チャプター4 桜世高校ソフトボール部。

 朝練は、6時半からスタートする。

 グランドに集まった者から校庭を10周し、体を温めてからキャッチボールが始まる。


 1年生は遠投で60メートルくらいしか遠くに投げられないが、2年生ともなれば、70メートルをゆうに超えて投げられる。


 高校生で気をつけなくてはいけないのはヒジだ。

 体がまだ完全にでききれていないから、どうしても弱い部分、ヒジを痛めることが多い。


 なので練習中、保護のためサポーターを巻く選手もいる。

 遠投が終わると、今度はトスバッティングに入る。


 トス・バッティング練習のとき、1年は守備をまかされる。大体1人、20球くらいバッティングし、芯にのせる感覚を養う。


 トス・バッティング待ちの選手はひたすら素振りをする。

 トスの時間、香世は投げ込みで肩をつくる。受けるのはもちろん育子だ。


 育子と香世は付き合いが長いから、顔を見ただけで、その日の相手の調子、好不調がわかった。


 最後は試合形式でバントの練習をし、本番にそなえる。

 バントは右手の使い方が命で、三塁手に球を捕らせたいときは芯に当て、球を転がしたくないときは芯をはずして、バットの先端で打つ。テコの原理で勢いを殺した打球が生まれる。バットを引いたり、押したりしてバントするのは、素人のするバントだ。


 香世は、バントがあまり得意ではなかった。

 けれど不思議なもので、苦手意識がある選手にばかり、試合中、バントの場面が訪れた。


 一通りトスバッティングを終えたナインは、守備練習を開始した。

 監督がグランドに現れ、練習に合流し、一同は帽子を取って、挨拶を交わした。


 監督がノック用のバットを握る。

 まずは内野の守備練習で、苦手意識がなくなるまで練習は続けられる。


 サード。ショート。セカンド。ファースト。キャッチャー。

 ゴロで転がしたボールを内野手が的確にさばいてゆく。


 野球、ソフトボールというのは、ボールが転がってきたとき、考えながら守備を守っているようでは遅い。


 すべてベースカバーも含め、体が反応するくらいまで練習をこなさなくては、意味がない。


 もう1球、余分に球を受けたい内野手は、

 『もういっちょう』

 そう言って監督からのノックを受ける。


 内野ないやの練習が3巡し、外野がいやのノックに変わった。

 レフト、センター。ライト。

 バックセカンドから始まり、内野手が声で、外野手に大声をかける。


 エラーをしたり、球を抜かれた場合は、バックサード。

 ホームへの返球を求められる。


 まずはレフトに、ボールが飛ばされた。

 ショートが、2塁上の2塁手と、レフトの間に入り、2塁手がカットするか、直接返球を受けるかの指示を出す。


 球がレフトとセンターの間を抜け、バックサードの声がかかった。

 レフトの川上美智子がボールに追いつき、サードに返球した。


 サードの佐藤花子が大声を上げ、カットを指示した。

 ショートの伊藤翔子がボールを中継し、ホームへ返球した。


 フライでボールを飛ばすこともあったが、ノックは通常ライナー性のボールで、左中間。右中間に転がすことが多かった。


 次いでピッチャー前のバント練習が行われ、セカンドがファーストのベースカバーに入った。


 三塁手に取らせるバント練習ではショートが3塁にベースカバーに入り、サードへの返球かファーストへのスローインか、キャッチャーからの指示を受けた。


 恒例のキャッチャーフライが行われ、練習は終了した。

 キャッチャーフライも、ベースより後ろで球を受けるか、ベースより前方、ピッチャー寄りでボールを受けるかによって、捕球姿勢が前を向くか後ろを向くかが決まる。


 ベースランニングを終えたソフトボール部ナインは、次の授業に遅れないよう制服に着替え、それぞれの教室に散った。


 香世は、2週間後に控えた期末テスト勉強で夜遅く起きているためか、スタミナが切れ気味だった。


 期末試験が終われば、いよいよ県大会が始まる。4回勝てば全国大会に進めるので、こちらも手を抜けない。


 全国大会常連の桜世高校は、既に全国大会に照準を合わせ、スケジュールを組んでいた。


 去年は3回戦、県大会で沈んでしまったので、今年はなんとしても全国大会にこまを進めたかった。


 練習で成功できない技や打撃を本番で望むのは無理がある。

 監督の宇田川は、常日頃から練習の大切さを説き、選手のモチベーションの維持に努めた。


 練習は長い時間やればいいというものではない。

 特に間違った練習を長時間こなし体に叩き込んでしまうと、悪いクセを身につけてしまうので注意が必要だ。


 そのために、監督の他に打撃コーチ、守備コーチが、もう1人ずつ付いた。

 球拾いでボールを3個見つけられなかった生徒に、ケッパン(けつバット)して、春の大会を出場停止になった経緯があったので、それからケッパンは御法度になった。


 香世は教室に入り、1時間目の授業を受けた。授業は数学で、香世の苦手な科目だった。


 薬学部の大学を目指す香世は、受験科目に数学が含まれるので、どうしてもないがしろにするわけにはいかなかった。


 どうしてこうも数学というのは難解なのだろう?

 中学の数学教師が苦手だったので、そのまま苦手意識が数学嫌いにつながってしまった。


 『先生のこと、きらいでもいいぞ。でもな、数学は嫌いになっちゃいけないぞ』

 その言葉も虚しく、香世は、数学の授業についていけなくなり、赤点の駄目出しをした。


 中3まで続けた塾の勉強も、やがて高校生になるのを境にやめてしまった。

 塾の勉強はたしかに役に立ったが、それが災いして結局、授業中におしゃべりしてしまい、悪循環となった。


 練習を終えての期末勉強はたしかにしんどく、毎回、睡魔との戦いだった。

 週末に提出する歴史の宿題もまだ手にしたばかりで、ほとんど手つかずのままだった。


 『お兄ちゃんがいたらな?』 

 香世の口癖をロミは真っ向から否定した。

 親友のロミは、兄の存在を頭から否定する。


 『勅使河原君みたいな兄貴ならいいけどさ。兄貴なんてさ、ほんと暑苦しくて、汗臭くて、同じ生き物だとおもえないんだけど』


 ファーストを守る滝口裕美・・通称ロミの言葉を思い出した。香世はレズにしてブラコン(ブラザーコンプレックス)で、アンチ・ファザコンだった。


 英語は単語帳を作っていて、自分で言うのも変だが、かなりの割合で授業を理解していた。英語の先生が好きなのも、香世には幸いしていた。


 期末試験1週間前になり、部活動が停止した。

 ほんのわずかな息抜きの時間が訪れた。香世は親に買ってもらったばかりのアマゾンKINDLE FIRE HDタブレットで、婆雨まう、の、『皆殺しの歌~200万で戸籍を売った男』を読んだ。


 電子書籍は最初に本体の初期投資がかかるが、無料本もたくさんあり、すぐに元が取れる。お父さんは、そう香世に説明して、タブレットを買い与えてくれた。


 たしかに本1冊の単価も100~500円くらいと手頃で、1ヶ月も使い込めば十分おつりがくるのかもしれない。


 香世は、1ケ月に3千円まで、本の購入を許されていた。

 多くは無料の本ばかり購入していたが、マンガもよく読みあさった。


 その日は寝る前にお気に入りのマンガを読み返し、夕方から昼寝し、深夜から明け方まで勉強した。


 歴史、公民用に単語帳を新たに作り、得意の国語は本をぺらぺらと読み返し、ノートで要点をチェックした。


 香世の成績は全体の中の上で、よくもなく、悪くもなく、平凡な成績だった。ここが進学校だからまだ許せるものの、香世は成績に不満だった。勉強法を見直すことにした。


 勉強にかかせないのは、5感覚をフルに使うことだ。

 文字を書き(手、触覚を使い)、目で文字を追い(目、視覚を使い)、声に出して(口、味覚を使い)、耳で、話した声を聞く(聴覚を使う)。

 これに鼻、嗅覚が伴えば、ほぼ忘れられない暗記方法となる。


 なので時々、勉強時間中に香をたいた。

 仮にもし文字や言葉を目で忘れても、偶然、手(触覚)が文字をおぼえていたり、耳(聴覚)に記憶が残っていれば、正解まで回答を導くことができる。


 香世は、寝る間際。

 自分でCDに吹き込んだ声を聞いて、英語の文法を学んだ。


 眠りに落ちるほんの少し前まで、英単語の暗記ができるよう、工夫した。

 期末試験は4日間で行われ、初日は4科目、試験が行われた。


 どうも数学は赤点ばかりで、苦手意識が強かった。

 2日目、3日目は悲惨を絵に描いたような状態だった。ボロボロの状態で、なんとか最終日を迎えた。


 試験の最終日、英語のヒヤリング試験を終えた香世は、部室の前で育子と談笑した。


 『何度も言うけどさあ、数学がパッパラパーだった』

 香世が第一声、声を上げた。


 『ほんとさ、数学なんて、なんの役に立つわけ。コンビニ行って、レジで釣銭つりせん、間違わなきゃ、それでいいと思うんだけど』

 育子が真顔で答える。


 『大体さ、数学が好きな人に変態が多いっていうけど、ほんとだよね。変質者。性の倒錯者は、なんで数学ばかり好むんだろう』


 『公式おぼえて、なんの役に立つわけ?』

 育子の怒りも収まらなかった。


 『国語ならさ、漢字知ってないと、恥かくけどさ。数学、いらないっしょ?』

 香世と育子は嫌いな数学の話で盛り上がり、振り上げた刀をなかなか収めなかった。


 『公式おぼえてさ、なんの得になるわけ?』

 『でもさ、学問ってさ、全部不要な気がするけど、なんでだろ?』

 監督の言葉を思い出した。


 学問というのは、知識を詰め込むためのものだけではない。

 勉強する姿勢、考え方を学ぶのだ。

 どうすれば理解できるか、どう勉強すれば最短で答えを導けるか、そのプロセスを学ぶことが多い。


 1つの科目を勉強して8割しか理解できない人は、仮に社会に出て、会社勤めをしても、やはり8割の達成感しか得られないし、当然、8割の力しか発揮できない。


 10成し遂げる人には、その裏側まで見えるものが、8割しか達成できないものには隠れた部分まで読み解くことが永遠にできない。

 万事に通ずる。


 1冊の本を読んで3しか得られないか、8理解するか。

 発展して12を得るか。

 その人によって理解度が違って当然だった。


 すべては学校の授業で体に叩き込まれるべきものなのだ。反復練習して、部活と同じ、条件反射すべきものなのだ。


 たかが勉強だと思ってあなどってはいけない。

 知識は詰め込むものではなく、そのプロセス、考え方を学ぶ。そう説く宇田川の教えも、一理あった。


 期末試験が終わり、いつもの平穏な日々が学校内に戻った。

 隣町の高校で、レギュラーを掴みたい一心で、生徒の母親が監督と枕営業をしたことが問題となり、新聞をにぎわせた。


 母親は息子のレギュラーを条件に、監督と逢瀬おうせを繰り返していた。サッカー部の顧問を務める高木先生は、その日を境に教職を追われた。


 弁当を食べ、午後の練習を開始した。

 部活動再開の初日は、比較的、軽めの練習で終わった。にわか雨が降り、練習は頃合いを見て中断された。


 4時には練習を終了し、自転車をこぎ、親友の育子と通学路を走った。

 畜産試験場の脇を通り、キャベツ畑を横切った。


 夕立ゆうだちを受けたキャベツが、キラキラと光り、2人を迎えた。

 途中、坂道をくだり、なだらかなS字カーブのスロープを通り抜け、今度は坂道を緩やかに上った。


 2人の頭の中は県大会、全国大会のことでいっぱいだった。

 香世はおぼえたてのツーシーム、カットボールを試合で試したくて、うずうずしていた。


 肩は十分できていた。

 冬の間の走り込みも万全で、下半身も安定してきていた。

 明日は、新聞社からの取材申込みがある。早めに眠ることにした。

 《続く》

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