意識を回復したジゴロは、顔を覆い尽くした包帯に手をやった。

 顔には、酸素や栄養分を補給するためのチューブが五本も差し込まれている。ゆっくりと、震える手でまさぐる――。

 恐怖にかられたつぶやきがもれた。

「暗い……どこなんだ……僕は……どうしてしまったんだ……? 死んだのか……?」

 信者は、ベッドサイドの椅子の上でうたた寝から覚めた。ジゴロの心臓に鼓動が戻ったと聞かされた瞬間から傍らを離れずにいたのだ。

 おびえて飛び起きようとするジゴロを優しく取り押さえる。

「落ち着いて。管が外れちゃう」

 信者は猫のモリーが天使の使いだと信じた時から、ジゴロは生き返るかもしれないと感じた。その後に信者は、初々しい少女の姿をした天使と対面した。予感は確信に変わった。そして一晩中、ひたすらに祈り続けた。

 だが、実際にジゴロの声を確かめられたことはやはり驚きだった。

 思わずつぶやいた。

「神様……ありがとうございます」

 が、ジゴロはパニックに落ちる寸前だ。

「だ、どこなんだここは……⁉ 僕はどうしたんだ……⁉」

 信者はそっとささやきかけた。

「病院のベッドよ。あなたは三日間眠り続けて、そしてよみがえったの。天使様のおかげよ。でも、まだお医者さんの言い付けは守らなくちゃ」

「病院……君は……誰?」

「あなたに命を救けられた女よ。だから今度は、私があなたを救けたいの」

 ジゴロは急速に記憶を取り戻した。自分が置かれた状況をようやく理解したジゴロは、安堵の溜め息をもらした。

「そうか……君か……」

 信者はうなずいて席を立つと、ベッドの枕元のナースコールのボタンを押した。

「今、ナースさんが来るわ。あなた、今ではスターよ。先生でも信じられないほどの早さで回復しているんですって。たった数日で普通の病室に入れるなんて、誰も考えていなかったみたいよ。きっと近いうちにテレビ局の人も押しかけてくるわ」

「スター……って、なんのこと?」

「命がけで子供を救けて、しかもいったんは死んだと思われたのに、移植用の臓器を取り出す寸前に生き返ったスーパーマン――それが今のあなた。顔の傷もどんどん治っているそうだから、病院だって近いうちに出られるかもしれないって」

 ジゴロは自分がマンションの屋上から落下しながら目にした光景を鮮明に思い出していた。

「そうか……僕は自転車置場に叩きつけられて……」

「気分はどう?」

「不思議だ。あんなことがあったのに、生まれ変わったみたいにさっぱりしている。身体中に力があふれているみたいだ」

「きっとゆっくり休んだからね。傷、痛くない?」

「うん。なぜだろう……全然痛くない。こんなに包帯を巻かれてちゃって、どうしたのかな?」

「落ちた時に顔を地面にぶつけたらしいの。私も包帯の下はまだ見ていないんだけど……」

「どうせたいした傷じゃないんだろう。痛みもないんだから。医者なんて、いつだって大げさなものだからね」

「そうよね。こんなに元気なんですものね」

「でも僕は、どうしてこんなにひどい目にあったのかな……」

 信者は天使から、ジゴロが連続殺人の犯人であることをはっきりと聞かされていた。そして、その陰に悪魔の陰謀がうごめいていたことも。

 しかし信者は事実を知った後でも、ジゴロにもう一度人生をやり直すチャンスを与えてほしいと懇願したのだ。それ以来警察は、ジゴロが犯人だったことを〝忘れて〟いる。

 だが本人が過去を記憶していることは充分に考えられた。

 信者は不安げに尋ねた。

「何も覚えていないの?」

「いや……起こったことは覚えているんだけど、どうしてそんなことをしたのかが思い出せなくて……」

「……きっと、悪魔の仕業だったのよ」

〝そして天使様が、悪い記憶を拭い去ってくれたのよ。顔の傷もすっかり直してくれたに違いないわ〟

「悪魔……?」

「そう。でもあなたは最後には人の命を救って、神様の助けを得られるようになったの。あなたは、あなたの中に隠れていた〝善の力〟で悪魔の企みを打ち破ったのよ。だからこうしてよみがえることを許されたんだわ。実はね……あなたは悪魔に操られていたんだって、天使様が話してくれたの」

「天使、か……。さすがに信心深いね。君は本当に天使だとか悪魔だとかを信じているんだ」

「もちろんよ。実際に話しもしたんですから」

「悪魔と?」

「いいえ、天使様と。あなたの猫も、天使様に人間にしてもらえたのよ」

「猫? モリーが?」

「今は天使様のお手伝いでずっと出かけているけど。なんだかとても忙しいみたい」

「僕、やっぱりまだおかしいのかな……」

「信じられない?」

「もちろん」

 信者はくすりと笑った。

「それなら、正常。でも、私は嘘は言っていないわ。時間をかけてゆっくり納得してもらうから、今は気にしなくてもいいのよ」

 ジゴロの動揺は完全に収まっていた。と同時に、別の疑問がわき上がった。

「君……ずっと看病していてくれたのかい?」

「ええ」

「なぜ? ちょっとした知合いってだけなのに……」

「言ったでしょう、あなたが命の恩人だから。それに私、天使様に誓ったの。あなたをよみがえらせてもらえるなら、今後絶対にあなたから離れない――そして、もう決して悪魔は寄せつけません、って」

「悪魔ね……僕は本当に悪魔に操られたりしていたんだろうか……操られて、何をしたんだ?」

「終わったことよ。思い出す必要はないの。今のあなたは神様の子供に生まれ変わったんですもの。これからは私と一緒に神様の言葉に従って生きていきましょう。それとも……私とじゃ、いや?」

「とんでもない。君が……僕は君がずっと好きだったんだ……」

 言ったとたんに、ジゴロの心に冷たい風が吹き抜けた。

〝この女が? そうじゃない、僕が愛していたのは他の……この女に似ている誰かのはずだ……だけど、誰だ?〟

 ジゴロは、肝腎のセールスウーマンの顔を思い出すことができなかった。

 ジゴロの腹の内を読むことができない信者は、安心したようにつぶやいた。

「うれしいわ。私もあなたが忘れられなくて……」

 その時病室のドアが開いた。医者とナースが入ってくる。

 白髪の医者は、二人が平然と会話をしていることに肝をつぶした。

「君⁉ 話しができるのか?」

 ジゴロは、医者の言葉に表れた驚きを逆に不思議に思った。当然だというように答える。

「ええ、話せますが……?」

 医者はナースと目を見合わせた。

「たまげたな……あれほどの傷を負って、一時は心臓が完全に停止したというのに……」

「私もこんな患者さんは初めてです……脳の機能も、正常みたいですよね……」

 信者は席を移動し、替わって医者がベッドサイドに進んだ。ジゴロの顔の包帯にそっと手を触れる。

「痛みは感じるかね?」

「いいえ……」

 医者はナースに言った。

「今、投薬している痛み止めは?」

 ナースはクリップボードを差出しながら答えた。

「それほど強力な鎮痛剤は投与していませんが……」

「なるほど……これも驚きだな。よし、包帯を外してみよう」

 ナースは医者を見つめた。

「早すぎませんか?」

「本当に痛みが消えているなら、一刻も早く次の治療段階に入るべきだ。とにかく経過を確認しないとな」

「分かりました」

 ナースは医者と位置を替わり、ジゴロの顔につながっていたチューブを外した。力強くジゴロの上体を起き上がらせ、片手で手早く包帯を外していく。

 信者からは医者の陰になって、ジゴロの顔は見えなかった。

 包帯が外れると、医者は悲鳴にも似た声を上げた。

「何だと⁉ なぜこんなに素早く回復するんだ⁉ 人間業ではないぞ……」

 ナースもうなずいた。

「もう傷口がすっかり乾いています……」

 茫然と立ち尽くす二人の間から、信者はジゴロをのぞき見た。

 ジゴロの顔は完全に原型を失っていた。それはまるで、閉店間際のスーパーで叩き売られる、肉汁がにじみ出したブロック肉のようにしか見えない――。

 真っ赤な肉の固まりに裂け目が走り、そこからジゴロの嬉しそうな声がもれた。

「治っているんですか? 見たいな」

 医者は言った。

「すごい! 奇跡だ、これは! 見たまえ、見たまえ」

 ナースがあわてて制する。

「でも先生、こんな状態じゃ……」

 医者は興奮を隠せずに言った。

「かまわん! 超人的な回復力を見せているんだ。本人には自分の能力を知る権利がある。奇跡だ、これは。学会に報告したら私はスターだ……」

 医者は部屋を見渡し、ベッドサイドの棚に置かれていた信者の手鏡を取った。それをためらわずにジゴロに手渡す。

 ジゴロは鏡を見て悲鳴を上げた。

 信者は気を失って床に崩れた。その一瞬、信者は天使の声を聞いた。

『姿形にとらわれてはいけません。彼の心は清められています。二人で手を取り合って、神の世界を求めるのです』

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