プロローグ。
このまま、つぼみのままじゃ終われない。
枯れ木に花を咲かせましょう。
心の声がつぶやいた。
ブラディーメアリーを口に含む。
ウオッカをオロナミンCで割り、トマトジュースで色を添えた、シンプルな
ウオッカが鼻を抜ける。
フローズン・カクテルが体温を奪う。
真っ赤に燃えたメアリーが体の中で熱く花開いた。
ようこそ、メアリー。
私とあなただけが知っている世界。
静かな空間が時を刻む。
達人になると、酒を飲まなくてもベロベロに酔えるのだという。
今の香世は、酔いたい気分でいっぱいだった。酔って何もかも忘れてしまいたかった。
酒の力を借りたくてカクテルを選び、窓から吹く柔らかい風にほほを預けた。
彼女は深く目を閉じた。
心地よい時が流れた。
草木は風の
リンリンと、鈴虫が鳴き、チャンリンシャンと小鳥がさえずった。
草木は枝葉のこすれ合う音で仲間と会話し、鳥たちは青々した枝葉で各さえずりあった。
雨が降り、木々が水を吸う音。養分を吸収する音。照り返す太陽の日差しで、自然は天地からの恵みを受ける。
虫の会話する声が聞こえる時、太陽は天高く昇り、さんさんと地上に光を送る。
虫の寿命は
それは地球の寿命と人間の寿命を比べるようなもので、この世の中では意味を持たない。地球にしてみれば、ほんの一瞬、
イギリスのオーディションで、かつてビートルズを落選させた音楽企画会社が、その3年後、不況のあおりで倒産した。
チャンスをいかせない者には、いつも過酷な運命が待ち受ける。
『幸せになりたいかね?』
あるとき、近所のおじいさんに香世は問いかけられた。
背の丸くなった、おじいさんは、
『世界を変えたいと思うなら、まずは自分が変わらなくちゃいけないよ』
暖かいまなざしを香世に向けた。
おじいさんは動物園で長い間、猿の飼育係を任され、右手の小指が食いちぎられ、指が9本しかなかった。
猿は人間の思うままには決して暮らさない。
思い通りにはならない生き物だ。
その当たり前のことに気付くのに、おじいさんは10年を費やした。
動物は多くのことを人間に教える。
別名、9フィンガーの
そう。自分が変わらなくては、周りは何も変わってくれない。
思えば香世の人生。
オセロゲームのようなものだった。黒を1つ、そしてまた1つ、裏に返し、数少ない白を増やしてきた。
けんか腰の奴。つっかかってくる奴。ねたむ奴。ひがみ根性を持ってる奴。
そいつらみんなオセロのように、ひっくり返して、みな友達にしてきた。
流れに逆らって生きてきたようなところが香世にはあった。やっと掴んだ幸せだって、いつも自ら放棄して堕落へ落ちてゆくようなところがあった。
『これが私の人生なの?』
香世は自らに、そう問いかけた。
生き方はなかなか変えられない。
でも、今の自分なら少しだけ、変わることができるような気がした。
そう、すべてを溜め込むからうまくいかないのだ。
すべてを捨てる勇気。過去を捨て去る勇気を今の私は持たなくてはいけない。
ヒャラーリ。ヒャラリーコ。ヒャラーリ。ヒャラリーコ。
遠くで不思議な笛の音が聞こえる。
あの音はなんだろう?
どこから聞こえるのだろう?
どこか遠い昔に聞いた、不思議な音色が、香世の遠い記憶を
いろいろな雑念が浮かんでは、香世に問いかけた。
幸せは周りと比較して得るものじゃない。
わかってる。
でも、心でわかっていても、受け入れられないことだってある。
香世は一人夢の中にいた。
生きているだけで、周りを不幸にするなんて。香世には耐えられなかった。
目の前で、何かが一瞬、光った気がした。遠くで悲鳴が聞こえる。
育子の叫び声。
助けてという悲鳴。
場面が変わり、耳元で中学校の体育祭。フォークダンスを踊ったオクラホマミクサーが、何度も繰り返し聞こえた。
楽しくなかったなんて、今となっては言わせない。大好きな勅使河原君の手のぬくもりが、今でも右手に残っていた。
落ちぶれると、世の中、いろんなものが見えてくる。ふだん見えないもの。人間の本性。裏の顔を私にだけ見せるようになる。
利害関係がないから、素顔を安心して見せるのかな。
あるものは香世を気味悪がり、またある者は、あざ笑い、捨て台詞をはいた。
昨日は昨日。
今日は昨日のなれの果てだ。
香世は、ずっと、今日まで、父親を憎んで生きてきた。でも今日、この日を境に父親を許そうと思った。
一番の理解者を遠ざけ、私はふてくさって今日まで生きてきた。
けれど憎しみの心からは何も生まれないことに改めて気付いた。
人を憎み、自分の気持ちを
本物は、競争思考を持ち、お互いを高めようと努力するものだ。
今は遠くで暮らす父さんを想った。
私がいくら嫌っても、毛嫌いしても、お父さんからは永遠に逃れられないのね、香世は思った。
あのときの香世には、暖かくて、まだ戻れる場所があった。
万引きして警察に補導されたときも、父親は香世に一言も言わなかった。
『どうした? さあ、帰ろう。おまえには、帰る家がある。戻りたくても、帰りたくても、3.11のように帰る家がない人もいるんだぞ』
『お父さん、怒らないの?』
『元気を出せ。オレはおまえの味方だぞ。どんなときでも、どんなことがあったって、お父さんは香世の味方だ。それを忘れるな。心にたまったこと、なんでも打ち明けていいんだぞ。それは違うなんて、お父さんは言わないから』
そう言ってくれた。
子供は、大人の腹のくくりかたをどこかで見ている。
本気かどうか?
本物かどうか、どこかで品定めをしている。
自分のことを心の底から愛してくれているかどうか? 心配してくれているかどうか、瞬時に判断している。
『してしまったことは仕方ない。人は変われるんだぞ』
そう言って、落ち込む香世を励ました。
怒って威嚇する父親も多いだろう。でも怒るのをじっと我慢している父親を見るのは、娘には格段と応える。
喫煙で停学になったときも、父親は工場を休み、香世を学校まで迎えにきた。バイクで補導されたときも、今思えば、いつもそこには父さんがいた。
あのときも、香世を決して叱らなかった。香世を叱れないんじゃなくて、叱らなかったこと。今ではとても感謝している。
帰り道、食べたチャーシューメンは、チャーシューが大きすぎて、なかなか食べきれなくて。香世は針金を。お父さんは粉落としで替え玉を食べた。涙があふれ、あごが疲れた。
『子供っていうのはな。力で押さえ込もうとすればするほど、はじけてしまうものなんだ。誰だって悪いことを承知で悪さしてるんだ。オレは香世を信じてる。いつかおまえはきっとすごい人になって、周囲を驚かせる人になる。父さんは信じてる』
自分のやってることが、いつか馬鹿馬鹿しいことだと気付くはずだと、父親は言った。
『父さんが、1枚800円の、フクスケのパンツをはいてるっていうのに、香世のやつは、1枚5800円のランジェリーだ。今にきっと大物になる。父さん、信じてる』
なのに私は、高校に入り、お父さんだけを生理的な理由から遠ざけてきた。
父親は工場の倒産、離婚で神奈川を離れ、今では故郷の茨城、友部町で1人暮らしていた。
親孝行したいときに、親がいない。
今、無性にお父さんに会いたいと思った。
人間嫌いで、いつも書斎で本を読んでいた父さん。
山歩きが好きで、いつもコップ酒をおいしそうに飲んでいた父さん。
季節だけがいたずらに巡り、その数だけカレンダーがやぶられた。
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