ドアのチャイムが鳴ったのは〝早朝〟だった。

 午前一〇時――ジゴロにとっては、かつてセールスウーマンと共に味わった〝唯一無二の快感〟を、夢で反芻する時刻だ。

 寝呆けまなこでベッドを出たジゴロは、インターホンの受話器を取った。

「どなた?」

「あの……神のお話しをさせていただきたくて……」

 女だ。

 疲れているらしく張りは欠いていたが、若そうな声だった。

 よくある、宗教団体の布教員に違いない。いつものジゴロなら有無を言わせずに追い払う。しかし今朝は、まだ昨夜の苦い記憶が残っていた。

 ジゴロは尼僧を牙にかけるべく、教会と名がつく場所に手当たり次第に電話をかけたのだ。しかし、犯すに足る若さを持つ尼僧がどこにいるかは見当もつかなかった。

〝尼さんが犯せないなら、信者でもいいさ〟

 ジゴロは軽い気持ちでドアの鍵を外した。

 目の前に立っていたのは、二〇才にも満たないような娘だった。安物の古着を身につけていたが、若さに輝く素肌のみずみずしさは損なわれていない。華奢だが〝女の身体〟は出来上がっている。だぶだぶの衣服を通しても、豊かな乳房と引きしまった腰がうかがえた。

 しかも、娘は一人きりだ。

 信者はぱっと笑みを広げた。

「こんにちは。話を聞いていただけますか?」

 今までずっと門前払いをくわされて意気消沈していたのだろう。信者の心からの笑顔は、ジゴロの寝呆けた意識を目覚めさせた。

〝すげえ美人じゃねえか……しかもしまりのよさそうな身体だ……それに……〟

 その信者の顔立ちはセールスウーマンに似ていた。

 目鼻の一つ一つを取れば明らかに形が違っているのだが、顔全体の雰囲気がなぜかセールスウーマンを思い起させる。

〝まさか……姉妹か?〟

 思わず言葉が口を突いた。

「君、お姉さんがいる?」

 信者は無邪気に首をひねった。

「はい? 一人っ子ですけど……? 何か?」

「いや、ちょっと君に似た知り合いがいてね……」

〝そりゃあそうだよな。そんな偶然、あるわけがないさ〟

「はあ……」

 信者は、居心地が悪そうに尻込みした。

 ジゴロは信者の全身を改めて値踏みし、かすかな笑みをもらした。

〝どっちにしても、この身体なら犯す価値はある〟

「君、どこかの教会の人だろう? 俺、神様の話が聞きたかったんだ。ちょうどよかった、中に入りなよ」

 信者はさらに身を引いた。

「いいえ、私はここで。お宅に上がることは許されていないんです」

「気にすることはないさ。友達――ってことにすりゃあいいじゃないか」

「でも……」

「それじゃあ……こんにちわ。こうして顔を合わせて挨拶もした。もう立派な友達だよ。そんなに汗をかいてさ……休んでいきなよ」

 信者は恥ずかしそうに顔を伏せ、レースの縁取りのハンカチで額を押さえた。

「一人で回っていたもので……」

「一人で? 普通は何人もで組んで歩くんじゃないのか?」

「ええ。でも私、まだ慣れていなくて……いつもみんなの足手まといになってしまうんです。だから自分だけで練習するつもりで、教会には内緒で……」

〝そりゃあ好都合だ〟

「とにかく入りなよ。あと一分もしたら、立ったままミイラになりそうな顔をしてるぜ。冷たいものでも飲んでいきな」

 信者の喉はぐびりと下がった。

「でも……」

 ジゴロはためらう信者の腕をつかんで中に引き入れた。

「いいじゃない、友達なんだから。熱中症の予防さ」

 強引に部屋に引き込まれてソファーに座らされた信者は、居心地悪そうに揃えたひざに両手をそえた。〝借りてきた猫〟に例えられる状態だ。

 本物の猫――モリーは、そんな信者を遠巻きに眺めていた。この部屋に〝女〟が入ることは極めてまれなのだ。

 ジゴロは冷蔵庫から缶入りの麦茶を運ぶために、キッチンの前に居座ったモリーを足で押しのけた。

「ベッドで寝てろって。まだ起きるのは早いぜ」

 足にすり寄るモリーを無視したジゴロは、グラスに移した麦茶をテーブルに置いた。部屋着のポケットには、冷蔵庫の中に隠してあった悪魔の財布が忍ばせてある。

「まず飲んでからだね。時間はあるんだろう?」

 信者は伏し目がちに答えた。

「やっぱり、今日は帰ります。明日にでも、またみんなと来たいんですが……」

 ジゴロは信者の目を見つめて答えた。

「俺は今、話が聞きたいんだ。いいだろう? それが目的で来たんだから。さあ、飲んで」

 ジゴロは悪魔の財布を握った。信者の困惑が聞こえる。

〝どうしよう……教会に黙って来たの、やっぱりまずかったかな……男の人の一人住まいだったなんて……しかも猫がいるなんて……猫なんて大嫌い……本当に悪魔の使いみたいよね、あのツンツンした目つきって……〟

 ジゴロは腹の中で笑った。

〝そうさ、この猫には悪魔が棲んでいる。だからおまえは、もう帰れない。これから俺に犯され、殺されるんだ〟

 そう考えたとたんに、体温が急激に上昇する。神の下僕の美人――すぐにでも飛びかかりたい衝動を押さえるのも、今は喜びだった。

 ジゴロは平静を装った仮面を脱ぎ捨て、欲望をむき出しにして信者を見つめた。小さく舌なめずりしながら麦茶のグラスを押し出す。

「神様のことを知りたいんだ。君に教えたいこともある」

 信者が目を上げた。表情が凍りついた。

「私に……何を……?」

「おそらく、一度も経験したことのないことだ……」

 信者はおびえをあらわにした。

〝いや……変なことされるのかしら……〟

〝とんでもない、誰でもやってるただのセックスさ。死ぬほど良すぎて、本当に死んじまうのは普通じゃないけどな〟

 ジゴロの薄い唇に冷酷な笑みが浮かんだ。

 と、財布からいきなり別の人物たちの思考が流れこんできた。

〝この部屋か?〟

〝若い娘が入りました。急を要します〟

〝踏み込もう〟

〝しかし令状が、まだ……〟

〝うむ……〟

 警官だ。玄関口近くで迷っている。

 警察はひそかにジゴロの身辺を調査していたのだ。自宅にまで迫っていたことは驚きだった。

 たとえ悪魔に守られているとしても、警官の前で人を殺すわけにはいかない。信者が騒げば、彼らはためらいを捨てて飛び込んでくる。

 財布の力で信者をコントロールすることはできる。〝自分の意志〟でベッドに入らせることもたやすい。たとえ警察が踏み込んできても、それなら難癖をつけられる筋合いはない――。

 だが相手の意志を財布の力で曲げてしまったなら、強姦にはならない。警官に見張られながらでは、もちろん殺すこともできない。合意の上でのありきたりのセックスで、セックスを越える快感が味わえるはずはなかった。

 機会はまだある。

 信者の頬は強ばったままかすかに震えていた。

 ジゴロは不意にほほえんだ。

「……なんてことを言われると思って、恐がっているのかい? 遊び人に見えても、俺はそんな男じゃないよ。恐いなら、無理にとは言わない。でも、また都合のいい時に来てほしいな。なるべく早く。他の人と一緒でいいからさ」

 信者も詰めていた息をもらして、笑顔で応えた。

〝よかった……びっくりしちゃった……〟

「ありがとうございます……私の方から押しかけてきたのに……」

「いいんだ。これで友達が増えたんだから」

「じゃあ、今日はこれで……」

「忘れ物。お茶だけは飲んでいきなよ」

 信者はうなずいてグラスを空にしてから立ち上がった。

〝この方……見かけよりずっといい人なんだわ……ばかね、訳もなく疑ったりして。私ってまだまだ未熟なのよね……だからみんなの邪魔ばかりしているんだわ。人を心から信じることができなかったら、神様にご奉仕なんかできっこないのに……〟

 ジゴロは玄関のドアを開けて信者を廊下に送りだした。

 刑事たちが廊下の端で身を隠した気配があった。姿は視界に入らなかったが、その声ははっきり聞こえる。

〝女が出てきます〟

〝何事もなかったようだな……〟

〝女に職質しますか?〟

〝警戒されてはまずい〟

〝しかし、彼が本当に連続殺人犯なんでしょうか……?〟

〝分からんな……とにかく、君は女を尾行しろ〟

 信者はジゴロにぺこりと頭を下げた。

「ご馳走になってすみませんでした。明日にでも、みんなと来ます」

「待ってるよ」

〝いい人なんだわ、本当に……〟

 ジゴロは信者の内心の言葉に舌打ちした。

〝この俺が――恐るべき連続殺人犯が、『いい人』かよ……。こんなに人を小馬鹿にした話があってたまるか。ちくしょう、この高ぶりをどうすりゃいいんだ……期待させやがって……サツさえ出しゃばらなけりゃ思うまま切り刻んでやれたのに……〟

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