チャプター1 モーニングコーヒー。

 こちら海老名市役所。22時30分。

 今日も残業が続いていた。


 家に帰り、遅い夕食を口にし、目をつぶれば数時間で朝を迎える。

 シャワーを浴び、家を出。市役所に入庁し。またそそくさと同じチェアに腰掛ける。


 ねずみ色したデスクの上には、書類が山積みになっていて、匿名の投書であふれかえっていた。


 毎度のことながら、まだるっこい朝を迎えた。

 小笠原富蔵の朝は、一杯のコーヒーから始まる。


 そしてもちろん、1日の終わりもダブルのエスプレッソで終わる。

 目ばちこでふさがった左目に眼帯をした富蔵が、大きなあくびを繰り返し、書類に目を落とした。


 途中、魔女みたいな先のとがったくつでけつまずきそうになり、あわてて態勢をととのえた。


 ねずみ色した古ぼけた椅子いすにでんと腰掛け、またしてもあくびをかみ殺した。


 小笠原富蔵の朝は、熱いモーニングコーヒーから始まる。

 なんて1度は言ってみたかったな。部長は優雅ゆうがに朝刊を読んでいる。


 「おまえ、人間は顔じゃないぞ」

 そういうつもりが、

 「おまえの顔は人間じゃないぞ」

 部長に真顔で言われてしまった富蔵は、朝から偏頭痛で気が滅入めいっていた。


 昨日は妻から、

 「今日の晩ご飯はなまオムライスね♪ ダーリン。チュッ」

 なんて言われて楽しみに家に帰ったら、卵がけご飯だったこともあり、朝から気分がすぐれない。


 睡眠不足と慢性疲労からくるカルシウム不足で、腰が重くイライラする。

 コーヒーでアスピリンを流し込んだ富蔵が、胃痙攣いけいれんした胃袋を慌てて右手でおさえる。


 部長は朝から鼻毛バサミで鼻毛をチョキチョキ切り、鼻くそをかんだティッシュを机の上に3つ積み上げた。


 新入社員が書類を小笠原富蔵のディスクに運び、無造作に置いた。ゴミの回収も兼ね、手には半透明なビニール袋を持っている。


 「ご苦労様です」

 新入社員の高橋洋一が言う。


 「ちっ。ご苦労様というのは、上から目線の言葉だぞ。そういうときは、おつかれさまですって言うんだよ。目上の人に対して失礼だろ。ゴミ男くん」

 精一杯のイヤミで、富蔵がこたえた。


 ゴミ男とは失礼な。ゴミはゴミでも、オレは燃えているゴミさ。新人の高橋洋一は、きっと正面を見据え『失礼しました』そう言ってその場を立ち去った。


 市のプロジェクトは大きく8つに分けられ、細かい48の部署で成り立っていた。

 税金部門。窓口部門。税収以外の収入を蓄える資産運用部門。市政部門……。例えばB級グルメの運営。メルマガの発信をする情報発信課。電子書籍の販売を企画するマスコミ課。子育て支援課などの部署からなり……。そして、肝心要かんじんかなめの、なんでも課があり、すべての長の上に市長が座った。


 その他の市民サポート部門は9つに分かれ、海老名を表から裏から全面的にバックアップする仕組みとなっていた。


 ここ海老名市には、特産物が多く、市役所内部に『特産物課』という課があった。

 変わったところでは『B級グルメ課』、『生保なまぽと呼ばれる生活保護課』、『財産処分課』、『シルバー人財センター課』というのもあった。


 財産処分課では、7年ぶりに発見された行方不明者の広大な土地、財産を処分することができ、市も潤った。


 この大口のお客様は、山を3つ。工場。広大な敷地を2つ所有していた。相続税、所得税を7年間延滞していた。


 この行方不明者は大富豪の娘で、遺産を相続して2年後、失踪した。

 巨額の現金げんなまかばんに詰め込んだ大富豪の娘は、時を得てラスベガスのカジノで身柄を拘束こうそくされた。


 乞食こじきのようなみなりを不審に思った従業員により、彼女は地元のポリスに通報され、間もなくして身柄を確保された。


 その結果、小切手と7000万円を詰め込んだかばんを手に、日本へ強制送還されることになった。誰も失踪の心当たりがなく、きつねにつままれたような事件だった。


 この失踪事件を解決したのがまさに小笠原富蔵で、探偵の調書をもとに大手柄をあげた。


 太陽系第3惑星、地球で暮らして、29年になる富蔵は、今日も1日ノリノリだった。


 小笠原富蔵。今年29歳。なんでも課の職員。課長職。彼女はいない。ばつ1。子供が1人いた。子供は1歳の男の子が1人。わんぱくで、かつての妻に似て丸顔だった。


 かつての妻は、どんなことでも私に打ち明けてね。優しく、そう言ってくれたが、当時の富蔵はまだ若く、その意味がよく理解できなかった。


 うるうどし生まれの薫里かおりは、子供を我州斗がすとと名付けた。


 レストラン、ガストにパート勤めしていた薫里は、愛社精神がこうじるあまり、子供をレストランと同じ名前に名付けた。


 富蔵は我州斗がすとに愛情を持てずにいた。

 どんぶりをひっくり返したようにお金を使う富蔵夫妻は、湯水ゆみずが湧いてでるようにお金を浪費し、金の切れ目が縁の切れ目で離婚した。


 愛情が薄れたと言ってしまえばそれまでだが、富蔵は薫里を愛していた。

 どこでどう間違ってしまったのか、自分でもよくわからなかった。


 人はなんのために働くかって?

 それはずばり金のためさ。


 やりがいや、生きがいに仕事を結びつける人もいるけれど、多くは金のため。家族のためさ。だから、つらくとも仕方なく働いている。


 仕事は楽しいことばかりじゃない。時には客に怒鳴られたり、上司に灰皿を投げつけられたりすることもある。


 そういうとき、趣味を仕事にしている人には、かなわないなって、心底思った。

 小指と小指を結ぶ運命の赤い糸はいつしかほどけ、やがて風になびいて2人の手を離れた。


 薫里かおりは郷里に帰って行った。

 富蔵に懐かなかった子供は、薫里が引き取り、あの日以来、面会することもなくなった。


 富蔵は、別れた妻、薫里に未練があった。やり直せるならやり直したい。

 かつての妻を執拗しつように追い回すことで、自らの愛情を再確認した。

 手紙を週に3回出し、返答も来ないのに、毎夜メールを送ってよこした。


 そしてどういう縁か、離婚から3年で、富蔵は新妻を迎え入れることになった。そしてその日を境に薫里のことは、心のどこかに置き忘れるようになった。再婚の相手は薫里によく似て巨乳で、部長が紹介してくれた相手だった。


 雪乃は、心から富蔵に尽くした。

 尽くすことが生きがいであるかのように、富蔵の喜びを自分の喜びのように感じ取った。


 雪乃と薫里の違いは、子供がいないことだけだった。いつもイライラしていた薫里に対し、雪乃は温厚な性格をしていた。体型も顔も、なぜかよく似たこの2人は、誕生月も乙女座で一緒だった。


 富蔵は仕事を趣味のように時間を過ごした。そんな富蔵にも隠れた趣味があった。

 雪乃との唯一共通の趣味は、オモチャの収集で、ヤフーオークションでオバケのQ太郎グッズ。ウルトラマン。スタジオ・ジブリ。キャンディキャンディ。仮面ライダーをコレクションしていた。


 カルビー仮面ライダーカードを10万で売った富蔵は、そのお金をもとに、鉄人28号のブリキのオモチャを2つ手に入れた。


 浅草玩具製の、ビンテージものだ。ブリキの飴色あめいろのてかりが、富蔵の心に安堵あんどをもたらした。


 ブリキはいい。

 ソフビも捨てがたいが、ブリキには昔の暖かみ、温故知新おんこちしんがあった。


 なでたり、みがいたり、頭の上を走らせたり、遊んでも遊び足りないほどだった。


 夢はオモチャのコレクションを商売にすることだった。

 大学で専攻した教育学をもとに、中学の教師もしてみたい。

 富蔵の夢は果てしなく広がった。


 教師になれないのなら、将来、店を持とう。

 そのためにオークションを開いているといってもよかった。


 オークションで気をつけなくてはいけないことは、想像以上に多い。

 返品で、中身を偽物にせものにすりかえて送り返してきたり、落札した写真のものが送られてくるとも限らなかった。


 写真には本物を掲示し、偽物を送ってよこすことだってある。

 もっと悪い奴は、お金だけ受け取ってからの空き箱を送ってよこしたりする。何も送ってこない、そのままドロンしてしまうやからもいる。


 高額なものには、それなりに危険がつきまとうのは、もはや常識であって、疑ってかかる必要があった。


 評価も重要だ。

 ただ最初の100くらいは優良な評価を積み上げ、客を安心させ、そこから本性をむき出す悪党もいるので注意が必要だった。


 手塚治虫の鉄腕アトムに比べ、横山光輝の鉄人28号は、マニアの収集家が多く、値崩れしないので、マニアはよだれをれ流してコレクションした。


 横山光輝の代表作には、この人が書いたの? という作品も多い。

 魔法使いサリー。仮面の忍者赤影。ジャイアントロボ。バビル2世。コメットさん。三国志。ご存じ、鉄人28号。その他、あげだらキリがない。


 漫画家というのは小説家。物書きと同じで、同時に3つも4つも並行して作業をこなすことができなければ話にならないらしい。


 わき出てくるアイデアと創作に、ほんと頭が下がる思いで、不思議感に襲われる。

 富蔵は午後からの会議資料に目を通し、早めの食事を食堂ですませた。

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