なときの唯一のオモチャになった。


 今日も酒に飲まれた近所のじいさんが、武士の情けだと言って、久子のブティックに小便しょうべんをぶっかけていった。


 このどうしようもないじいさんも、トンビーばあさんのおしゃべり仲間なので、強く叱れなかった。


 おやつの時間が過ぎ、トンビーばあさんは家に戻ることにした。そしてテレビを観た。


 しばらくして小池さん家に回覧板を持って行くことのを忘れていたことに気付き、あわてて下駄げたをはいた。そして下駄げたを鳴らして小走りに歩き、隣の家の前で立ち止まった。


 玄関を叩く。

 玄関脇のブーゲンビリアが、華やかに咲き誇って、こちらを見た。


 ブザーを押す。ノックしても出てこない。

 『小池さ~ん? 小池さ~ん?』

 反応がなかった。


 『おかしいなあ? さっきまで草むしっとったがに』

 ばあさんは、見るからに不機嫌になった。


 『居留守いるすつかってるんかいな?』

 ふつふつと静かな怒りが湧いてきて、仏頂面ぶっちょうづらで家に引き返した。


 『ほんま値打ちつけるのう』

 そんなことが2回続き、小池さんちを飛ばして、回覧板を回すようになった。


 『どうせいないやろ』

 1分1秒を争うわけではないので、玄関ポストに回覧板を入れればそれで済む話なのだが、トンビーばあさんは許さなかった。


 敵は徹底的に踏みつける。

 相手がギャフンと言って、何も反論できなくなるくらい、徹底的に痛めつける。


 2階からのぞいている。

 陰口を言われる小池さんは、それにしても気の毒だった。

 へんな言いがかりに、怒りの矛先の向けようがなかった。

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