4
深夜――。
明かりが消えた食堂の中央に、作家が一人で立っていた。作家は自分の部屋の冷蔵庫から持ち出してきた大きな鍋を床に置いた。冷凍庫で保存されていたのは、腐った妻の肉片だった。
作家はつぶやいた。
「本当によみがえるのですか……?」
天使の声が聞こえた。
『間違いなく。私はあなたを神の国に導くために――そのためだけに、神の許可も得ずに死者復活の術を行なうのです。くれぐれも、私が危険を冒したことを忘れないように』
作家はうなずいた。
「妻を取り戻せるなら、私は心からの信者になります」
『では、始めます』
異国の呪文のような天使のつぶやきがどこからともなく湧き上がってくる。
と、鍋の周囲に淡い光の渦が現われた。緑色の光は次第に明るさを増して鍋の中に吸い込まれる。腐った肉片がふつふつとわき立つと、次の瞬間にそれは爆発したように噴き出した。
「わ!」
尻餅をついた作家の前に、人影が立っていた。
作家はその気配を感じ、手にしていた懐中電灯をともした。光を上げると――そこには美しい女が全裸で立っていた。
作家はつぶやいた。
「まさか……」
天使によって復活させられた人物は〝作家の妻〟ではなく、その原型である〝作家を嫌った女〟だった。
作家がつぶやく。
「なぜ、こんな女が……?」
作家の声で我に返った女は、はっと周囲を見回して首をひねった。
「ここ……どこなの? ハワイ……? なんでこんなに暗いの? ……そうか、私、たくさんの男に犯されて……いや! 助けて! 殺さないで! あなた! 助けて!」
頭を抱えた女は、床にしゃがみこんだ。
女は、殺された瞬間に断ち切られた記憶をそっくり持ったまま蘇っていた。
作家はおずおずと進み出て女の肩に手を置いた。
「あの……」
女は目を上げて、相手が誰かを知った。
「あんたは……なによあんた! あの変態じゃないさ! 私に何の用⁉ 何であんたがハワイにいるのよ⁉」
女は作家の手を振り払った。
「いや……ここはハワイなんかじゃ……君は天使に……いや、悪魔に……」
女は自分が裸であることに気づいた。自分の胸を両腕で抱えてその場にうずくまった。
「いやぁぁぁ! あんた、何をしたの⁉」
作家は二、三歩しりぞいた。
「な、何もしていないよ……」
「嘘! じゃあ、なんで裸なのよ⁉ なにさ、この変態! 服をちょうだいよ! それより、彼はどこ⁉ 早く呼んできて!」
「彼?」
「私の彼よ! 新婚旅行に……」
「だから……」
女ははっと息を呑んだ。
「あ……そうか。彼は私がギャングに頼んで……ねえ、彼、死んじゃった?」
女は顔だけを動かして作家を見上げた。
作家は女の態度にとまどったが、しかたなく答えた。
「いや、まだ植物状態で病院にいるはずだが……」
女は悔しげに舌打ちした。
「畜生、それじゃあ保険金なんか入ってこないじゃないさ!」
作家は〝推理作家〟の勘で、その言葉の意味を瞬時に見抜いた。
「君……君は自分の夫を殺したのか⁉」
女はにやりと笑った。
「いやね、自分で殺したりなんかするもんですか。だから町にたむろしていたギャングどもに話をつけて……」
「殺させたんだね?」
「だったらどうだって言うのよ。あんたなんかに関係ないじゃないさ」
「君は保険金欲しさに結婚して、その夫を……」
「だからあんたには関係ないって言ってんの!」
「あいつを傷つけたのは悪魔ではなかったのか……」
「なによ、さっきから訳わかんないことばかり言って……」
作家は新たな疑問とらわれた、
「それじゃあ、君を殺したのも悪魔じゃなかったのか? 君は、誰に、どうやって殺されたんだ……?」
「私が殺された?」
「そうだ」
女の表情に恐怖がよみがえった。
「そうよ、私……殺されたのよ……ギャングに渡すお金を値切ったから……」
「だから犯されて、切り刻まれたのか?」
女は不意に両手で顔を覆って悲鳴をあげた。
「いやよ! やめて! 痛いわ! お願い! 犯すのはかまわないけど、ナイフは嫌!」
作家は哀れむように女を見下した。
「悪魔が殺したんじゃなかったんだ……僕が願ったからじゃなかったんだ……」
女は次第に泣きやんだ。そして顔から手を離して自分の体をまさぐり、一つも傷を負っていないことに驚いて首をかしげた。再び作家を見上げる。
「どこも痛くない……身体は何ともないのね……。何で? ここはどこなの? 殺された私が、何でこんな話をしているの?」
「君はこの世によみがえったんだ。悪魔の――いや、神の力で」
「悪魔? 神? 相変わらずあんたの言うことは不気味ね」
「だが、本当だ」
「それじゃあ……まさかあんたが何かをしたっていうの? 魔法か何かで、私を操ったの?」
「違う! 僕じゃない! だからそれは悪魔が……。いや、君自身の欲望が……」
「悪魔? そうか……あんたは悪魔だったのね。だからこんなに薄気味悪い変態の異常者なのね。あんたが私に魔法をかけて、あの人を殺させたんだわ。人でなし!」
「違う! 彼を殺したのは君だ! 僕は悪魔に君を殺してくれって頼んだだけだ!」
「それじゃあ……あんたが悪魔に頼んだから、私は切り刻まれたの? そんな……何で私があんたみたいな異常者に……」
「だが、僕は君を復活させた! 僕が君を助けたんだ!」
作家は女に引きつけられるように歩み寄った。
女はさらに堅くうずくまろうとする。
「何よ、悪魔の手先のくせに。近寄らないで!」
作家はそれでも女に手をのばそうとした。
「違うんだ……忘れたのか……君は何年もの間、僕の妻だったじゃないか……愛し合っていたんじゃないか……思い出しておくれよ……」
作家の手が女の肩に触れた。
身を起こした女は作家の手を振り払った。
「なに言ってんのよ! 触らないで! いやぁぁ! 誰か助けてぇぇぇ! 変態の異常者よぉぉぉ!」
突然の悲鳴に耳を塞いだ作家は、それが止むと冷たい目で女を見つめた。
「君……僕が嫌いなんだね」
女は吐き捨てるように言った。
「当たり前じゃない、誰があんたみたいなサイコ野郎に。私は人間よ。出来損ないの豚なんかに用はないわ」
作家は天井を仰いでうめいた。
「いらない……こんな女はいらない……」
天使の声が漏れる。
『いらないって……?』
「だから念を押したんだ……本当によみがえるのかって……」
女が叫ぶ。
「なに言ってんのさ! あんたなんかさっさと消えてよ!」
「こんな女は妻じゃない……僕の妻は、僕だけを愛していたんだ……」
「そんならさっさと奥さんの所に行きなさいよ。あんたにお似合いのイカレた豚なんでしょう? 私は放っておいて」
作家は女に視線を戻すとかすかに笑った。
「僕の妻は、君だ」
「ばか言わないで!」
「いいや、事実だ。だから君を殺して部品に分解すれば、もう一度、妻を組み立てることができる……」
「え?」
女はそれ以上作家を罵倒することはできなかった。作家が振り回した懐中電灯でこめかみを強打され、倒れたのだ。作家はさらに、倒れた女の心臓を靴の踵で力まかせに踏みつけた。
「死ね! 死ね! 死ね!」
天使が姿を現した。
「やめなさい!」
作家は天使に向かって唾を吐いた。
「くたばれ。僕は妻を返してくれと言ったんだ。人殺しの淫乱女は必要ない!」
「でも、これがあなたが愛した女……」
「僕が愛したのは、僕を愛してくれた女だ!」
作家は叫ぶと、天使を突き飛ばして信者の部屋を目差して二階へ走った。ドアには鍵がかかっていた。作家は廊下の反対側の壁を蹴って勢いをつけ、ドアに体当たりした。鍵は一回で壊れた。
「きゃぁぁぁ!」
ベッドで悲鳴を上げる信者に向かって、作家は叫んだ。
「財布はどこだ⁉ 悪魔の財布をよこせ!」
おびえた信者は答えられない。
後を追ってきた天使が命じた。
「落ち着きなさい! 何をしようというのですか⁉」
作家は部屋の照明のスイッチを入れた。
「妻を取り戻す! 悪魔に頼む!」
天使と信者は同時に絶叫した。
「やめるのよ!」
しかしその時、作家の手はサイドテーブルの財布に届いていた。
作家は叫んだ。
「悪魔よ来たれ! 我の願いをかなえよ!」
財布から閃光が広がった。その光を浴びた瞬間、天使は目をむいて何かを言いかけたまま硬直した。
が、信者は動きを止めなかった。そして、戦う時だと心を決めた。
〝財布を取られたら、能力を失う! 教祖どころか、ただのイカサマ師になっちゃう! そんな惨めなのはいや! こんな男に財布はやれない!〟
信者は作家に飛びかかった。作家の手を包み込むように財布を掴む。
「神よ、力を!」
「出でよ、悪魔よ!」
作家と信者はもみ合いながら、それぞれの叫びを繰り返した。
そこに駆けつけたのは、セールスウーマンとジゴロだった。二人は顔を上気させ、息を乱していた。部屋着は、あわてて身につけたように乱れている。ジゴロは緩んだローブからいきり立った一物をのぞかせていた。
セールスウーマンは言った。
「どうしたんですか⁉」
作家と信者は二人には気づかずに争う。
さらに廊下には、寝ぼけまなこの警官が現われた。
「何の騒ぎですか……?」
が、警官の眠気はセールスウーマンとジゴロの姿を見たとたんに醒めた。二人が今の今まで愛し合っていたことは誰の目にも明らかだった。
警官はセールスウーマンに言った。
「君……まさか……」
「え? あ……あら、なに?」
作り笑いを浮かべるセールスウーマンに警官が掴みかかる。
「この淫乱女が! おまえ、こんな異常者と寝たのか⁉」
「寝ただなんて……ただ私は……」
「じゃあ何をしていたんだよ⁉」
「だから、その……」
「言い訳さえできないのか!」
警官はいきなりセールスウーマンの首を絞め上げた。
二人をぼんやりと見つめるジゴロはつぶやいた。
「ねえ……もっとやろうよ……気持ちいいこと、もっとやろうよ……」
もみ合う作家と信者の手から財布が落ちて、廊下を滑った。やみくもに相手を殴るばかりの二人は、それに気づかない。
ジゴロがゆっくりと財布を拾い上げる。
そして、つぶやいた。
「神は悪魔だ。悪魔は神だ」
が、ジゴロの言葉はすでに狂人のものではなかった。その目には冷徹で計算高い光が現われている。財布を手にした瞬間、瞬きにも満たない間に、全ての記憶が完全に再生されていたのだ。
ジゴロは唇の端をゆがめてかすかに笑うと、動きを封じられている天使に向かって財布を突き出した。
「あばよ、お節介」
財布から光がほとばしる。レーザー光線のような鋭い光に胸を貫かれた天使は、一瞬で蒸発した。
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