第五章・天使の恋

 信者が鳴らしたチャイムに返事はなかった。

 作家の豪邸は、すべての窓が鎧戸で閉ざされている。もともと充分な手入れをされていなかった庭も、さらに荒れ放題になっていた。近くの住人の間では、彼らは海外に移住したという噂がまことしやかに囁かれている。

 だが信者は、今もその家で凄惨な殺戮が繰り返されていることを天使から詳しく聞かされていた。

 悪魔の魔力でよみがえらされた妻の手によって、永遠に殺され続ける作家――。

 悪魔がかけた〝呪い〟が強すぎて、天使一人の力では作家を救うことはできなかったというのだ。

 信者の心の中に再び天使の声が響いた。

『恐れないで。あなたが得た悪魔の財布の力を善に用いれば、きっと彼を地獄から救いだすことができるわ』

 信者はドアのノブに手をのばした。鍵がかかっている。

 自分の指がかすかに震えていたことに気づいた信者は、迷いを声に出した。

「これが次の試練なのよね……。でも、私みたいに非力な女が、たった一人で悪魔と戦うなんて……。あの方を立直らせることにも失敗してしまったのに……。でも、今度が神の国にたどり着く最後のチャンスかもしれないし……こうなったら、命を捨てる気でやってみるしかないわ……」

 信者はもう一方の手でポシェットの中の財布を握りしめた。

〝お願い、私に力を! 鍵よ、開いて!〟

 鍵はたやすく開いた。

 信者はさらに、ためらう自分に言い聞かせた。

「大丈夫よ……このお財布は、悪魔のものだったんだから。神様が〝正しき方向〟に変えてくださったこの力さえあれば、悪魔の呪いだってきっと破れる……。天使様が間違えるはずがないもの。信じるのよ……」

 血まみれになっているはずの〝二人〟を取り押さえる覚悟はつけてある。

 彼らはいずれも悪魔に操られた不幸な人間たちで、悪魔そのものではない。その程度の相手であれば、互角以上に戦える自信がある。

 問題は、天使の介入に気づいて悪魔が現われた場合だった。

 悪魔は自らの欲望を満たすために二人の人間を殺し合わせ、それを眺めて楽しんでいるのだという。ならば、信者が二人を拘束すれば、その事実はすぐに悟られる。怒りに任せて悪魔が反撃してくることは充分に予想された。

 しかし、天使でさえ悪魔の力がどれほどのものかを正確には知らなかった。万が一、悪魔との直接対決という事態になったとしても、対抗策はその場で考える以外にない。

 信者は干からびた喉にごくりと唾を流し込んで、再び屋敷を見上げた。

〝信じるのよ……天使様が命じてくださったお仕事ですから……どんなことが起ころうと、かならず神様が守ってくださるわ……。信じるのよ……〟そう自らを励ます一方で、贅沢には縁のなかった信者は、のしかかってくるような廃屋の威圧感に衝撃を覚えていた。〝それにしても、なんて大きな家なんだろう……まるで、お城ね。これも悪魔の力で手に入れたの……? でも、神様に比べれば悪魔に力なんて取るに足らないわよね。こんな贅沢なんて、心の清らかさには決して勝てないもの……〟

 信者は息を整えてからノブを押した。

 ぎしぎしと音をたてた扉をくぐる。薄暗いホールはほこりっぽかった。何足かのスリッパが置かれていたが、信者は靴のままで中に進んでいった。広大な玄関ホールの先に応接間があるらしい。

 そこから、かすかな物音が聞こえる。

 信者は息を殺して応接間のドアを開いた。

 予想通りの光景だった。

 異国風のじゅうたんの上に置かれた応接セットのソファーで、作家が包丁を振るう妻に刺されていた。妻が作家の顔面をえぐった包丁を抜き去る。

 信者は飛び散る血しぶきを予感して目をそらした。

 が、気力を奮い立たせて視線を引き戻した時には、作家の傷はすでに塞がっていた。

 作家が妻をはねのけて叫んだ。

「やめてくれぇぇぇ!」

 背を向けて逃げる作家の首筋に、飛びかかった妻が容赦なく包丁を突き立てる。

「死ねぇぇぇ!」

 妻が包丁を抜くと作家は正面を向き、再び顔面を刺されるのだった。だが、作家の傷が塞がるのがあまりに素早く、室内にはまったく血が流れだした痕跡がない。

 信者は意を決して応接室に踏み込んだ。

 二人は部屋の真ん中の応接セットの周囲を巡りながら、何度も同じことを繰り返していた。彼らには互いの姿しか見えていなかったのだ。信者に気づく余裕さえない。

 二人は永遠にこの惨劇を繰り返すよう定められてしまったのだ。ただひたすら、悪魔の残酷な欲望を満たすために……。

 信者はしばらく二人を見つめ、涙をあふれさせた。思わずつぶやく。

「酷い……あまりに酷い仕打ちだわ……彼らがこれほどの罰を受ける罪を犯したというの……? これが悪魔の仕業なの……?」

 と、その声にようやく妻が気づいた。

 包丁を振り上げたまま動きを止めた妻は、信者を見ると喉の奥から低いうめきを絞りだした。

「あんた、誰よ……」

 ようやく異変を察した作家も、顔を覆った腕を離して信者を見た。

「誰だ……?」

 信者は作家にほほえみかけた。

「もう大丈夫よ。あなたは神様に救われます」

 妻が叫んだ。

「女!」そして鋭い目で作家をにらみつける。「あんた! また女を⁉」

 作家は再び腕を上げて顔を守る。

「僕は知らない! 何も知らない!」

「嘘よ! じゃあこの女はいったいなによ⁉ また連れ込んだのね!」

 振り降ろされた包丁は作家の腕を貫いた。二人はからみ合うようにしてじゅうたんに倒れた。妻は作家に馬乗りになって、その胸に何度も包丁を叩き降ろす。

 信者は命じた。

「悪魔の化身よ、立ち去れ!」

 身をよじって振り返った妻は、信者を見つめてふんと笑った。

「悪魔? それは他人の夫をたぶらかすあんたのことでしょう? ここから消えるのはあんたの方よ!」

 立ち上がった妻は、包丁を腰に構えて信者に向かって突っ込んできた。

 信者は叫んだ。

「私は神の使いです!」

 妻は金切り声を上げた。

「死ねぇぇぇぇ!」

 信者は財布を強く握った。

「止まれ!」

 その瞬間、妻は凍りついたように動きを止めた。

 ゆっくり起き上がった作家がぼんやりとつぶやく。

「どういうことだ……? 妻に何をした……?」

 硬直した妻を避けて奥に進んだ信者は、作家の手を取って起き上がらせた。

「私は神様の使いです。天使様はあなたが悪魔の呪いで苦しめられていることを知り、あなたを救えと私に命じられたのです」

 そして信者は作家に財布を見せた。

 作家は目を丸めた。

「その財布は……?」

「あなたが持っていたものなのでしょう? その、悪魔の財布です。この財布はさまざまな人に不幸を与えた末に、私の手に届きました。ですが今は、神様のお力によって善の力を帯びています。私はこの財布の力を用いることによって、あなたを救うことができるのです」

「救われる……。この苦しみから逃れることができるのですか⁉」

「できます」

 作家は虚脱して床に尻をついた。

「逃れることができるんだ……悪魔の呪いから……ようやく……」

 信者はうなずいた。

「では、さっそく……」

 信者は動きを封じられた妻に向かって、両手で財布を突き出した。目をつぶって気持ちを落ち着かせ、叫ぶ。

「悪魔が与えたすべての力よ、汝から去るのだ!」

 妻の手から包丁が落ちた。

 石像のように硬直していた皮膚が、しだいに小刻みに震え始める。衣服が急激に腐敗してはがれ落ちていく。そして全裸になった妻の皮膚も、ゆっくりと溶け始める。はらり……と落ちた皮膚の下から、どっと血がにじみだした。血液に混じって肉塊が落ちる。肉体の崩壊は見る間に加速され、立ち尽くした妻の足元には肉片の山が積もりはじめた。しだいに露出していく骨も関節が外れ、最後には乾いた音を立てて崩れた。

 妻が腐臭を漂わせる肉塊と化すまでに五分もかからなかった。

 妻の〝死〟を確認した信者は、振り返って作家にほほえみかけた。

「これであなたは呪いから解放されました。今度はあなたにかけられた呪いを――」

 信者は作家の表情に息を呑んだ。

 作家は崩れ去った妻の残骸をじっと見つめていた。そして、涙で目をうるませていた。が、その表情には悪魔の企みから開放された喜びは微塵も現われていない。

「なぜだ……」

 信者は首をひねった。

「どうしたのですか? 嬉しくないのですか?」

 作家は不意に涙をあふれさせて信者を見返した。

「なぜなんだろう……嬉しいはずですよね……やっと……やっとあんな苦痛から解放されたのに……なのに……なんで涙が……なんで……こんなに……悲しいんだろう……」

 ゆっくりと立ち上がった作家は、じゅうたんに積み上がった肉塊に近づいた。血だまりの中にひざをつくと、両手を腐肉の中に差し入れる。

 信者は茫然とつぶやいた。

「おやめなさい……」

 しかし作家は従わなかった。

「なぜなんだ……」両手で血をしたたらせる肉塊をすくい上げた作家は、その肉に頬をすり寄せた。「おまえ……なぜこんな姿に……」

 信者はつぶやいた。

「まさか……? あなた……愛していたのですか?」

 血まみれの顔で振り返った作家は小さくうなずいた。

「どうやら、そのようですね……僕はきっと、彼女を愛していたんです……自分でも気がつかなかったけど……あれほど傷つけられてきたというのに……醜かろうが、憎まれようが、僕は彼女を愛していたんです……僕の苦痛は、愛の証だったんだ……なぜなんだ……なぜ失ってから、愛に気づかなければならないんだ……」

「そんなばかな……悪魔のもたらした幻想にだまされてはいけません……」

 作家に信者の言葉は届いていなかった。再び腐肉に顔をうずめる。

「僕は……僕はこれからどうすればいいんだ……おまえがいなくなったら、僕は無だ……何も残らない……生きている意味もない……もう生きていくことはできない……」

 信者は、肩を震わせて嗚咽する作家の姿に不意に心を打たれた。

「これが、愛……? これほど凄まじい苦痛を与えられながら、怪物のような妻を愛し続けていられただなんて……何という強い愛なのかしら……」

 作家は亡霊のように立ち上がった。全身に妻の血をしたたらせる姿で信者に向かう。

「生き返らせてください」

 信者ははっと作家の目を見返した。

「え?」

「妻を生き返らせてください」

「それは……できないのです……」

 信者は天使から、悪魔の手先と化した妻を処分しろと命じられていた。たとえ妻を生き返らせる能力があったとしても、天使を通じて下された〝神の命令〟にそむくことはできない。

「嘘だ……できるはずだ……できるんでしょう? その財布があるんだから、あなたには何だってできるはずだ!」

 作家は手に残っていた肉片を捨てて信者に飛びかかろうとした。

 信者は作家の思い詰めた視線に恐怖を覚え、立ちすくんだ。思わず、悲鳴が漏れる。

「きゃあぁぁぁ!」

 と、作家の身体は見えない壁にでもぶつかったようにはね返った。

 肉片の中に尻餅をついた作家は涙をあふれさせて叫んだ。

「返せ! 妻を返してくれ! 僕には彼女が必要なんだ!」

 と、そこに天使の声が響いた。

『落ち着くのです』

 はっと振り返った信者は、部屋の壁の中から天使の姿がにじみ出すのを見た。ピントが外れた写真のような影は次第に焦点を結び、天使は確かな実体に変わった。

 作家の予想外の反応に思考力を奪われていた信者は、天使の出現に安堵の溜め息をもらした。

「よかった……私、どうすればいいのでしょう? この方は、どうすれば救われるのでしょうか?」

 作家は天使に向かってつぶやいた。

「あんた、何者だ……?」

 天使は作家に歩み寄った。

「私は天使。神の使いです」

 作家は四つん這いになって天使ににじり寄った。

「神……だと? それじゃあ僕の妻を生き返らせてくれるのか?」

 天使は首を横に振った。

「それはなりません。彼女はすでに死んでいます。悪魔があなたに与えたのは、単なる幻想にすぎません」

「幻想でもいい! 僕には妻が必要だ!」

「私の使命は、あなたをその幻想から解放することです」

「余計なお世話だ!」

「神を信じなさい」

 作家は床に顔を打ちつけて泣いた。

「妻を返してくれぇぇぇ!」

 天使は心の中で呆然とつぶやいた。

〝これは、何? 幻想とはいえ、なんと強い愛なの……? あれほど狂暴な妻を、これほど愛せるものなの……? 悪魔に操られたモンスターだと知っているのに……。自らの犠牲をいとわない愛……人間の心の中にこれほど強い心が潜んでいたとは……〟

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