作家は、あきらめたようにうなずいた。

「じゃあ、二階へ……」

 妻は、立ちあがりかけた作家をソファーに押し返す。

「いいの、ここで。愛して」

「そんな……」

「ばかね、誰も見ていないのに」

 妻は微笑みながら、作家の衿に手をかけた。ブランドもののポロシャツが呆気なく引き裂かれる。

 作家は身体を貫いた痛みに悲鳴を上げた。むき出しになった作家の胸には、無数の傷痕が刻まれている。

「待って!」

「待てない!」

 妻はさらに、作家のズボンのベルトに手をのばす。革のベルトがちぎれた。ズボンとトランクスを破いて、萎えた一物を露出させる。

「そんな……いきなり……」

 作家のひざにまたがった妻は、自分のワンピースも破り捨てた。あらわになった太股は、紅茶の火傷で皮膚がちぢれている。

「我慢できない……」

 妻は作家を押し倒したまましがみついた。

 恐怖にかられた作家は、妻の身体を離そうともがく。

「お願いだ、寝室で……」

 作家は妻の肩を押し返そうと腕に力を込めた。と、その手がずるりと滑った。まるで、妻の身体を突き抜けてしまったかのように。

 彼の手には、べろりとはがれた妻の皮膚が握られていた。えぐられた肩の奥には、骨と真っ赤な肉がひくひくとうごめいている。

 肉の中から血が湧き出して、作家の顔に降り注ぐ。

 肩甲骨をむき出しにしながらも、妻は天井に向かって吠えた。

「いやあぁぁぁ! 素敵! すごいわ! いいわあぁぁ!」

 抱きつく妻の腕が、作家をしめ上げる。

「痛い!」

 作家の背に爪が立つ。血がにじむ。

 苦痛にあえいだ作家は握りしめた皮膚を捨て、両手を妻のあごに当てて思い切り押した。

 妻はうめいた。

「もっと……もっと……」

 ごきっと音がして、妻の下あごが外れた。

 作家もうめいた。

「しまった……また壊してしまった……」

 しかし天上に向かった妻の目は、恍惚感に浸り切っている。

「すごいわ……すごいわ……」

 垂れ下がったあごの奥から、官能の吠え声とともに血の泡が噴き出す。

 作家はその妻を正視する恐怖に耐え切れずに、さらに彼女を押し返そうともがく。

「やめてくれ……」

 が、妻は作家の身体を求めて全身でのしかかった。

「すごい……もっと……もっと、愛して……」

 作家の意識は真っ白に変わった。

 顔をそむけて、ただひたすら暴れる。手に触れたものは押しのけ、引きちぎり、投げ捨てた。作家の手が振り回されるたびに妻の皮膚ははがれ、肉がえぐられ、血が飛び散っていく。

 作家は空白の意識の中で叫び続けた。

「いやだ……やめてくれ……」

 だが妻には、もはや作家の悲鳴は聞こえていなかった。声になりきらない声がもれ続ける。

「いいわ……もっと……もっと激しく……」

 妻は右手を作家の背から離して、自分の乳房を強くもんだ。左の乳房がずるりと滑るように取れた。むき出しになった肉の中、肋骨の後ろで心臓がうねっている。

 作家は妻の左腕を引きはがそうと力を込めた。ばきっと音がして妻の腕の骨が折れた。

 その音で我に返った作家は、はじめて妻の姿をまともに見た。吐き気がこみあげるのを必死にこらえる。

「うぐ……」

 妻は絶叫した。

「そうよ! そこ!」

 妻は宇宙にまで飛び出しそうな絶頂感に全身を震わせていた。茫然と動きを止めた作家に再びおおいかぶさり、右手で作家の首をつかむ。ソファーの背に首の後ろを押しつけられてのけぞる作家は、もはや眼中にない。

 抵抗を封じられた作家の目は、死を目前にした恐怖で見開かれた。

「く……くるしい……」

「いいわよ! いいわよ! すごいわ!」

 作家はなおもうめいた。

「くるしい……たすけて……」

 涙にかすむ作家の目に、クローゼットのドアが逆さまに映った。

 開いている。

 その前に、トランクを握ったセールスウーマンが立っていた――。

 セールスウーマンは厳しい目で妻をにらみつけている。

 作家は叫ぼうとした。

〝にげて!〟

 だが、喉をつぶされて声は出せなかった。

 セールスウーマンは妻に向かって叫んだ。

「止めなさい!」

 セールスウーマンは言ってから、自分がそう命じたことが理解できないように首をかしげた。

 だが、血みどろの妻はセールスウーマンの姿にはまったく気づかなかった。天井を仰いで腰を振り続けるばかりだ。

「いいわ……いいわよ……あ……ああ……いく……す……ご……い……」

 妻の腰の動きが小刻みに変わり、腕の力がわずかにゆるんだ。

 作家は苦しさに涙をにじませながら、セールスウーマンに向かって声を絞り出した。

「だめだ……手を……出さないで……に、げ、て……」

 しかし、セールスウーマンは高まる衝動に逆らえずに、誰かに背を押されたかのように妻の前に進み出た。

「止めなさいったら!」

 セールスウーマンは金属トランクを握る手に力を込めた。大きく横に振ったトランクの角が、妻のこめかみに当たる。

 頭蓋骨が砕ける鈍い音がした。妻の首ががくりと横に傾く。

 妻は始めてセールスウーマンの存在に気づいた。そして、斜めになったままの顔で、何事もなかったかのようにセールスウーマンをにらみつけた。

「なによ、あんた……?」

 セールスウーマンは一歩退いた。

「な、なによ⁉ あんたこそ……なんで死なないのよ⁉」

「あんた……女ね……」

 敵意に満ちた目でにらまれたセールスウーマンは恐怖にかられ、さらにトランクを左右に大きく振った。両腕で握ったトランクが妻の首に叩きつけられていく。右から、左から、何度も、何度も――。

「この! この! この!」

 トランクが激突するたびに、妻の首は大きく揺らいだ。さらに首の骨が折れる音がし、皮膚が破れる。ちぎれた頚動脈から吹き出す鮮血があたり一面を真っ赤に染めていく。

 そして最後に――妻の首はぽろりと落ちた。胴体からどっと血が噴き上がって、セールスウーマンの胸に降りかかった。

 肩で息をつくセールスウーマンはトランクを床に落とし、目を見開いたままぺったりと尻もちをついた。

「あ……あ……」

 首を落とされた妻は、ついに動きを止めた。ゆっくりと作家の身体から離れ、カーペットの上に崩れる……。

 ようやくソファーから身を起こした作家は、あえぎながらつぶやいた。

「今日のは……ひどかった……本当に……死ぬかと……」

 あたりの惨状にようやく気づいたセールスウーマンがうめく。

「わ……私……まさか……殺して……しまった……そんな……なんだって、こんな事を……」

 床に転がった首なしの妻を見つめるセールスウーマンは、瞬きをすることさえ忘れていた。

 息を整えた作家は、破れたズボンを恥ずかしそうに上げた。ゆっくりと立ち上がって、慣れた手つきで飛び散った妻の肉片を集め始める。

 作家は鼻の先で笑うように言った。

「殺す? そんなこと、誰にもできやしませんよ……」

「だ、だって……首が……」

 作家は妻の身体をソファーに座らせ、拾い上げた首をのせた。手を離して肩をすくめる。

「ほら、落ちないでしょう」

 確かに、首は落ちなかった。

「うそ……くっついたの……? まさか……生き返るの⁉」

 作家は悲しげにうなずいた。

「五分もすれば、また動きます」

「そ……そんな……ゾンビだって、首がなくなれば死ぬのに……」

「悪魔がそんなに簡単に僕を解放してくれるもんですか」

「でも……あなたが殺されるかと……」

「そう見えたでしょうね。本当に殺されれば、どんなに幸せか……。悪魔は言いました。僕が自殺しても、妻はあの世までついてくる……別れる方法は、寿命で死ぬか……妻に殺されることしかない……。妻に殺されるなんて無理ですよね……僕だけを愛するように作り変えられているんですから。でも、僕は殺して欲しかった……妻に殺されたかった……なのに、いつだって僕の首が折れる前に、決まって妻の腕の関節が外れてしまうんです……。何しろ、組み立てが不器用だったものだから……」

「い……いつも……こんなふうに……?」

「一日、三回。……妻はマゾだったみたいです。最初に結婚した男は病的なサディスト。だから、こんな愛し方しか知らないんでしょうね……。そして僕は、死ぬまで愛されるんです。もっと器用に作ってあげられれば、こんなに簡単に壊れないんでしょうけど……。美人だったのに……あなたのように……。僕が元通りに組み立てられれば……」

「だって……服をちぎったり……あんなに乱暴だったに……なのに、こんなに簡単に壊れてしまうなんて……」

「興奮するとだめなんです。接着の仕方がよくなかったんじゃないかと……」

「でも……直るんでしょう……?」

「生き返りますが、裂けた傷口はすぐには塞がりません。見た目は、つぎはぎのフランケンシュタインの怪物です。さわれば血が噴き出すし……ここまで壊れてしまったら、一週間はそんな妻を抱くことになるんです……。特に顔は直るのが遅くてね……。今までもそんな事が何度か……。だから、せめて化粧をと……」

 セールスウーマンははっと気づいて、自分の服を見た。

「私にも血が……あら⁉ 付いていない!」

 セールスウーマンは周囲を見回した。飛び散った血の染みの範囲が、さっきよりずっと小さく狭まっていた。

 作家は床を指さした。

「血液も皮膚も内蔵も、それ自身で生きているみたいなんです」

 カーペットに染み込んだはずの血が、アメーバーのようにうごめいて表面に浮かび上がり、意志を持ったように集まり、倒れた妻の傷口に吸い込まれていく……。

 作家はかがんで、そのひとかけらをつまみ上げた。指にぶら下げられた血の固まりが赤いゼリーのようにぷりぷりと揺れる。

 セールスウーマンは目を丸めていた。

「……」

「不思議でしょう?」

「私……吐きそう……」

 作家は溜め息まじりにつぶやいた。

「五年も繰り返していれば、慣れます。慣れはしますけどね……」

 セールスウーマンはいきなり立ち上がった。

「帰ります」

 作家は血のゼリーを捨て、床に落ちていた財布を拾った。

「それがいいですね、今のうちに。ご迷惑をおかけしました。ここで見たこと、忘れてくださいね」

 財布からは次々と札束が現れる。

 セールスウーマンは目を見張った。

「まさか……」

「これも、悪魔がくれたんです。金はいくらでも出てきます。じゃなければ、暮らしていけません……。あ、大丈夫。あとで木の葉に変わったりはしませんから」

 セールスウーマンは、押しつけられた一千万ほどの現金を握りしめた。

 その時、血まみれの妻が動いた。ごぼごぼとつぶやく。

「この浮気者が……私という妻がありながら……よくも……他の女を……」

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