5
そして、もう一人が食堂から現われた。
厨房から包丁を持ちだした〝作家の妻〟だった。
顔は作家が組み立てた〝妻〟に変わり、オリジナルの美しさは失っている。全裸の妻は、廊下でもみ合う集団の中から素早く作家を嗅ぎ分けた。
作家は信者と激しく掴み合っている。
妻はつぶやいた。
「やっと見つけたわよ……また、よその女と……許せない……」
妻は包丁を逆手に構えて二人に突進した。
気配に気づいた作家が妻を見て、歓喜の声を上げた。
「おまえ! 生き返ったんだね!」
「死ねぇぇぇ!」
作家は信者を突き放した。妻が突き出した刃を己れの胸で受けとめようと身構える。
「そうだ! 僕を殺してくれぇぇぇ!」
だが、信者はとっさに二人の間に飛びだしていた。
「やめなさい!」
包丁が、信者の首に突き立てられた。
妻が叫ぶ。
「なによ、この女⁉」
作家も茫然とうめいた。
「なぜ……?」
妻が包丁を引き抜くと、信者の頚動脈から血しぶきがほとばしった。
信者は床に崩れながらつぶやいた。
「お願い……悪魔の言いなりにならないで……あなたには神様が……」
妻は信者の血を全身に浴びながら作家をにらんだ。
「私がいない間にこんな女と……」
「違うんだ! こいつは神の手先で、僕たちの仲を邪魔しようと――」
「それなら、どうしてあなたをかばうのよ!」
妻は再び突進して作家の胸をえぐった。作家は自分の胸に吸い込まれた刃の感触に身を震わせた。
「うおぅぅぅ! そうだ、これだ……これなんだ……この痛みこそが愛だ……僕は、やっと愛を……取り戻したんだ……」
だが、いったん神の力で復活させられていた作家からは、悪魔の不死の力は消え去っていた。それでも妻は、容赦しなかった。
「死ね! 死ね! 死ね!」
包丁が抜かれ、突き立てられるたびに作家の意識はかすんでいった。
「なんていい気持ちだ……すばらしい……でも……このままじゃ……僕は……死ぬ……」
作家は腰を折り、床に倒れた信者に折り重なった。
はっと我に返った妻が、作家の異常に気づいた。不死身のはずの夫が死のうとしている……。
妻は手にした包丁を投げ捨てた。包丁は壁に突き刺さってびりびりと震える。
「あんたぁぁぁ!」
妻は作家をあお向けにしてしがみついた。全身から噴き出す鮮血を止めようと、包丁の傷口を押さえる。だが傷は、両手で止められるほど少なくはなかった。
作家は必死にすがりつく妻を見つめてつぶやいた。
「死ぬみたいだね……でもいいさ……君に……殺されるなら……」
「あんた! 死なないで! 死なないでよぅぅぅ!」
作家はにこやかにほほえんで、息絶えた。
それを悟った妻は作家の身体を手放し、廊下の壁に激しく自分の頭を打ちつけはじめた。〝愛する夫〟の死を悲しんで、〝自殺〟を図ったのだった。
一方、悪魔の財布を握りしめたジゴロは、まだ息がある信者を救おうと身を乗り出していた。
が、彼の前にセールスウーマンが立ちはだかる。
「あなたは私のものよ! 教祖だろうがなんだろうが、あんな小娘に横取りされてたまりますか!」
ジゴロは胸にしがみついたセールスウーマンを振りほどこうともがいた。
「手を放せ!」
「だってあんた、私を愛してくれたじゃない⁉」
「俺は教祖を犯すんだ! こいつが死んじまったら悪魔との約束が果たせねえ!」
セールスウーマンから力が抜けた。
「犯す?」
「そうだ。神の下僕を犯すんだ。この俺を神のおもちゃにした償いをさせる。それが俺の願いだ! 今あいつに死なれちゃ、元も子もない!」
「あんた……私を嫌いになったんじゃなかったの?」
「もうおまえは殺せない。だから教祖を犯して殺す。そしておまえを、思う存分楽しませてやる。その前に、教組を悪魔の力で生き返らせなけりゃな。どけ!」
ジゴロに胸を押されたセールスウーマンは、小さくうなずいて退いた。
「あんた……やっぱり私の男だったのね……」
二人を見つめていた警官が、壁に突き立った包丁に気づいた。警官は包丁を引きぬくと、セールスウーマンに向かって言った。
「僕はどうなるんだ……僕は何だったんだ……こんなバケモノと二人で……僕をさしおいて……勝手に……許せない……」
警官はセールスウーマンに飛びかかった。
それに気づいたセールスウーマンはとっさに避けようとしたが、肩に向けられた刃を心臓で受けとめる結果になってしまった。
「きゃぁぁぁ!」
振り返ったジゴロが、警官のパジャマの衿を後からつかんで引っ張った。
「こいつ、何てことを! 俺の女だぞ!」
警官は身をひるがえしてジゴロと対峙した。
「彼女は僕のものだ! 将来を約束したんだ! 僕らは結婚するんだ!」
「ガキが、自惚れるんじゃねえ!」
ジゴロは壁に貼りついて荒い息をするセールスウーマンに向かって財布を突き出した。
「悪魔よ! 彼女を生き返らせろ!」
財布から発した光は、真っすぐにセールスウーマンの心臓に吸い込まれた。ビデオの逆回しのように、噴き出した鮮血が傷口にするすると戻りはじめる。
その時、警官が叫んだ。
「ばかにするんじゃねえ!」
警官が突き出した包丁がジゴロの二の腕に突き刺さった。
「このくそガキめ!」
ジゴロが握った悪魔の財布がぐらぐらと揺れた。そこから噴き出す光線も激しく進路を変える。〝復活の光〟の矢が床を射ると――そこには、天使の〝かけら〟が落ちていた。
悪魔の力を持ってしても、天使を完璧に消滅させることはできなかったのだ。
光を受けた天使は、瞬時に復活した。血みどろの殺し合いを続ける人間たちの間に、神々しく輝く少女が立ち上がる。
天使は彼らに命じた。
「やめなさい」
だが、命令を聞く者はいない。
信者と作家は絶命していた。
作家の妻は、繰り返し壁に頭を叩きつけていた。そのたびに頭の皮膚が剥げ、頭蓋骨が砕け、脳が飛び散る。それでも妻は〝自殺〟をやめようとはしない。
セールスウーマンの心臓からは、また血が噴き出している。復活の光を浴びる時間が短すぎて、再生が完全ではなかったのだ。
さらにジゴロは警官が握った包丁を顔面に突き刺され、即死していた。
悪魔の財布は床に落ちていた。
警官はよみがえった天使を見つめてぼんやりとつぶやいた。瞳に狂気がにじんでいる。
「あんた……可愛い娘だねえ……ねえ、僕とつき合わないかい? ふられちゃってさ……二人でさ、気持ちいいことしようぜ……」
血だまりに立ちすくんだ天使は、ぼんやりと辺りを見まわした。
「こんな……こんなひどいことが……なぜ……?」
警官は熱に浮かされたように天使に飛びかかった。
「ねえ、いいことしようよ! セックスさ。君、まだ知らないんだろう? 僕もまだしたことないんだ。だから、二人でしてみようぜぇぇぇ!」
「やめなさい!」
天使は警官を突き放した。警官はすぐさま立ち上がって天使の腰にしがみつく。
警官は逃げようともがく天使の尻をまさぐった。太股の間に指先を這わせる。
「いい気持ちだよぅぅぅ! やらせろよぅぅぅ!」
「汚らわしい! 私を誰だと思ってるの⁉」
天使は怒りにかられて警官を蹴飛ばした。警官の身体は戦車の砲弾を浴びたかのように吹き飛んで壁に激突し、血へどを吐いた。
床に落ちた警官はぐにゃぐにゃと痙攣した。全身の骨が粉々に砕けている。
天使はつぶやいた。
「まさか……まさか、こんなことに……」
辺りには、頭の半分を砕いても死にきれない作家の妻が、なおも壁に顔を叩きつける音だけが響いている……。
天使は泣いた。
「嘘よ……こんなこと、みんな嘘よ……私は神様の意志に従っただけなのに……愛とは何か知ろうとしただけなのに……人間に愛を与えようとしただけなのに……それなのに……なぜこんなことに……」そして天使は気づいた。「やり直させなければいけない。みんなにもう一度チャンスを与えて、今度こそ神の道を歩ませるのよ。悪魔の策略なんかに敗けるものですか!」
天使は悪魔の財布を拾い上げ、一心に祈った。
〝神よ、この者どもに、いま一度の命を!〟
廊下にまばゆい光が満ちあふれた。あまりの眩しさに、天使は堅く目をつぶった。
光が消えると――。
辺りを覆った鮮血の染みは跡形もなく消え去り、新たな命を得て傷一つなくなった全員が茫然と立ちすくんでいた。
天使は彼らにほほえみかけた。
「さあ、私についていらっしゃい」
作家の妻が、自分が握りしめていた包丁を見た。そして、次に作家を――。
「やっと見つけたわ…… また、よその女と……」
そして、再び血の饗宴が始まった。まるで、ユーチューブの動画を繰り返し再生するように。
天使は動転し、際限なく繰り返される彼らの殺し合いをなすすべもなく見守るばかりだった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます