作家の家は、いつの間にか〝教会〟と化した。そこで暮らす者は、悪魔の手で死に追いやられ、天使によって生き返らされた人間たちだった。

 妻を失って廃人同様になった作家、化粧品のセールスウーマンと彼女を愛して巻き添えになった若い警官、狂気に蝕まれたジゴロ。そして、ジゴロに殺された女たち――。

 彼らはいずれも、一度は死者の烙印を押されている。生き返ってから数か月間、彼らは天使の力でカムフラージュされながら社会復帰の方策を探り続けた。

 だがそれだけ時間をかけたにもかかわらず、彼らは安住の地を見いだすことができなかった。生命をよみがえらせはしたものの戸籍は消滅し、身分を証す〝書類〟は一切失っている。運転免許証がなければDVDさえレンタルできないのが、人間社会の定めだ。

 そんな彼らが、この世で生活していける〝全うな職業〟を得ることは不可能だった。

 天使には悪魔と違って、直接現金を出して彼らの〝生活費〟を工面する能力はない。それに代わって彼らに生活の場を約束することは、天使の役目でもあったのだ。

 答えは〝教会〟を始めることだった。

 既成の宗教の系列には属さない、新興宗教としか分類されない場所ではあった。だがそこには〝財布の力〟によって人々の苦悩を癒す〝教祖〟――昨日までの〝信者〟がいた。神の意を受けた天使もいた。

 歴史も組織も持たなかったその教会は、現実に神の力を奇跡で示していった。そして、現代ではきわめて稀な聖地へと変貌していった。

〝教会〟の看板を門に掲げた数日後、真っ先にドアを叩いたのは別の教会や宗教団体の幹部たちだった。彼らは一様に信者たちの〝神を畏れぬ〟行いを非難し、教会の名を騙ることをなじった。

 だが外に出る時には彼ら全員が信者のパワーにひれ伏し、新たなスタッフと化していたのだ。〝教会〟の評判は口コミで伝わり、一ヵ月後には日本全国から重い悩みを抱えた人々が集まる〝駆け込み寺〟にまで急成長していた――。


         *


 浅い眠りから醒めた信者は、こらえ切れずに独りつぶやいた。

「神様……私のしていることはこれで間違ってはいないのでしょうか……?」

 昨夜、最後に面会をした中年男の要求が心に重くのしかかり、ほとんど眠ることができなかったのだ。

 その男は舌なめずりするように言った。

「私が経営している会社が……」

 信者は財布の力で男の心を読み、内心で落胆の溜め息をもらした。

 そこには『神の力で借金を踏み倒せないか』という欲望がうず巻いていた。さらに男は、口では『願いがかなえば寄付をはずむ』と約束しながら、初めからその約束を破る気でいた。

 信者は要求を詳しく聞く前に厳しく命じていた。

「努力することです。神を信じて行いをただせば、かならず報われます」

 中年男は唾を吐くようにして去っていった。

 信者には、財布の能力で男の心を清らかに変える能力も備わっている。実際、これまではそうして心を病んだ人々に生きる希望を与えてきた。

 だが財布を使い続けることは、確実に信者の精神力を摩滅させていく。日が落ちる頃になると、巡礼者たちに精力を絞り尽くされた信者は思うのだ。

〝近頃、こんな自分勝手な願い事ばかり……。現世の利益しか求めない人たちに救いを与えるだけでいいのかしら……まるで、砂漠に水をまくようね……〟

 当初天使は、この問いに明快な答えを与えていた。

『砂漠とて水をまき続けていれば、いつかは豊かな実りをもたらす畑に変わります』

 だが最近は、そんな天使の励ましも聞こえてこない。

 信者には理由が分かっていた。

 天使は、作家の魂を救うことにかかりきりになっていたのだ。

 信者は再びつぶやいた。

「私は間違っていないのでしょうか……?」

 その時、ドアがノックされた。

 セールスウーマンだ。

「私です。朝食の用意ができましたが?」

 信者は毎朝彼女の声でベッドを抜け出して身だしなみを整え、〝神の言葉〟を求める行列の前に立つ。

 だがその朝は、起きだす気力が湧いてこなかった。

「ごめんなさい。あと十分間だけ……」

 ドアの外に立ったセールスウーマンは、信者の返事に軽い驚きを覚えた。ドア越しの返事はほとんど聞き取れないほどか弱かったのだ。

 が、セールスウーマンはドアを開けようとはしなかった。

〝いつもお元気なように見えても、教祖様も人間ね。頑張りすぎなのよ。この頃、特にお疲れのようだし……少し面会を減らしたほうがいいんじゃないかしら〟

「分かりました。また後ほどお呼びにまいります」

「ありがとう……本当に十分だけでいいのよ……」

 セールスウーマンには、信者の返事に深い悲しみが満ちているように聞こえた。

〝神様でさえ癒せないお悩みがあるのかしら、あんなに素晴らしいお方にも……〟

 セールスウーマンは、数日前から自分を苦しめている夢を思い起こした。肌ざわりや匂いまで感じられるような、リアルな妄想を――。

〝あら、ばかね。教祖様があんな罰当たりな夢を見るはずがないじゃないの〟

 セールスウーマンは肩をすくめて食堂に向かった。

 寄付によって庭に建て増しされた食堂では、警官がテーブルに食器を並べていた。食堂は地方議員の選挙事務所を寄贈された中古のプレハブだが、幼稚園の体育館並みの広さがある。

 テーブルも十メートルほどの長さで五列も並べられていた。そこに用意される食事は、面会の順番を待つ〝巡礼者〟や腹を空かせたホームレスたちに与えられる。これらの資金もすべて寄付でまかなわれていた。

 心ここにあらずといった様子で働いていた警官が手を止め、セールスウーマンを見つめた。

「おはよう……」

「あら、何だか元気がないじゃない?」

「分かりますか? 実は昨日、変な夢を見てしまって……」

 セールスウーマンは、はっとして警官を見返した。

「夢……?」

「僕が警官になって、殺人犯を追っているんです……」

「あなた、警官だったの?」

「さあ……。でも何だか、とてもリアルな夢で……胸をかきむしられるように、なつかしいんです……」

「つらいわよね、何も覚えていないのは……」

「ええ……」

 二人はこの世によみがえった時点で記憶を失っていた。ただ、同時に同じ場所で生き返ったこともあって、〝愛し合っている〟という感覚を、漠然と共有していた。まだ互いの手を握ったことすらなかったが、周囲も二人は恋人同士だったのだと了解している。

 二人もそれが自然なことだと感じ、行動をともにすることが多かった。教会の仕事が軌道に乗った時は正式に結婚しようとも話し合っていた。

 セールスウーマンは自分に言い聞かせるように答えた。

「でも、夢なんて当てにならないものよ。考えすぎないで、教祖様のお言葉に従いましょう」

「ええ……自分が誰かも分からないんじゃ、この教会の他に居場所はありませんからね……」

「いずれ、すべてが分かる日もくるかも……。心を清めて、その時を待ちましょう」

「はい……」

「あ、そうだ。教祖様、ちょっと遅れそうよ」

「何かあったんですか⁉」

「お疲れになっただけでしょう。近ごろ食事の時間さえ惜しんでいらっしゃいましたから。私、厨房の様子を見てきます」

 セールスウーマンは逃げ出すようにその場を離れた。

〝夢……。私が見た夢は、絶対に話せないわね……あの人には、特に……〟

 彼女は今日も〝性の喜び〟に身体を震わせる夢で朝を迎えたのだった。

 目覚めてしばらくは、無視しようもない確かな快感が身体のすみずみにけだるく淀んでいた。夢の中で自分を愛撫する相手もはっきりと分かっている。

 厨房ではジゴロが野菜を刻んでいた。

 動作は遅い。しかもゼンマイが切れかけた玩具のようにぎごちない。だが、偏執的な緻密さでジャガイモを正確に一センチ角に切っていく。実際にジゴロは、俎板の前に置いたプラスチックの定規で時々切ったジャガイモの寸法を確認していた。

 その後ろ姿を見つめるセールスウーマンの下腹部に、不意に熱い高まりがわき上がった。

〝あ、また……。いやよ……。どうして? どうしてこの人が……? 本当にこの人なの……? 私、いったいどうしちゃったんだろう。生き返る前はどんな暮らしをしていたんだろう……?〟

 ジゴロが人の気配を察して振り返った。ジゴロはただじっとセールスウーマンを見返しているだけだ。目を合わせたセールスウーマンは、ジゴロの生気を欠いた瞳に絶望を感じた。

〝夢の中で私を抱いていた男は、この人に間違いないわ……。でも、この目はまるで死人……夢ではあんなに魅力的だったのに……〟

 セールスウーマンは我に返って言った。

「あ、あの……野菜はまだ切れません? 調理の人が待っているんですけど……」

 ジゴロは微動もせずにつぶやいた。

「神は悪魔だ……悪魔は神だ……」

 セールスウーマンはがっくりと肩を落としてその場を離れた。だが、性への欲求は高まるばかりだった。

〝でも……たとえ過去がどうであっても、今の彼とはあんなことはできそうもないわね……。まるで言葉が通じないんじゃ……。あらいやだ、私って何を考えているの? 神に仕える身なのに、肉の喜びを求めるだなんて……〟

 だがいったん熱してしまった身体は、一向に冷める気配はない。  

 それを忘れるためにも、セールスウーマンには無心に働くことが必要だった。

 少し離れたコンロの前で鍋の中身をぼんやりとかき回しているのは、作家だった。

 セールスウーマンは彼の背後に立ったとたん、その周囲に張り巡らされた〝不可触の場〟を感じた。目を凝らすと、作家の姿は逃げ水の彼方にいるように揺らいで見える。透明な〝繭〟に包み込まれているのだ。

 この状態の時に何を話しかけても聞こえないことは、経験的に分かっている。

〝またこもっているのね……。教組様が『こんな時この人は天使と話をしているんだ』って言ってたけど、本当なのかしら……〟理由はどうあれ、朝食づくりを急がせることは絶望的だった。〝仕方ないわね、皆さんには少し待っていただきましょう……。何だか最近、私って言い訳ばかりしているみたい……〟

〝教会〟のドアの前に並ぶ巡礼者の列に頭を下げることは、セールスウーマンの日課になっていたのだった。

 厨房の裏口から外に出た彼女の足に、見知らぬ猫がすり寄った。

「やだ……猫は苦手なのに……」

 全身真っ白な毛に覆われた猫は、彼女を見上げて鳴いた。

「ニー」

 モリーだった。

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