第四章・信者の恋

 集中治療室に近い廊下の粗末なソファーで祈っていた信者に、年配のナースは告げた。

「ご臨終です」

 ナースの顔をぼんやりと見上げた信者は、何も答えられなかった。ほんの数時間の間に、あまりに突飛な出来事が続いたためだ。驚きも落胆も感じられない。

 信者の頭には、ただひとつの思いが渦巻いていた。

〝神様……どうして? なぜ、あんなにいい方を……?〟

 ナースは念を押した。

「たった今、お亡くなりになりました」

 信者は依然、応えられない。

〝いい方だからこそ、神様がお召しになられたのかも……〟

 ナースの表情に不安がよぎる。

「あの……あなた……あの患者さんのご家族ではないんですか?」

 信者はようやくナースの質問を理解した。

「え? ええ……その……ただの知り合いなんです」

 だが心のどこかで、己れの言葉への疑問がわき上がった。

〝本当に私たち、ただの知合いだったのかしら……。それならどうして、私は一人で会いに行ったんだろう……。教会から禁じられていたのに……。私があんな気にならなかったら、事故は起こらなかったかもしれないのに……〟

 ジゴロを死に追い込んだのが自分だったのかもしれないという恐れが、信者の思考力を麻痺させていた。自分がジゴロを愛しはじめていたことさえ、信者は気づかずにいた。

 信者にとって〝神への愛〟は生活の全てだった。しかし〝男女の愛〟はまったく未知の感情なのだ。

 無我夢中でタクシーを捕まえて、ジゴロを乗せた救急車を追った理由も、自分では理解していなかった。

 ナースは疲れ果てたようにつぶやいた。

「困りましたね……ご家族の方はおいでになってないんですか? 緊急時でしたから手術をしないわけにはいきませんでしたが、死後の処理はご家族の協力がないと……。手術費用のご相談もありますし……どなたか連絡先をご存じありませんか?」

 信者は首をうなだれた。

「いいえ……ただの知り合いですから……」

 ナースは無表情に続けた。

「遺体の損傷が激しくて……お顔はほとんど原形を止めていないんです。修復には手間と費用がかかりますし、生前のお写真とかがないと……。臓器移植への協力もお願いしたかったんですがね……」

「私には、なんとも……」

〝本当に私、何のつもりでこんなところまで来たんだろう……? 家族でもないのに……〟

 信者のスラックスのひざに、ぽつりと涙の染みが広がった。

 と、廊下の端から二人の男がやってきた。ジゴロを見張っていた刑事たちだ。信者とナースを見つけると中年の刑事が声をかけた。

「婦長さんでいらっしゃいますか? 患者さん、いかがでしょう?」

 ナースは黙って首を横に振った。

 刑事はうなずいた。

「そうでしたか……ま、あの高さから落ちたのでは無理もありませんな」

「あなた方は?」

「あ、申し遅れました。こういうもので……」

 刑事は手品のように背広の裏から警察手帳を抜き出した。

 ナースはゴシップの可能性を嗅ぎとって目を輝かせた。

「警察の方? あの方、何か事件に巻き込まれて事故に?」

「まあ、そんなところです。あまり詳しいことはお話できないのですが……」

 わずかに肩を落としたナースは、それでも安堵の溜め息を交えて言った。

「でも、よかったわ。身内の方がいないというんで、どう処理したらいいのか困っていたんです」

「実は、我々の捜査でも彼の肉親は確認されていません。当面、遺体は警察が管轄することになるでしょう」

「司法解剖が必要?」

「いや。事故の現場は私も目撃しています。死因に不審な点はありません」

「あら、それならなぜ警察が?」

 刑事はうつむいたままの信者を見つめた。

 噂話好きのナースに余計な情報は与えたくなかったが、彼女に対してはジゴロの正体をはっきり明かしておくべきだという気持ちがあった。

 刑事は信者に語りかけるように言った。

「亡くなられた青年は、実は我々が捜査していた重要犯罪の犯人だったのです。事故は張り込みの最中に起こりましてね……」

 話の内容にようやく気づいた信者は、茫然と刑事を見上げた。

「あなた方、刑事さんなんですか……? まさか……あの方、警察に追われるようなことをなさっていたんですか?」

 刑事はうなずいてから、ナースを見た。

「申し訳ありませんが、しばらく席を外していただけませんか? この娘さんにうかがいたいことがありますので」

「しかし、死体の処理を早く決めていただかないと。臓器の提供もお願いしたかったんですが……」

 舌なめずりでもせんばかりのナースの表情は、話の先を聞きたがっていることをあらわにしている。

 刑事は部下に命じた。

「君、婦長さんと一緒に行って、本署と連絡を取ってくれたまえ。課長に指示を仰ぐんだ」

「分かりました」

 不満そうなナースは若い刑事に腕を引かれて廊下の端へ消えた。

 残った刑事は信者の横に座って、無意識のうちに煙草を出した。

 信者は感情を表さない視線で煙草の箱をじっと追っていた。

 刑事は、会話を拒否されているのだと感じた。

 と、刑事は自分が煙草をくわえていたことに気づいて、ばつが悪そうに言った。

「あ、病院で煙草なんて、とんでもないですよね」

 信者はぼんやりと答えた。

「ええ……」

 刑事はタバコを箱に戻すと、流れるように話し始めた。

「とんだ事件に巻き込まれてしまいましたね。いや、今日のことだけじゃなく」

 信者の返事は道に迷った幼稚園児のように心細げだった。

「でも、私には何が何だか分からなくて……。あの方……何をしていたとおっしゃるのですか?」

「お分りにならないでしょうね。極秘の調査でしたから」

「さっきは重要犯罪だとかおっしゃってましたが……?」

 刑事はわずかに考えてから言った。

「……隠さないほうがあなたのためにもなるでしょう。実は彼は、世間を騒がせている連続強姦殺人犯だったんです」

 信者は驚きに全身を震わせた。

「うそ⁉」

 じっと刑事を見つめる。

 刑事の答えは冷静だった。

「残念ながら、確実です。彼の部屋から指紋を採取したんですが、すべての殺害現場に残されていたものと一致しました。たった今、連絡が入ったばかりです」

「だって……だって……あの方は、子供と私を助けようと……命の危険さえ冒して……そして実際にこんなことに……そんなに優しくて勇敢な方が、まさか……」

「私も心情的には納得できません。しかし、証拠は証拠です。被害者の多くは彼と一緒に写った写真を持っていましてね。彼女たちがかなり深い関係にあったことは確実です。ここ一週間ほどの間に殺された女性たちとは一時的な関係だったようですがね。さらに、複数の被害者の死体から同一のDNAを持つ精液が採取されています。彼の血液と比べた鑑定結果が出ればもっと確実な判断が下せます」

 世間知らずの信者にも、警察は普通、それほど詳しい情報を一般人に明かしはしないということは分かった。信者は刑事が部外者に内部事情を明かす理由を疑った。

「まさか、私がその犯罪と関係していると思っていらっしゃるんですか⁉」

 刑事はうなずいた。

「たしかに一時はそうも考えて……申し訳ありませんが、あなたの身辺調査もいたしました。結果は白。今ではまったく疑いは抱いていません」

「ではなぜ、私にこんなお話を?」

「失礼ながら、あなたが彼に恋をされているとお見受けしましたもので……。死んだ者を悪く言いたくはありませんが、相手が極悪非道の犯罪者であるなら例外でしょう。はっきり申し上げましょう。あなたは、次の標的だったかもしれません。彼が死ななければ、今度はあなたが殺されていたかも……。彼の死に関して責任を感じる必要はないということを、分かっていただきたかったのです」

 信者はぼんやりと刑事を見つめた。

「でも、私があんな無謀なことをしなければ……。彼がもし悪人であったとしても、私には裁く権利はありません。それが許されるのは神様だけです……」

「あなたが彼を突き落としたわけではない」

「でも私が屋上に行かなければ、彼だって……」

「あなたが手を貸さなければ、落ちかかっていたお子さんは死んでいた。どうしても彼の無実を信じていたいというのでしたら、彼はあのお子さんの身代わりに神に召されたと考えれば納得できるのではありませんか? 無垢な魂の代わりに穢れた自分を捧げた、と。彼はこれで天国へ行けます」

 信者はかすかにうなずいて目を伏せた。

「私……どうしたらいいんでしょう……?」

 刑事は軽く肩をすくめた。

「何もしなくて結構。一応、こちらから連絡を取れるようにしておいてくださればありがたいですがね。捜査の状況次第で、お尋ねしたいことが出てくるかもしれませんので。ま、早く日常の生活に戻って、彼のことは忘れることです。幸い、深い関係にまでなっておられなかったようですから」

「ええ……」

 男女の機微にはうとい信者でも、刑事が言おうとしていることは理解できた。

〝深い関係……。私、そうなりたくて、一人であの方の部屋に行こうとしていたのかしら……?〟

 刑事はソファーを立つと、つぶやいた。

「もっと早く彼が犯人だと断定できていれば、こんな事故は防げたかもしれないんですがね……。お恥ずかしい話ですが、今回の事件では妙に捜査がもたつきまして……」

「あのお子さん……彼が助けた子は大丈夫だったんですか?」

「ぴんぴんしていますよ。今は交番で保護しています。離婚した母親が一人で育てているようなんですが、勤めに出たまままだ居所がつかめなくて……。スナックの雇われママだそうです。あの子、自殺する気だったと言っていました」

「まさか……まだ小学生なんでしょう?」

「どうせ本気じゃありません。でも、足を踏み外せば死んでいました」

「やはり、あの方が身代わりになったのね……」

 刑事は、信者がまだジゴロの真の姿を直視することを避けていることを感じた。だが、公務員としてなすべきことは終わらせた。その後の信者の行動に介入する権限はない。

「それが彼の罪滅ぼしだったのでしょう。では、失礼します。マスコミが嗅ぎつけるかもしれません。あいつら、英雄の活躍が大好物ですからね。しかもその英雄が実は殺人犯だったと分かれば、当分報道熱は冷めないでしょう。巻き込まれると面倒ですよ。早くお帰りなさい」

 刑事は立ち去った。

 一人残された信者は、しかしソファーから立つことができなかった。じっと床を見つめて心の中でつぶやく。

〝嘘よ……あんなにいい人が人殺しだなんて……絶対に嘘よ……私に、彼を助ける力があれば……〟

 そのまま時間が過ぎていく――。

 と、傍らに人が座る気配があった。

 女の声。

「彼を助けたい?」

 問いかけられてはっと顔を上げた信者は、相手を見た。

 病院には似つかわしくない蛍光色のタンクトップとぴちぴちのジーンズを身につけた、見知らぬ娘だ。

 世間知らずの信者ですら、場末の売春婦を想像した。  

 娘はじっと信者の目を見つめて繰り返した。

「助けたい?」

「あなた、誰?」

「あなたは私を知っている。モリーよ。今は、天使さんのお手伝をしているの」

「モリー? 天使?」

「面倒な説明は苦手。だって私、人間じゃないから。お願いがあるの。あの人を生き返らせて」

「そんな……私にはそんなことはできません」

「できるんですって、本当に愛しているなら。天使さんが言ってた。どんなに腹黒い人でも、その人を心から愛している人が生き返らせたいって願えば、純真な人に作り替えられるって」

「そんな……」

「できるなら私がしたいんだけど、猫じゃだめなんだって……」

 信者はようやく気づいた。

「あ、モリーって……?」

 娘は笑った。

「そう。あの人と一緒に住んでいた、猫。私、あの人が好きなの。だからあなたにお願いするの。ねえ、彼を生き返らせて。あなたから天使さんにお願いして」

 信者にはモリーが精神科の病棟から逃げ出してきた患者に思えてきた。

 だが、『天使が愛する者の願いをかなえる』という話は信じたかった。実際彼女は、ジゴロの復活を願っていた。

「いいわ。お願いします。心からお祈りします」

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