3
それは信者が、夢に現われる天使から何度も語りかけられた言葉の繰り返しだった。
「気を落さないでね。あなたには心の清らかさがあるんだから……」
しかしジゴロはどん底に落ち込んでいる。どう慰められても、十五回目の就職活動に失敗した傷は癒えない。
畳に座り込んでうつむいたジゴロの声からは生気が消え去っていた。
「でも……僕なんかにできる仕事はないんだ……」
ジゴロが信者の安アパートに転がり込んでから二ヵ月が過ぎていた。相手が敬虔な信者だけに身体の関係こそなかったが、二人は夫婦も同然の暮らしをしていたのだ。
ジゴロには落下事故の後遺症は全く現われず、無数の女を手玉にとって暮らしていた頃の記憶も消えたままだった。共に暮らすようになってから一層信心深くなった信者に感化されて、進んで教会に通っているほどだ。
だが、醜く歪み、皮膚がちぢれた顔は回復していない。病院では皮膚移植の可能性は残されていると説明されたが、その治療費は膨大なものだった。信者の経済力とマスコミから得た取材料では、回復後の入院費を清算するのが精一杯だった。
〝命を捨てて子供を救った英雄〟は、ほんの一週間ワイドショーを賑わせただけで忘れられた。包帯を外したとたんに、テレビカメラはジゴロの周囲から消え去ったのだ。美談には商品価値があるが、醜さは昼の茶の間にはそぐわない。
あとに残ったのは、すれ違う人々が顔をそむける不気味な顔だけだった。
信者はもう一度言った。
「大丈夫……自分を信じるのよ」
ジゴロはそう励まされて、何度も働き口を探そうとした。
運良く面接に応じる会社や商店はあっても、人事担当者はジゴロの顔を見たとたんに目を伏せる。教会のつてをたどって探せる職場も心身障害者の雇用に限られ、〝健康〟なジゴロが入り込める隙はなかった。
たった一度、ジゴロが子供の命を救ったことに感銘を受けた倉庫会社の社長がアルバイトの口を都合してくれた。陽も差し込まず、蒸し暑くかび臭い倉庫での荷物運びだった。
だがジゴロは、与えられた仕事を満足にこなすことができなかった。
ジゴロは、心から仕事をしたいと願っていた。さして知能が高くない同僚たちから〝肉団子〟と陰口をたたかれることにも耐えた。なのに、これまで定職についた経験がない彼には、仕事というものの性質が全く理解できなかったのだ。
ある荷物をある場所に運ぶ――そう指示されたときのジゴロの仕事ぶりは、監督官から見れば油を売っているようにしか見えなかった。自分が〝のろま〟と見られていることが痛いほど感じられた。その分、努力もした。
だが緊張のあまり手を滑らせて落とした木箱には、運悪く高価な壷が収められていた。幸い壷に傷はつかなかったものの、〝肉団子〟のあだ名は〝ボケ団子〟に変わり、結局アルバイトは一週間で終わった。
以来ジゴロは、信者が始めたスーパーのレジ打ちの収入で養われていた。
「でも、ダメなんだ……僕はみんなのようには働けない……一生懸命頑張ったのに、荷物運びひとつまともにできないんだ……」
「そんなことはないわ。努力さえすれば何だってできるようになるわよ。私、何度かあの倉庫会社の社長さんにお願いにいったの。もう一度雇ってもらえませんかって。やっと昨日、今度ゆっくり相談しようってお食事に誘われたのよ」
「僕も行くのかい?」
「次の日曜なんだけど……行きたくないの?」
「うん……」
ジゴロの顔――赤い肉塊の中にぽつんとはまった〝目〟には、おびえのような色が浮かんでいた。
ジゴロは自信を失っていた。好意で雇ってくれた社長に迷惑はかけられないという気持ちもあった。その社長にまた顔を会わせることは身を千切られるほどに恥ずかしい。
しかも、もう一度チャンスを与えられたとしても、同じ失敗を繰り返す可能性が高い。そう恐るたびに、身体が強張ってしまう。
信者は言った。
「だめよ、弱気になっちゃ。神様は、自分の力で生き抜こうとする人をお助けになるのよ。天使様に与えられた命ですもの、神様のためにも全力を――いえ、持てる力以上の力をふり絞って頑張らなくちゃ。私も、もうひとつお仕事を見つけてきたのよ。ね、一緒に頑張ろう。あなたならできるわ、絶対に。だって命がけで子供の命を救った人なんですもの。一生懸命働いてお金ができれば、顔の傷だって直せるかもしれないんだし……」
「でも……」
「嫌だったら無理しなくていいのよ、私ひとりで行ってお願いしてくるから。風邪をひいたとか言い訳すれば……嘘はよくないけれど、そのぐらいなら神様もきっと許してくださるわ。自分の力で生きぬくための方便なんですもの。心を込めて頼めば、社長さんもきっとチャンスをくださるわ」
「でも……」
信者は手元の目覚まし時計に目を落とした。
「あら、もうこんな時間! ごめんね、私、次の仕事に行かなくちゃ。初日から遅刻するわけにいかないものね」
「今度はなんの仕事?」
「コンビニの深夜店員」
「そんなに働いて……」
「大丈夫よ、レジ打ちにも慣れたから。あなたを救けることが神様から与えられた私の役目なんだし。だから、一緒に頑張ろうね。あの倉庫で雇ってもらえなくても、また私が就職先を探してきますから」
「うん……」
「ね、気を落しちゃだめよ」
信者はそう言って部屋を出ていった。
一人残されたジゴロは、まるで時間が止まったかのように、そのまま数十分間身動き一つしなかった。
そしてようやく、重い溜め息をもらす。
「そうだな……気を落してばかりいられないよな……」
亡霊のように立ち上がったジゴロは使い古した机に向かい、引き出しから書きかけの履歴書を出した。あと三通、今夜のうちに書いておかなければならないのだ。明日、面接に出かける分だ。
ジゴロは写真を添付する欄を見つめて、もう一度溜め息をもらした。
「僕はどうしてこんなに無能なんだろう……」
と、玄関にノックの音がした。
〝きっと教会の誰かだな……〟
ジゴロは、精一杯の〝愛想笑い〟を浮かべてドアを開いた。
扉の前に立っていたのは、見知らぬ若い娘だった。ぴったりしたジーンズの上はタンクトップ一枚だ。ノーブラで乳首が浮き出して見えている。
娘は首をかしげたジゴロを押しのけ、当然の権利のように部屋に入り込んで笑った。
「天使さんのところ、逃げ出してきちゃった。ああしろこうしろって、うるさくってさ。面倒臭くなって、大喧嘩しちゃったんだ」
ジゴロは、自分の顔を見ても平然としている娘に驚き、言葉を失った。
娘は部屋の真ん中でいきなり畳に横になった。ささくれだった畳でも、ひんやりとして気持ちがいいらしく、ころころと転がる。そしてくるりと丸まって大きくあくびをすると、手で目をこすった。
人間離れした娘の振るまいを茫然と見下ろしていたジゴロは、ようやく不安げにつぶやいた。
「君……誰?」
娘は動きを止め、ジゴロを見上げた。
「あ、そうか……人間になってから会うのは初めてだったね」
「え?」
「私、モリーよ。天使さんに人間にしてもらったの」
「モリー? まさか……あの猫?」
「彼女から聞いてないの?」
ジゴロは首をかしげながらモリーの横に座った。
「聞いたことは聞いたけど……夢でも見たんだろうと……まさか、本当に猫が人間になっただなんて……」
モリーは横になったままぐいっと伸びをすると、しなやかな動きでひざをついてジゴロの身体にしがみついた。
「うーん、いい気持ち。なつかしいな……あなたの匂い、大好き……」
ジゴロは身をよじってモリーの抱擁から逃れようとした。
「だめだよ、こんなこと……」
モリーはぐいと顔を寄せてジゴロを見つめた。
「なんで? 私、猫なのよ。今までだってずっとこうしてきたのに……」
「猫だっていっても……猫の姿なんかしていないじゃないか。誰も信じないよ……」
「それでも、猫だもの。あなただけを愛していた、猫」
「僕の顔が恐くないのかい?」
「顔なんか関係ない。匂いも手触りも変わってない。あなたはあなた。私の大事なひと」
「でも……」
だが、ためらいを見せたジゴロの中で、何かが変わり始めていた。胸の中に熱い感情がこみあげる。
包帯を外してから初めて、自分が自分だと認められたのだ。ジゴロをうっとりと見つめるモリーの目には、常に信者の視線の片隅に宿った〝同情〟や〝義務感〟はひとかけらもない。
ジゴロは自分が愛されていることを知った。
ジゴロの身体の中には、久々に激しい思いが弾けた。
〝女〟の肌の感触が心の奥に封じ込められていた何かを浮き上がらせる。
なつかしい温もり……自信に満ちた日々……。
しかし、感情の高まりに任せてモリーを抱き返すことはできなかった。
モリーはわずかに身体を離して不満そうに鼻を鳴らした。
「何か恐いの?」
「彼女に見つかったら……」
モリーはけらけらと笑った。
「いいのよ、あの女はもう用なしだもの」
「何だって?」
「あなたを生き返らせるのに力を借りただけだもの。ねえ、前みたいに二人で一緒に暮らそうよ。あなたは人間の女と寝たっていいからさ、昔みたいに私だけを愛して」
「寝るって……?」
「忘れちゃったの? 何人もに貢がせていたくせに」
「分からない……君の言うことはさっぱり分からない……」
モリーはジゴロから離れて正座すると、目を丸くして首をかたむけた。
「あなた……顔だけじゃなくて、心も変わってしまったの?」
ジゴロの中で、心を閉ざした分厚い壁が溶け始めていた。薄くなった壁の向こうに天使が封じ込めた本当の自分が透けて見える――。
「いや……そんなことはない……俺は俺だ……だけど、本当に俺ってなんなんだ……?」
モリーはジゴロにすり寄った。
「あなたは、あなた。ほかの誰でもない。私の恋人。大好きなあなた……」
ジゴロはモリーを優しく抱いてささやいた。
「そうだ……この感触だ……」
モリーはくすりと笑った。
「今は毛皮じゃないけど」
「たしかに女の身体だ……。これが女だ……」
モリーはジゴロを見つめる。
「私、ずっと人間のままでいた方がいい? あなたが望むなら、そうするよ」
「でもおまえ、天使と喧嘩したんだろう? それなのに、ずっと人間のままでいられるのかい? 天使の力で人間に変わったんじゃないのか? 魔法が解けても大丈夫なのか?」
「人間はとっくに忘れちゃったみたいだけど、猫には大昔からすごい魔力があるのよ。だからいったん人間にしてもらえば、いつまででもこのままでいられる。私が人間の姿に飽きるまで」
「じゃあおまえ、完全に天使と手を切ったわけだ」
「だから、これも盗んで来ちゃった」
モリーが身をよじってジーンズのポケットから出したのは、『悪魔の財布』だった。
ジゴロは財布をじっと見つめた。
「これは……?」
「思い出せない?」
「でも……これは……なんだかなつかしいな……」
ジゴロは財布に手を触れた。
その瞬間ジゴロは、腕を溶鉱炉に突っ込んだような激しい熱さに悲鳴を上げた。
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