5
ジゴロは倉庫会社の正社員として採用された。モリーも二人の部屋から姿を消した。信者を犯した社長の女遊びも、すっかり影をひそめた――。
〝神の炎〟が燃え上がった瞬間から、信者の周囲からすべての悪意が消え去ってしまったのだ。
だが、ジゴロを取り巻く状況は何一つ変わらなかった。
一日の仕事を終えて帰ったジゴロは神経をすり減らし、部屋の隅にうずくまってうめいた。
「今日も失敗ばかりだ……みんなが僕を馬鹿にしている……」
信者はそっとジゴロの肩に手を置いた。
「あきらめちゃだめよ。頑張り続けていれば、きっと認められる日がやってくるわ。神様があなたを見捨てるはずがないもの。私だって、やっと一人前になれたんですから」
信者はすでに、深夜のコンビニ務めをやめていた。なぜか急にスーパーの時給が上がり、経済的に楽になったからだった。はじめて自分の健康状態を客観的に見る余裕を得た信者は、予想以上に疲れていたことを知って少し気を抜くことを自らに許した。
しかもジゴロの日当も、少ないなりに安定している。
「でも、つらいんだ……みんな僕を嫌っている……」
「そんなことはないわよ。気を回しすぎないでね」
ジゴロは信者を見上げた。
「面と向かってののしられても、か……?」
「あなたが顔の傷を苦にしていることは知っているわ。でもそれも神様が与えられた試練なのよ。それに打ち勝つことが、神様の望みであることを分かって」
「そんなことじゃない……どんなに馬鹿にされても、反論ができないことがつらいんだ。実際に僕は失敗ばかりで……なにひとつまともな仕事はできやしない。いつもみんな足を引っぱって……それでも社長の好意で人並みの給料をもらっている。それが自分でも分かるからつらいんだ……」
「好意に甘える時は甘えるのよ。それが彼の罪滅ぼしなんですから。あの人、私に乱暴をしたのよ。今は神様の下僕となった人ですから、悪く言うことはできないけれどね。彼から罪を償うチャンスを奪うことは、神様の意志には沿わないわ」
「そんなこと、僕のまわりで働いている人たちには関係ないさ……なんで僕はこんなにドジなんだろう……いっそ死んでしまいたい……」
それはジゴロが初めてもらした本心だった。
だが信者は不意に声を荒げた。
「ばかを言わないで! 死ぬことなんて許しません! どんなに苦しくたって、そのつらさを克服しなければ神様のおそばにはたどり着けないのよ。自殺は他人を傷つけるより卑怯な罪よ。あなたは戦わなくちゃならないの、自分のその弱さと!」
「でも……」
その後はいつもと同じだった。信者は神の愛と力を説き、ジゴロはさらに落ち込んでいった。
ジゴロはその夜、信者に抱かれて眠った。もちろん、性欲は再び奪い去られていた。信者の抱擁も、母が子に対するような〝愛〟の現れにすぎなかった。
*
深夜――。
喉の渇きに耐えかねたジゴロはひとりキッチンに立った。窓から差し込む月明かりに包丁が光る。
「死にたい……」
ジゴロは無意識のうちに包丁を握りしめていた。その刃先をゆっくりと首筋に近づける――。
と、窓の外が急に明るくなった。あまりのまぶしさに目蓋を閉じたジゴロが再び目を開けると、目の前に少女が立っていた。いつの間にか、部屋の中に入っていたのだ。
「君は……?」
少女は穏やかな眼差しでジゴロを見つめていた。
「私は天使です」
「ああ……来たんだ」
ジゴロはもう何を見ても驚かなかった。驚きに値する出来事は経験し尽くしている。そのうえ、初めて顔を合わせる天使は彼が予期していた通りの姿をしていた。
小さな翼を生やした可憐な少女は、ゆったりとした純白の衣装に包まれてほほえんでいる。
天使は言った。
「死のうとしていましたね?」
ジゴロは嘘をつこうともしなかった。
「死なせてください」
天使の口調は優しかったが、答えは厳しかった。
「許しません。彼女から言われたことを忘れたのですか? 彼女の言葉は私が授けたもの、そしてそれはすべて神の意志なのです。神に逆らうことは許しません」
「でも、つらいんです」
「生きるというということは、そのつらさに打ち勝つことです」
「僕は神様ではありません。神様になんかなりたくもありません」
「人間が神になることなどできません。だから、神の下僕にならなければならないのです」
自分を押さえ続けてきたジゴロの中に、不意に怒りが爆発した。
「神の下僕なんて真っ平だ! あの時死んでいれば、こんな苦しみは味あわずにすんだんだ! おまえが僕を生き返らせたから……僕はこんなに不幸に……。何が神様だ⁉ 悪魔の方がよっぽど優しいじゃないか!」
天使の頬から笑みが消えた。
「何ですって?」
「神も天使もくそくらえだ! 僕は死ぬんだ!」
ジゴロの叫びを聞きつけた信者が布団を抜け出してきた。
「あなた……」
ふりかえったジゴロは、包丁を信者に向けた。
「止めないでくれ……頼む……死なせてくれ……」
天使は信者をにらみつけた。
「あなた、まだこの男を救えないのですか?」
信者は天使を見つめて、おびえたようにつぶやいた。
「天使様……精一杯の努力はしていますが……」
天使は首を小さく横に振った。
「努力だけでは人は救えません。力を用いる時です。あなたは善の心を用いて『悪魔の財布』の力をねじ伏せました。その力をもう一度この男に使うのです。この男の中から、完全に悪魔の誘惑を追い払いなさい」
うなずいた信者は、財布を取りに戻った。
ジゴロは包丁の切っ先を自分の喉に当てて、天使を見つめた。
「悪魔の財布……。天使がそれを使えと命じるのか?」
天使はうなずいた。
「あの財布は、彼女があなたを思う心によって純化されました。財布が持っている力そのものには、悪も善もないのです。力は力でしかなく、それを用いる者こそが善か悪かを決めるのです。だから私は、モリーが財布を持ってあなたを訪れることを見逃していたのです」
「くそ……天使のくせに、僕やモリーを利用しようとしたのか……」
「悪魔を滅ぼすには、悪魔の力を用いるしかなかったのです。そのためにも、あなた方が必要だったのです」
ジゴロは財布を手にして戻った信者を悲しげに見つめた。
「君は……そうやって僕の心をねじ曲げるのか……愛していると言いながら……」
信者は首を横に振った。
「ねじ曲げるなんて誤解よ。あなたは神に選ばれた人なのよ。復活の栄誉を受けた数少ない人間……だからこそ神の言葉を行なう義務があるのよ……」
「僕はもう……折れそうなんだ……」そして目の奥に、狂気の片鱗が揺らめく。「死にたいんだ!」
「許しません」
「死ぬぞ!」
ジゴロは喉をかき切ろうと腕に力を込めた。
同時に信者が叫んだ。
「あなたは死ねません!」
ジゴロの腕はぴたりと止まった。途切れ途切れのつぶやきが硬直した唇からもれだす。
「なぜだ……なぜ腕が動かない……? 死にたいのに……死にたいのに……死にたい……」
天使と信者は声を合わせて命じた。
「許しません」
「死に……たい……」
「いけません!」
ジゴロの脳の中で何かが切れた。
「はは……」目に浮かんだ狂気は、もはや隠しようもなかった。「はははは……わはははははは……」
不意に手放した包丁が、ジゴロの足の指に突き立った。鮮血がゆっくりと足元に広がっていく。
だがジゴロは、身じろぎもせずに笑い続けるばかりだった。
信者はおびえ、動けなかった。そして何が起こったかに気づいて、天使を見つめた。
「そんな……狂ってしまったの……?」
ジゴロは強い自殺願望を〝神の力〟でむりやりに封じられた。その激しい願いは力の行き場を失って脳の内部で暴走し、神経回路をズタズタに切断してしまったのだ。
ジゴロは、生きながら自殺を果たしたのだった。
ジゴロは喉の奥からうめき声を絞りだした。
「悪魔は神……神は悪魔……僕は神だ……僕は悪魔だ……」
その囁きには次第に節がつけられ、まるで異国の祈りの言葉のようにとめどなく流れだした。ジゴロは天井を見上げ、幸福そうにほほえんでいた。
天使は残念そうにつぶやいた。
「この男、思ったよりヤワだったようね。悪魔を倒すにために、味方にしておきたかった人材だったのに……」
信者は天使を見つめた。
「人材?」
「そうよ。私は悪魔と戦える強さを持った人間を育てたいの。そのためにこの男を選んだのよ……。でも、仕方ない。あなたは別の人を探して。その財布の力で人の善の心を強めて、悪魔の誘惑に負けない集団を作るのよ。それがあなたの使命です」
信者は気づいた。
「でも、この人だってまたよみがえらせられるんじゃありませんか? もう一度初めからやり直せば――」
天使は冷たく言い放った。
「無駄。この男は弱い。顔を失っただけで自殺を考えるなんて。たとえ脳を修復しても、同じことを繰り返すだけ」
「でも……」
「あきらめなさい」
「では、せめて顔だけでも元通りに……このままではあまりにかわいそうです……」
「あなたにできるなら、好きになさい。でもいいこと、絶対に頭の中まで修復してはなりませんよ。この男、かつての容貌を取り戻したら、必ずまた悪魔に魂を売ることになりますから」
信者はかすかに唇を噛んでうなずいた。
〝そうなのかしら、本当に……。でも、天使様のお言いつけには逆らえないし……〟
天使はためらう信者を残して消えた。
信者はジゴロを見てつぶやいた。
「ごめんなさいね、あなたを救えなくて……私がもっと強かったら……」
そして信者は財布を握りしめて願った。
〝この人の顔を、事故の前に戻してください〟
ジゴロの顔を覆った肉塊がひくひくと波うった。その内部から白い皮膚が湧きだし、次第に整った容貌が浮かび上がってくる。それでも目つきは、狂気に侵された虚ろさをたたえたままだった。
信者はさらに祈った。
〝私をもっと強くしてください! 神様の使命を果たせる力をお与えください!〟
〝顔〟を取り戻したジゴロは、そんな信者をなおも笑っていた。
「神は悪魔だ……悪魔は神だ……」
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