チャプター1 トンビーばあさん。

 下駄げた音色ねいろが辺り一面、カランコロンこだます。

 かまやつひろしの『我が良き友よ』を地でいく、御年70歳の、ばあさん。それがトンビーばあさんだ。


 本名は高木タケ。

 夫であるじいさんと、うまずめ、石女いしおんなの若夫婦と暮らしていた。

 なんで過去形かというと、じいさんが3年前、ガンで他界したからだ。


 丸顔で天然パーマ。

 一見、アフロに見間違える髪型は、和田勉さんを女にしたような髪型で、少し癖のある顔をしている。


 眉毛まゆげが太くて目が細く、唇が太い。

 見るからに意地悪な顔つきをしているので、初めて会った人は、なんだかな~。少し引いてしまう。声がやたら大きいのも、どうかと思う。


 トンビーばあさん。

 彼女を知る人は一様に、みな、

 『気さくでいい人ね』

 っていう。


 でもなぜか小池さんの家には対抗意識むき出しで、愛想が悪い。

 むすこが同級生だからか、なぜかライバル意識むき出して目の色を変える。


 常に仮想敵国を作っては心に闘志を燃やし、相手が悲惨な結末を迎えるまで、攻撃の手を緩めなかった。


 策士、策におぼれるという、ことわざがあるが、このばあさんをそんな甘っちょろい言葉で語れるはずもなく、溺れる者がやっとこさつかんだワラをカマで遠慮なく断ち切る。それが、トンビーばあさんの真骨頂しんこっちょうで、恐れられる由縁だった。


 この婆さんに楯突たてついたおばさん連中は皆、あることないこと悪口を言いふらされ、結果、居づらくなってどこか遠くに引っ越してしまう。


 トンビーばあさんから言わせれば、敵は倒しがいがあればあるほど良いらしく、チューインガムのように、噛めばかむほど味の出るスルメのような人物が、ばあさんのターゲットとなった。


 すっぽんのように食らいついて離れず、最後にゴクリと飲み込むのが快感なのだという。


 『人の不幸は、蜜の味。わたしゃね、小池さんが悲しんでる顔見るのが、何よりの楽しみなのさ』


 いつか大声でこんなことを話しているのを米屋の女房が聞いた。

 米屋の女房は、報復を恐れて、恐くて誰にも話せない。


 自分にとってのイヤな奴が、意外と周りに認められ、好かれているのも、

 『なんだかな~』

 せなかった。


 いうなれば鬼門きもん、言い換えれば疫病神やくびょうがみに近い、トンビーばあさんは、地元の老人会に加入していて、おまけに役員をしていた。


 カランコロン。下駄げたの響く音を聞くと、近所の若いおばさん連中は皆、蜘蛛くもの子を散らしたようにどこかに消える。

 

 その代わりといってはなんだが、噂好きな、おしゃべり好きなばあ様連中が、まるでゴキブリにエサを与えたように、トンビーばあさんの周りに集まってくる。


 みな心なしか背が丸まった老人ばかりだ。

 近所のスーパで買ったほうれん草や、大根をおすそわけする、若手のオバンもいる。いわば上納金のようなもので、トンビーばあさんに気に入られたいがための授業料といっていい。


 トンビーばあさんの加入する老人会は、ヘビロテ(ヘビーローテーション)の重役が8名で、そのほか準構成員が、20人ほどいた。


 嫌われ者かと思いきや、けっこう突拍子もない、おもしろいことを言ったりするので、仲間内では評判がいい。


 近所の井戸端会議いどばたかいぎの話の内容は主に噂話で、教頭先生の息子が盗撮で会社を解雇されたとか、坂の上に住む未亡人が、週末、朝方タクシーで帰宅するとか、男やもめのじいさんが、30も若い飲み屋の姉ちゃんと結婚したとか、財産目当てだとか、ほんとしょむない話が多かった。


 大声の話から急にひそひそ話を始めたときは特に要注意だ。

 大抵どこかで聞いてきた噂話に尾びれ背びれをつけ、誇大広告していた。


 『ちょっと聞いたってえな~。この前のことだがね。魚屋の若女房がやね。夜逃げしたらしいんだわさ。出刃包丁、持ち出してやね。ちんちんちょん切る。言うたらしいわ』


 『こわいのう。浮気かい?』

 『いんや。ここだけの話、本気みたいやで。警察が来たらしいんだけんども、通帳すべて持ち出したあとらしいんだがね』


 『だんなの浮気が原因で、今度は女房にも逃げられただがね?』

 『そうや』


 『駆け落ちかい? 相手は誰や?』

 『呉服屋の若ダンナや』


 『あのボンクラの若ダンナかい?』

 『そうや』


 『もてるようには見えんがのう?』

 『ボンクラゲも、なかなかやるのう』


 『ほんとやね~。それで戻ってきたんかいね?』

 『だれかじゃ?』

 『魚屋の女房じゃ』


 『いんや』

 『ほうかい』

 『ちんちん、かもかもやな』


 噂話をしているときのトンビーばあさんの顔はストレスのない赤みがかった顔をしている。いわば軽い興奮状態で、おまけに脳内モルヒネも量産している。


 楽しくて仕方がない。そう言わんばかりの顔で、相手を見つめ返す。相手もまんざらではない顔で身振りを交える。声が大きくなり、お互いの相槌あいづちで会話がクライマックスを迎えようとしてフォルテシモになり、メゾピアノになりまた双六すごろくのように、振り出しに戻る。


 その繰り返しだ。


 トンビーばあさんと呼ばれるようになって、28年。

 トンビーばあさんの、トンビーとは、子供である次男坊、菊池徹きくちとおるの名前が由来で、トオルのあだ名、トンビーからきていた。


 菊池徹きくちとおる溺愛できあいの息子だが、どういうわけか婿養子に出してしまい、今では高木家とは別姓、菊池を名乗っていた。としは35歳。子供が2人いた。


 菊池徹もまた、隣の家に住む、小池純をライバル視して青春を過ごし、二人は犬と猿のような仲で、部活動も一緒だった。


 今でこそ遠くに引っ越し疎遠になった徹と純だが、2人は自他ともに認めるライバルで、お互いがお互いをあいつと呼び合う、目の上のコブみたいな存在だった。


 『トンビー、トンビー』

 トンビーばあさんがとおるを呼ぶ声が、今も茶の間から聞こえてきそうだ。


 今でこそ息子をそう呼ばなくなったものの、溺愛できあいした子供も、今ではすっかりいい大人になった。さすがに、トンビーとは呼べなくなった。


 徹には背の高い、若ハゲの兄。トンビー兄さんがいて、野球好きで、遺言代行業者をしていた。年齢は38歳になる。雅也という。


 トンビーばあさんが、32歳の頃に産まれた子供で、ばあさんと同居して38年になる。


 その間、一度も家を出たことがない。

 同居していて、犬を飼っていて、この犬もまた、隣の小池さんが飼い慣らしているノラ猫を目のかたきにした。


 よくえる犬で、番犬にはもってこいの犬だが、通行人すべてにえるので、近所では迷惑していた。


 6人兄弟の4女。生涯専業主婦で通してきたトンビーばあさんは、若い頃、裁縫さいほうの内職を数年していただけで、会社勤め、社会経験がない。


 なので暗黙の了解というか、周囲への気配り、仲間内への遠慮がない。

 相手がいやがることを平気で言うし、思いやりの欠片かけらもない。


 隣に住む小池さんは、庭いじりをするときもビクビクして草をむしり、トンビーばあさんの電話の声にも神経をつかう始末だった。


 『隣がね、電話の声に聞き耳たてんのよ。いやになっちゃうがに。上からのぞいてるしやね。ハ~クション』

 大きなくしゃみですら、身のちぢむ思いがした。 


 庭で草むしりをする小池さんを2階から見おろしたトンビーばあさんは、

 『ああやって、会話を盗み聞きするつもりやろが、そうはさせるか、イカのキンタマ』

 聞こえるように、イヤミを言った。


 石女いしおんなの久子への、ポーズもあるのだろう。

 『わっはっは~』

 2階から草むしりする小池さんを見おろしては、

 『イヤなものを見たら、大声で笑いんしゃい』

 声を出して笑った。


 あまりに大きな口を開けて笑ったので、入れ歯が今にも落ちそうなくらい、前に飛び出した。ばあさんが入れ歯を手で押し込む。そして匂いを嗅ぐ。


 小池さんは大きな笑い声に敏感に反応した。

 登場人物は、もう一人いた。


 久子という、トンビー兄さんの嫁で、トンビーばあさんの義理の娘にあたる。彼女は一度流産してから、二度と子供を授からなかったので、子供を見ると悪夢がフラッシュバックした。


 子供を見ると虫ずが走る、それが久子の本音だった。

 従って、トンビーばあさんには、跡取りがいなかった。


 久子は、見た目が10歳、老ふけ込んで見える女性で、黒いボサボサの髪がトレードマークで、だんなよりもかなり年上に見えた。


 久子はボーっとしてる性格のせいか、トンビーばあさんとの関係も良好で、隣の悪口を共通の合い言葉にしていた。


 健康だけが唯一の取りといえた。

 久子は子供が嫌いだったので、トンビーが孫を連れて遊びに来る際は、いつもだんなと旅行にでかけるようにしていた。正月のお年玉も、今まで一度もあげたことがなかった。


『死ぬときゃ、どうせ一人や。孫なんていらんがな』

 ばあさんは、ここでもまた強がりを言った。

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