3
その朝、信者の目覚めはめずらしく爽やかだった。
ベッドで上体を起こした信者は、のびをして思わずつぶやいた。
「よく寝たわね……」
眠りにつく前までの閉塞感と落胆が嘘のように消え去っていた。
昨夜もいつものように巡礼者の身勝手な欲望に振り回され、疲れ切っているのに眠れないという苦痛を味わった。心の底に澱のように降り積もっていく疑問の重さにいつまで耐えられるのか――不安と焦燥と無力感が折り重なって、信者をさいなんでいたのだ。
ところが今はその重圧が跡形もなく、月まで飛んでいけそうなほどに心が軽い。
「どうしちゃったのかしら……」
信者は心の軽やかさを喜ぶよりも、疑問を感じた。
〝ま、いいか。私が元気になればみんなの苦しみも救えるんだから。本当に救いを求めてくる方たちのためにも、喜ばなくちゃね〟
ベッドを出た信者は、無意識のうちにサイドテーブルの上に置いた財布を取ろうとした。
「きゃぁぁぁ!」
信者が触れたのは、暖かい毛皮だった。
毛皮は鳴いた。
「ニー」
モリーだった。財布の上に乗って心地よさそうにうたた寝をしていたらしい。
信者はほっと溜め息をもらすと、モリーを押してテーブルから落とした。
「びっくりさせないでよ、私、猫は嫌いなんだから……。どこから入ったの?」
信者が財布を取ってドアを開けると、モリーは素早く廊下に走り去った。
廊下にセールスウーマンが駆けつけていた。
「何かあったんですか⁉ 悲鳴が!」
信者はほほえんだ。
「猫が寝室に入っていただけ。驚いちゃって」
セールスウーマンは振り返ってモリーの後ろ姿に舌打ちをした。
「本当に図々しい猫。我がもの顔でのし歩いているんですから……」
「でも、おかげであの方の容体は落ち着いているのよ。感謝すべき点もあるわ」
モリーは教会に居着くと、すぐにジゴロになついたのだ。ジゴロもモリーに触れている時だけは不気味なつぶやきを止める。
それ以来モリーは、ほとんどの時間をジゴロの傍で過ごしていた。
セールスウーマンは信者から目をそらせた。
時たま正常に見えるジゴロが、自分の性欲をかきたてていることを悟られたくなかったのだ。肉の欲求は今や、自分でも押さえがたいほどにふくれあがっていた。
事実昨夜はジゴロの寝室に忍び込み、しばらくその寝姿を眺めていたほどで――。
〝いけない、話を変えなくちゃ……〟
「何だか今朝はご機嫌ですね」
信者は笑みを広げた。
「ええ、とても気分がよくて。これって、猫ちゃんのおかげ?」
「とんでもない。神様のお力ですよ」
「そうよね」
信者が着替えを終えると、二人は連れだって食堂に入った。
と、セールスウーマンの姿を認めた警官が血相を変えて近づいてきた。
警官はセールスウーマンの腕をつかみ、切迫した口調で言った。
「話があります」
セールスウーマンは首をひねった。
「私に? なに?」
警官は信者を横目で見ながら言った。
「二人で話したいんですが……」
信者はゆったりとしたローブのポケットの中で財布を掴んだ。
「あなた方は私の〝特別な仲間〟よ。この教会を最初から一緒に作ってきた同志なんですから。お願い、私に秘密は作らないで」
セールスウーマンもうなずいた。警官をきつくにらむ。
「変に勘ぐられるようなことはしないでください」
警官は思い詰めた表情で言った。
「でも……」
「お願い、話があるならここで話して」
警官はセールスウーマンを見つめ、小さくうなずいた。
「君……昨日の夜、どこにいた? 僕は見てしまったんだ……」
セールスウーマンは息を呑んだ。
「あなた……私を尾けていたの⁉」
「とんでもない! ただ、偶然に……」
信者は二人の心を同時に読んでいた。一瞬ですべてが理解できた。
ジゴロとのセックスの記憶を取り戻していくセールスウーマンと、その姿に嫉妬する警官――それはよみがえる以前に行なわれてきた〝悪魔の芝居〟の繰り返しだった。
〝いけないわ、ここで彼らを後戻りさせては……〟
セールスウーマンと警官は、互いの目を見つめ合って口をつぐんだ。からんだ視線が疑惑を呼び、嫉妬と敵意の芽が萌え始める。
信者は財布に祈った。
〝二人を清らかに!〟
とたんに、二人の間の緊張が消え去った。
警官は何事もなかったかのように信者に言った。
「あ、おはようございます。お食事はすぐに用意いたします」
セールスウーマンがうなずく。
「そうそう、教祖様のお部屋に猫が入っていたの。悪戯ができないように首輪でもつけられないかしら」
「あとで用意しましょう」
二人の視線の間には、ほのかな愛情がよみがえっていた。
信者は二人を見比べてほほえんだ。
「急がなくてもいいのよ。お漏らしをしたわけでもありませんから」
そして心の中で満足気にうなずいた。
〝そうよ……これが私の力なのよ……。憎しみを愛に変える、神の力……。私は神様に選ばれた人間だったのよね。つまらないことで気を落としてなんかいられないわ。神様の御心を広めるためにも、もっと頑張らなくちゃ。天使様はすっかり当てにならなくなっちゃったし……〟
このところ、天使と話し合う機会はほとんどなくなっていた。天使は作家の傍らから離れようとしないのだ。
信者には、天使ともあろう者が作家一人にかり切りになるのはその使命にそむくと思える。
だが天使は、救いを求めている魂を放ってはおけないと言い張るばかりだ。
『他の人たちなら、あなたが充分に癒してあげられるから……あなたは自分の力を強める訓練を積まなければならないし……』
信者には、天使の言葉が〝恋する女〟の言い訳のように思えた。
信者は警官に尋ねた。
「天使様はいつものところに?」
「ええ、おられるようです」
信者はうなずいて、厨房に向かった。
作家はやはり〝天使の繭〟に包まれながら、鍋をかき回していた。毎朝の風景ではあるが、今朝の信者には我慢ができなかった。
〝今日こそ、神様のご意志を確かめなくては……〟財布を握った信者は、天使に語りかけた。〝天使様。いらっしゃいますか?〟
返事が返ってきたのは、数秒の間があってからだった。
〝え? ええ、ここに……〟
〝お話があります〟
〝なに? 私、忙しいのですが……〟
〝それが困るのです。あなたがたった一人の人間に関わり合っておられては、他の者たちに対しても示しがつきません〟
〝なぜ? 今のあなたの力なら、充分に私の代わりが務められてよ〟
〝しかし、私はただの人間にすぎません。神様のご意志は天使であるあなたがお伝えにならなくては――〟
〝その役目は、人間のあなたが行なった方がふさわしいのよ〟
〝しかし――〟
〝聞いて。この方は、まだ心を深く傷つけられたままです。私がこの保護を解けば、自らを傷つけることになるでしょう。そんなことはさせられません〟
信者は意を決した。相手が天使であっても、言うべきことは言わなければならない。
〝あなた、恋をなさっているのではありませんか?〟
天使の返事にはわずかな動揺があった。
〝恋……ですって? 天使の私に、なぜそのようなことを?〟
信者は落胆の溜め息をもらした。
〝まさかとは思いましたが……〟
〝ばかなことを言わないでください! 天使ともあろう者が、人間の男に恋をするなんて。私はただこの方が奥様に抱いていた愛情の深さの理由が知りたくて……〟
悪魔の財布が〝天使が思い浮べたイメージ〟を信者の心に中継した。
絡み合う全裸の男女――現実よりはるかにスマートになった作家が抱きしめていたのは、羽根が取れた天使の姿だった。
信者は怒りをあらわに言った。
「やっぱりそうだったのね! 見損なったわ……あなたは神から与えられた天使の力を、欲望を満たすために使おうというの? あなたにはもう神の下僕を名乗る資格はないわ。これからは私が神の御業を行ないます。この教会は、私ひとりで切り回します」
天使はそれでも作家から離れようとはしなかった。酔ったようにつぶやく。
〝勝手にしなさい……。でも、私を邪魔しないでね。私は最後の手段を取りますから。この方を幸せにするために、奥様を復活させます〟
信者はふんと鼻を鳴らしてその場を離れた。
「そっちこそ勝手にするがいいわ!」
ジゴロの陰に隠れて事のなりゆきをじっと見守っていたモリーが、かすかに笑った。そして、悪魔の声でつぶやいた。
「モリーよ……我らの力が届いたようだな。いよいよ幕が開く。私の出番も近い……」
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