4
ジゴロの心に植えつけられた〝天使の倫理〟は、悪魔の力と衝突するたびに脳に白熱した痛みをもたらした。ジゴロは財布に触れるたびに意識を失いそうになった。
だが、記憶は着実に戻りつつあった。
悪魔の力に身をゆだねて財布を使いさえすれば、すべての苦しみから解放されることも確信できた。ジゴロは『悪魔の助けを借りたい』と心から願った。
なのにジゴロには、財布を手に握ることをはばむ物理的な制約が課せられていたのだ。
信者は自分の部屋にモリーを迎え入れた。彼女は、モリーが今でも天使の部下だと信じ切っていたのだ。
モリーが部屋に転がり込んでから三日の間、ジゴロはやはり職を得られなかった。門前払いばかりの面接に疲れて部屋に戻るたびに、ジゴロは畳の真ん中に置いた財布を虚しく眺め続けた。
夜明け近くに信者が帰宅すると、その財布をモリーが隠す。
信者は自分の部屋に『悪魔の財布』が持ち込まれたことには気づかなかった。
モリーが〝女〟としてジゴロに近づき始めたことにも勘づいていない。
そもそも信者は、他人を疑うということに慣れていなかったのだ。彼女は天使の采配を信じ切り、すべてを神に任せて己れの力を尽くせばいいものだと考えていた。
一方の天使も、なぜかモリーの真意や悪魔の財布の危険を信者に警告しようとはしなかった。
しかも信者は疲れていた。ひたすら己れに鞭打って働き続ける信者は、日々やつれていくばかりだった。身の回りに気を配る精神的な余裕はとっくに失なわれている。
ジゴロは、信者の生理が遅れていることを知っていた。理由は妊娠ではない。そもそも、抱いてはいないのだから。信者が他に男を作る可能性も皆無だ。
彼女はそれほど大きなストレスに蝕まれていたのだ。
それでも信者は、一度も愚痴をこぼさなかった。
そして日曜日――。
信者が倉庫会社の社長との会食に出かけると、モリーがいつのように財布を持ち出してきた。
モリーはジゴロの前にそっと財布を差しだした。
「ねえ、もう一度試して」
しかしジゴロは財布に手を伸ばすことさえできない。そうしようと考えただけで、指先から心臓に向かって激しい痛みが走り抜ける。
「僕だってそうしたい……この財布が使えれば、苦しみから解放されるのは分かっている……でも、天使によみがえらされた僕には、もう悪魔の力を操ることはできないんだ……」
ジゴロの中では、かつての自分のアイデンティティーが再生していた。なのに、いったん死んでしまった彼には、もはや過去を取り戻す道は残されていなかった。
「それじゃあ、私を抱いて」
モリーはジゴロの腕を抱きしめて、乳房をこすりつけた。モリーが人間であり続けた理由はただひとつ、ジゴロに〝女〟として抱かれたいからだった。
だがジゴロは、天使の力によって性機能も封じられていた。モリーとの再会によって性欲は回復している。かいがいしく尽くす信者にも、みずみずしいモリーの肌にも、欲情をそそられた。
だが、下腹部の高まりはもはや快感ではない。
それはまるで焼けたドリルを股間に突き刺されるような苦痛をジゴロに与えるだけだった。
ジゴロは唇を求めてくるモリーを乱暴にはねのけた。
「やめてくれ! だめなんだ、俺はもう……」
モリーはすねたように身を丸くした。
「だめだっていったって……それじゃあ私、なんで人間なんかになったのよ……本当は猫のままの方がよかったのに……」
「すまない……」
モリーの目から一筋の涙が落ちた。
「天使も人間も大嫌い……みんな勝手で、ずるくて……猫みたいに自分の望むままに生きればいいのに、他人の心をオモチャみたいに操ることばかり考えて……私、あなたに愛してほしかっただけなのに……」
「ごめんよ……」
「あなた、すっかり変わってしまったわね……。悪魔と仲良くしていた頃の方が、ずっとあなたらしかったわ。かわいそう……」
ジゴロはうつむいてうめいた。
「僕も、自分をどうしていか分からない……元の自分に戻りたい……でも、もう僕の身体は悪魔の力を受けつけない……僕を愛してくれる女を抱くこともできない……しかも、この醜い顔で人からさげすまれ、はいずり回って仕事を恵んでもらうしかない……」
「本当に、かわいそう……」
その時、不意に悪魔の声がジゴロの頭にとどろいた。
『選べ。このまま天使の言いなりになるか、苦痛を乗り越えて悪魔の力を取り戻すか――おまえに天使と戦う気概があるなら、私は力を貸す。決しておまえを見捨てはしない。だから、選ぶのだ』
はっと顔を上げたジゴロは、あわてて部屋を見渡した。
「悪魔か⁉ 帰ってきたのか⁉」
モリーも辺りの気配に聞耳を立てていた。
「そうよ……これ……悪魔の匂いよ……」
悪魔は言った。
『私はどこへもいってはいない。おまえの心の奥に姿をひそめていたにすぎない。私はおまえだ。おまえは私だ』
「じゃあなぜ、僕をこんなに不自由なままにしておくんだ……?」
『今のおまえは、天使がこしらえた見せかけの人間にすぎないからだ。張りぼての人形だ。だがようやく、本当のお前が目を覚まし始めた。おまえが元の自分に戻りたいと本心から願うなら、私は手を貸すことができる。天使の束縛から解放してやることができる』
ジゴロは叫んだ。
「お願いだ! 助けてくれ!」
悪魔は言った。
『財布を握れ』
「でも……」
『握れ。おまえは私が守る』
ジゴロは小さくうなずき、財布に震える指先をのばした。その先端がわずかに触れたとたん、強力な電流を流されたような痛みが全身に突き抜ける。
「痛っ!」
『ひるむな! 天使の呪いに負けるではない!』
ジゴロは痛みをこらえた。
モリーも状況を察して叫ぶ。
「頑張って!」
ジゴロは財布を握りしめた。全身の皮膚が溶けだすかとも思えるほどの熱さを必死にこらえる。
と、財布から巨大なエネルギーがほとばしり、ジゴロは部屋の隅にまで吹き飛ばされた。
悪魔はつぶやいた。
『よくやった』
ジゴロは朦朧とした意識の中で応えた。
「とても……勝てない……」
『たった一度で天使の呪いを征服できるなどと期待するな。だがおまえは今、戦うことを学んだ。いずれ近いうちに、望みは果たされる……』
悪魔の声は次第に小さくなっていって、消えた。
モリーが倒れたジゴロに手を貸した。
「大丈夫?」
「ああ……」
ジゴロはふらつきながら立ち上がった。モリーにすがる手が、ノーブラの引きしまった乳房に触れる。
不意にジゴロは性欲を感じた。それはこれまでのような苦痛を伴わない、純粋な性の喜びだった。
「モリー……」
モリーはうっとりとジゴロを見つめた。
「あなた……」
ジゴロはモリーを押し倒した。薄いタンクトップを引きちぎるようにはぎ取る。
モリーは叫んだ。
「いいわ!」
その時、玄関のドアが開いた。
飛び込んできたのは信者だった。
衣服は乱れ、引き裂かれ、泥で汚れている。涙で薄化粧をにじませた信者は、半狂乱で叫んだ。
「助けて! 犯されたのよ! あの社長、いきなり私を押し倒して服をはぎ取って――」
床に転がって求め合うジゴロとモリーの姿が、信者の言葉を封じた。
信者を見上げたジゴロはつぶやいた。
「君……」
信者は言った。
「あなた方……。そんな……あなたも私を裏切るの? そんな……汚いわ。みんな私を……汚いわ……」
そして信者は、床に落ちていた『悪魔の財布』に気づいた。そしてそこから激しく〝不浄のエネルギー〟が噴出していることを本能的に嗅ぎとった。
信者はすべてを理解した。
「あなた……また悪魔と手を握ったのね? また、女たちを殺した悪魔になり下がるの? 許さないわ……みんな許さないわ……あなたは神の子供になるのよ……悪魔になんか……悪魔になんか……」
信者は財布に飛びついた。それを両手で握りしめると、叫んだ。
「悪魔よ、立ち去りなさい! 私を穢すすべての者よ、神の力で清められなさい!」
財布から閃光が膨れ上がり、部屋に充満した。
ジゴロの脳も真っ白な輝きに呑み込まれる。
同時にジゴロは、巨大な〝善の炎〟に焼き焦がされる悪魔の叫びを聞いた。
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