ジゴロの下腹部の興奮は、その後一週間ふくらみ続けた。

 信者は、仲間たちをともなって毎日やってきた。そのたびに彼らは何時間も神について論じ、ジゴロを神の下僕に変えようと熱弁を振るった。

 ジゴロもまた、その話に調子を合わせて信者の足が遠のくのを必死に避けた。

 だがその間のジゴロは、信者一人に意識を奪われていた。

〝この娘を殺したい……犯しながら首を絞めたい……〟

 それが二回目に信者と合った時の切実な願いだった。だが四日目には、内心のつぶやきは変わり始めていた。

〝この娘を犯したい……〟

 そして昨日、ジゴロは気づいた。

〝抱きたい……〟

 信者への思いは、唯一ジゴロが愛したセールスウーマンへの慕情と混じり合い、その一点に絞られてしまったのだ。『殺さなければならない』という強迫観念は、いつのまにか消え去っていた。

 ジゴロはベッドの中から窓越しに晴れ渡った空を眺め、モリーを抱いていた。

「モリー……いや、悪魔さんよ。まずいことになっちまった……惚れちまったのかもしれない……あいつに似てさえいなけりゃ、こんな不様なことにはならなかったのに……」

 猫の毛をなでながらも頭に浮かぶのは、か弱く清楚な信者の姿ばかりだった。そして、朝のベッドで彼女の肌を優しくまさぐる自分自身――。

 しかもその妄想は、決まって互いに心を許し合った求め合いに行き着く。もはやジゴロは、信者から愛されることを望み始めた自分から目をそらすことはできなかった。

 モリーは何も言わなかった。じっとジゴロを見つめるばかりだ。

〝そういえば、ここ何日か悪魔の声を聞いていないな……〟

 信者が仲間を連れてき始めた頃は、悪魔はモリーの口を借りて彼らの論理が支離滅裂なことをジゴロに力説した。信者が部屋を出ると、〝神〟がどれほど矛盾に満ちた存在かを理路整然と説いた。

 ジゴロにとっては退屈な講義だったが、それは悪魔が味方についているという証でもあった。

 その『悪魔学』の授業が途絶えていたことに不意に気づくと、ジゴロは激しい不安に襲われた。

「まさか、見捨てられたんじゃないだろうな⁉」

 モリーをベッドから落としてキッチンに駆け込んだジゴロは、財布を出して開いた。 

 金は詰まっていた。

〝よかった……まだ力はある。でも、人の心は読めるのか?〟

 ジゴロは財布を握ったまま、意識をドアの外へ向けた。

 廊下の刑事の声。

〝まだ来ませんね……〟

〝何も起こらなければ、今日で張り込みも終わりだ〟

〝自分は捜査継続を主張しますよ〟

〝だが、あの男は何もしていない〟

〝だから、死体になった娘もいないんです。でも、今度は絶対にあの教会の娘が襲われますって〟

〝しかし彼女が一人で来たのは、最初の一回だけだ。しかも、身元にも男に会いにくる動機にも、不審な点はない。君がいくら力んでも、私はバックアップできん〟

 ジゴロは胸をなで下ろした。

 悪魔の力は消えていない。今しばらく派手な動きを控えれば、警察の監視からも解放される。

 そうすれば、信者と二人で過ごす時間も持てるかもしれない……。

 ジゴロの足にモリーが頬をこすりつけた。

「わかったよ、餌だろう?」

 ジゴロはモリーのお気にいりのドライフードを冷蔵庫から出して空の餌皿に掴み出した。

 だが、モリーは餌には見向きもしなかった。

「変な奴だな……」

 ジゴロは財布を冷蔵庫にしまおうとした。

 と、いきなり信者の声が頭の中にとどろいた。

『誰か! 誰か助けて!』

 同時にジゴロに脳に、信者がこの瞬間に見ている映像が流れこむ。

 そこは、ジゴロが住んでいるマンションの屋上だった。

 信者は屋上の周りに張り巡らされた手摺りを乗り越えようとしている。その先から、子供の泣き声が聞こえてくる。手摺りを越えた信者が、十階の高さから下をのぞき込む。壁の縁から一メートルほど下がった場所に着けられた小さなひさしに、小学生らしい肥満体の少年が立っていた。悪戯か冒険のつもりで柵を越え、落ちかかっているようだ。

 少年は恐怖に駆られた目で信者を見上げた。

『助けて!』

『待ってて!』

 信者は右手で柵の上部を握り、左手を伸ばして少年の腕を掴んだ。が、その華奢な身体では子供を引き上げることはできない。泣き叫ぶ少年は、信者の腕にすがりついて暴れる。

 信者は一人だった。たった一人でジゴロの部屋を訪れる途中に屋上から落ちかかっている少年を発見して、取るものも取りあえず駆け上がったらしい。

 強い旋風が吹きつけた。子供の体重に引っ張られて、信者の身体がぐいと前に出る――。

〝ヤバい!〟

 ジゴロは財布を床に捨てて廊下へ飛び出した。ジゴロの部屋は八階。階段を一気に駆け上がって屋上へ飛び出す――。

 信者が悲鳴を上げていた。

「誰か!」

 柵を掴んだ信者の指が引きはがされるのと、ジゴロがその手首を掴むのは同時だった。少年の足がひさしから外れた。少年は信者にぶらさがる。信者も屋上の縁から足を踏み外した。

 ジゴロは二人の体重を腕一本で支えた。

「くそう……」

 ジゴロは柵で胸をつぶされて息を詰まらせながらも、渾身の力を込めて二人を引き上げた。三人の体重が錆びた手摺りをきしませる。

 信者が足をひさしにかける。太った少年が信者の身体をよじ登り、壁の縁に上がる。少年が自力で柵を越えて屋上に座り込んだことを確かめると、ジゴロは信者を縁に引き上げた。そして信者が柵を越えるのに手を貸した。

 信者はジゴロの手を取ってほほえんだ。

「あなた……」

 ジゴロも息を切らせながらもほほえんだ。

「よかった……無事で……」

 屋上に、ジゴロを追ってきた二人の刑事が現われた。

 ジゴロは柵に寄りかかって刑事たちを見つめた。

〝柄にもなく、人助けかよ……だがこれで、サツに捕まる心配はいらなくなりそうだ〟

 信者が振り返り、恥ずかしそうにジゴロの手を離した。

 ジゴロは風になびく信者の髪の香りをかいだ。

〝抱きたい……〟

 と、また柵がきしんだ。悠然と寄りかかっていたジゴロの体重を支えていた部分が、不意に外れる。

 ジゴロは後ろに倒れ、空中に放り出された。

〝ばかな……〟

 十階から落ちながらジゴロは、ぐるぐると回転しながら流れる光景を目にした。

 不意にセールスウーマンとの激しく求め合った記憶がよみがえる。

 ジゴロの身体は真下の自転車置場の屋根に落下し、弾んでから地面に落ちた――。


         *


 ジゴロは、鼻先の冷たい感触で意識を取り戻した。

 目の前に真っ赤な猫がいた。

〝赤い猫だと……?〟

 赤いのはジゴロの視界だった。自分の、割れた頭から流れ出た血のせいだ。

 猫は白い。

 ジゴロはつぶれた肺から言葉を絞りだした。

「モリー……。夢か……? 俺、死ぬのか……」

 モリーは奇妙なことに、悪魔の財布を小さな口にくわえていた。

 だがうめきながら手を伸ばしたジゴロは、はっきりと猫の毛と財布の手触りを感じた。

 同時に、言葉ではない何かが心の中に流れこんだ。

〝な、なんだ、この感触は……?〟

 わき上がる溶岩のような熱い感情だった。暖かさと冷たさがせめぎ合って渦を巻き、激しい火花を散らしている。

 愛と嫉妬――。

 ジゴロは気づいた。

 その感情はモリーが発している。

「モリー……おまえ……」

 ジゴロは脳に流れこむ猫の激情にさらされ、それを理解した。

 モリーはジゴロを愛していた。なのにジゴロは、悪魔の導きをきっかけに信者に恋をした。嫉妬に狂ったモリーは、そのエネルギーで悪魔を体内から追い出してしまったのだ。だからジゴロが〝恋〟に落ちると同時に、悪魔は消え去った。

 そしてモリーは、猫が本来備えている野性の霊力を用いて信者を殺そうと図った。あるいは、自分を捨てたジゴロを抹殺しようと――。

 周囲に人間の足音が高まる。遠くに救急車のサイレンが聞こえる。

「モリー……死ぬのかな、俺……?」

 猫は何も応えずに立ち去った。

 あわてて駆けつけてきた信者の声がする。息を切らせていた。

「あなた! 死んじゃだめ! 死んじゃ――」

 ジゴロは意識を失った。

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