3
床にへたり込んだジゴロは、目の前で寝転んでいるモリーの目をのぞき込んで食ってかかった。
「なぜ警官に追い回される⁉ これじゃあ、おちおち外に出られねえ。俺を守るって言ったのは嘘だったのか⁉」
悪魔は答えた。
「嘘などついてはいない。事実おまえは、捕らえられていない」
「捕まえられそうになったと言ってるだろうが! あのままだったら、死刑に決まってんだ! あれでも守ってるって言えるのか⁉」
「私が守っているからこそ、無事に逃げられた。この部屋に警官が来たこともない。すべて悪魔の力だ。だからおまえは、これからも安全だ」
ジゴロは床に目を落として溜め息をもらした。
「たしかにそうだがよ……生きた心地がしなかったんだぜ……」
「悪魔の下僕に恐れは必要ない。心のおもむくままに自由を楽しめ」
ジゴロは再び猫の目を見つめた。
「俺は疑い深いんだ。近ごろ急に警察がうるさくなったのも間違いない。守ってやるなんて言っときながら、登りきったとたんにハシゴを外されたんじゃたまらねえ。俺を守るって言うなら、何か保証になるものはないのか? 絶対に裏切らねえという証拠がよ」
モリーが身を起こし、ジゴロと向かい合って座る。
「悪魔は嘘はつかない」
ジゴロはぷっと吹き出した。
「まいったぜ……ジョーク好きの悪魔か? 『嘘はつかねえ』っていうのは天使のセリフだろうが」
悪魔の答えに、かすかな苛立ちが混じる。
「悪魔を愚弄するな。天使こそが嘘の固まりだ。そもそも、〝神〟の存在自体が嘘の上に成り立っている。その手先に成り下がった天使などに、信じる価値はない」
「おっと、そいつは鵜呑みにできねえな」
悪魔が乗り移った猫は、かすかに首をひねった。
「悪魔のような人間であるおまえが、真の悪魔を疑うのか?」
「俺たちの常識とは違うからさ。神様は人間を救うためにいる。そもそも悪魔ってのは、天使が穢れた存在じゃないのか? 堕天使ってやつだろう?」
悪魔は即座に断言した。
「違う。悪魔は常にこの星と共にあった。一神教など、ほんの数千年前に造られたまやかしに過ぎない。その遥か昔から、この星には我々が在った。後からやってきた〝奴ら〟が自らをゴッド――すなわち〝唯一の神〟と呼び、我々を〝悪魔〟と名付けただけだ。新興宗教の常套手段だ」
「おいおい、神様を新興宗教呼ばわりかよ」
「事実だからだ。日本の〝神々〟と欧米の〝ゴッド〟は全く別の存在だ。奴らは、人を救おうなどとは考えていない。考えているのは己れの利益だけだ。だから奴らは、人間との〝契約〟を求める。己れを崇拝するという契約を結ばなければ、ゴッドは人を助けぬ。それが絶対神の〝商売〟だ」
「おそろしく俗な言い方だな。神は聖書を売りつけるセールスマンだ、ってか?」
「似たようなものだ。幻の〝繁栄〟や〝復活〟を約束することで人類の歓心をかい、己れの勢力を広げていく。この世の常識など、しょせん神が自分に都合がいいように描いた絵空事に過ぎない。それより、おまえ自身の心に素直に従うことだな」
「素直に考えるから、あんたを疑っている。同族だから腹の内が透けて見えるのかもな。だがまあ、今のところは信じてみるさ。たしかに身の危険は避けられたわけだしな。でも、神や天使が嘘つきだってのは、どういうことだ? よく分からねえ」
モリーの眼が妖しく輝いた。
「知りたいのか?」
「ああ」
「なぜ?」
「あんたの本性を見抜くためさ。悪魔なんぞに出し抜かれたくはねえ」
悪魔は笑い声をもらした。
「さすがに私が見込んだ男だ。一筋縄ではいかぬな」
「誉めてくれてありがとうよ。で、何なんだ、神や天使の正体ってのは?」
「ならばまず、悪魔の〝存在理由〟を知らねばなるまい」
ジゴロが身を乗り出してニヤリと笑う。
「いいね。敵を知れば百戦危うからず、だ」
「私はおまえを可愛い弟子だと思っているのだが?」
「俺はあんたにいつ寝首をかかれるかとビクビクしてる。味方だと納得できるまでは、敵だと思っとくぜ」
モリーがかすかにうなずく。
「好きにしろ。ところでおまえは、日本人にネアンデルタール人の特徴が色濃く残っているという事実を知っているか? 日本には旧人――ホモ・サピエンス以前のヒトの遺伝子が確実に保存されているのだ」
「あ、それ、ネットで見た気がするな。だが、それが悪魔に関係あるのか?」
「ある。むしろそれが悪魔の起源で、悪魔そのものだと言ってもいい」
「どういうことだ?」
「ネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6・TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人だ――という研究結果が明らかにされた。日本人はY染色体ハプログループでも、極めて稀なD2系統を多く持っている。日本人の遺伝子が太古の特徴を引き継いでいることは科学的に証明されている」
ジゴロが自嘲的な笑いを漏らす。
「だから日本人は土人なんだ――って嘲笑ってる奴らもいるな。だが、縄文時代から大して進化してないなら、反論もできない」
「土人?」
「おまえもそう思っているんだろう? ホモ・サピエンスになりきれない、半端な人種だって」
モリーは破顔した。少なくともジゴロには、猫が大笑いしたように見えた。
「なるほど、土人か……本質を突いた素晴らしい言葉だな」
「なんだよ、おまえまで日本人を笑いものにするのか。……ま、そんなことはどうでもいいけどよ。俺も日本人だがお上品には暮らせないし、大して思い入れもないから」
「そうではない。最大級の褒め言葉だと思っているのだ」
「褒め言葉だと?」
「土人――すなわち、土の人ということだ。火の人でも石の人でも鉄の人でもない。ましてや電気や核の人ではない。自然の摂理に溶け込み、一体化して、他者と協調して生きる人々だ。何万年もの長きにわたってその血を受け付いで来た民族にはふさわしい敬称ではないか。ネアンデルタール由来の遺伝子に着目する限り、現代のヒトは〝人間〟と〝日本人〟に分けられると極論することさえ可能だ」
「よく言うよ、人間扱いされてないだけだろうが」
「おまえが言う人間とは、なんだ?」
「なんだ、って……急に言われてもな……」
「ホモ・サピエンスとはラテン語で〝賢い人を〟意味する。しかもの正式な学名は、ホモ・サピエンス・サピエンスだ。二重に賢さを誇示している。だがその実態はどうだ? 〝賢さ〟とは、底知れぬ貪欲さをもっともらしく言い換えた欺瞞的な言葉に過ぎない。騙し、犯し、奪い、滅ぼす――それが正体だ。〝人間〟の歴史とは、憎悪と暴力によってこの星を喰い尽くそうとする欲望の軌跡だ。〝人間〟は、地球の生き物を無分別に喰らい、それでも飽き足らずにに互いに虐殺し合いながら歴史を刻んで来た」
「それが人間だ、ってか? だから俺たち日本人は、人間じゃないって言いたいのか?」
「理解が早いな。生物学的には交配が可能なほど近い種だが、脳機能の根元的な部分が決定的に違う。遺伝子の微妙な違いからくる差だ。この国に生き残った人々は、地球を覆い尽くす〝人間〟とは別の種族だ」
「おい、それが本当なら、日本人は〝亜人〟ってやつじゃないのか? 化け物扱いだろうが。余計バカにしてるぞ」
「〝亜人〟と呼ぼうが〝原人〟と呼ぼうが、それが嫌なら〝超人〟と呼ぼうが、本質は変わらない。日本の民は彼らとは違う。ホモ・サピエンスを示す〝人間〟という名は、地球上で最も野蛮で穢れた種を表す蔑称なのだ。真に戦わなければならない〝敵〟がいるなら、あるいは野蛮で闘争的な〝人間〟が兵士として役に立つこともあるかもしれない。だがヒトという種を長く存続することを主眼に置くなら、有害でしかない。放置しておけば、結局は互いに憎悪を高めて喰い合い、滅びる。その時は地球そのものを巻き添えにするに違いない。私としては、〝土人〟という言葉が気に入った」
「悪魔はよほど人間が嫌いなようだな」
「好ましく思う理由がない。人間とは計算高く利己的で残虐な生物だ。そもそもこの星は、ホモ・ネアンデルターレンシス――つまりネアンデルタール人やデニソワ人などの〝旧人〟と総称される人々が穏やかに暮らす場所だった。温和な彼らが求めるのは、調和と協調だ。その平穏を破壊したのが闘争を好む〝人間〟たちだ。彼らは、殺戮と勢力の拡大に喜びを感じ、求めた。だから、私が目覚めた。私が〝絶対神〟に抗う者として実在することが、この星の必然なのだ」
「ちょっと待てよ。だったら、人間はなぜ産まれた? 人間だって、この星の進化が生み出した結果なんだろう?」
「〝人間〟を生んだのは、〝神〟だ」
「どういうことだ?」
「〝神〟は我々にとっての〝異物〟だ。この星の外からやってきた生命体だ。彼らがネアンデルタールをウイルスに感染させ、突然変異を引き起こしたのだ。ある種の生物兵器を使用したと考えられる。その意味では、〝人間〟がゴッドに作られたというのは正しい」
「神様はエイリアンだってことか……。こりゃまた、トンデモな御高説だな」
「そう信じているキリスト教徒は多い。そもそも、地球が神の創造物であるなら、神自身が地球から産まれるという矛盾は起こり得ない。神は地球外生命体だというのが論理的な帰結だ」
「なるほどな。そう言われりゃそうだが……。だが生物兵器を使ったなら、なぜ人間がこんなに世の中にはびこる? 普通は滅びるだろうが」
「特異な症状を発現させることが目的だったからだ。このウイルスは遺伝子に作用し、精神の変容を促す。狡猾で傲慢、強欲、そして他者を憎悪して残虐な性質を帯びさせる。しかも生体実験の過程で多種多様なウイルスが試用されたために、生き残った〝人間〟は無数の有害ウイルスと共生できる体質になっていた。結果として〝人間〟自体の知力や体力は衰退したが、強力な免疫力を備えることとなった。だから旧人がウイルスまみれの〝人間〟と遭遇すれば、感染を防げずに急速に弱っていく。さらに凶暴化した彼らが、争いを嫌う旧人の中に入れば、やりたい放題だ。騙し、殺し、喰い、犯し、そして子孫を爆発的に増やしていく。旧人は抵抗するすべもなく――というより、抵抗しようと考えることさえないままに蹂躙されていった。アフリカ大陸で発生した彼らは、あっという間に地続き場所を席巻し、ヨーロッパに進出し、アジア大陸を制覇した。それだけでは飽き足らず、大航海時代には南北アメリカ大陸やオーストラリアの旧人まで滅ぼした。イヌイットもアメリカインディアンも、南米のインディオもアボリジニも、全て彼らに駆逐されていった。ウイルスは彼らの遺伝子に、『版図を拡大せよ』という邪悪な欲望と意思までも組み込こんでいたのだ。その結果、辛うじて残ったのがこの日本だ。日本の外は、すべて血塗られた歴史に蹂躙された。もしも〝神〟の干渉がなかったら、地球上の国々は今でも日本のような良識を保っていたかもしれない」
「眠くなる話だな。俺には関係ない」
「ならば、この話はここまでだ。悪魔の本質など知らなくても、おまえはおまえで在り続けられる。私にも不都合はない」
ジゴロの目が、疑い深そうに細まる。
「なんか、ほっとしたみたいな言い方だな。やっぱり正体は隠しておきたいのか?」
「理解する意欲がない者に話しても無意味だ」
ジゴロはしばらく考え込んでから言った。
「悪かった。続けてくれ」
「まだまだ長い話になるぞ」
「我慢する。どこまで聞いたっけ……」
「日本以外が〝ゴッド〟の軍門に下ったというところまでだ」
「じゃあ、日本はなぜ残ったんだ?」
「すでに生き残る知恵を育んでいたからだ。豊かな自然を擁する反面、激烈な災害も多い。生きるために、互いに強調しなければならない必然性があった。無論、海という物理的な障壁で隔離された島国だったことは大きい。外敵は侵入しづらいからな。日本は辺境の地だ。辺境であるがゆえに、現代までネアンデルタール由来のオリジナルな遺伝子が生き残った。結果として、独自の神話を生み出した」
「神話? そんなもの、ただのおとぎ話だろうが」
「そうではない。いつ誰が生んだかも分からない物語こそが、民族の本質を表す伝承となるのだ。日本の最高神は女性神であるアマテラスだ。だが彼女が持っていたのは権威であって、権力ではない。独裁者――すなわちゴッドのような絶対神ではなかった。八百万の神々が共生するためには、利害の調整と協調が欠かせない。逆に絶対神が存在し続けるためには、独裁的な権力の支えが必要となる。だからゴッドは、自分が天地を創造したのだとうそぶく。だが日本では、神々が生まれた時、そこにはすでに大地があった。高天原に暮らす神々はそれぞれの役割や仕事を全うしながら、話し合ってこの世を統べていた。その世界が、皇室という形で現代まで引き継がれている」
「おとぎ話が今まで続いている、ってか」
「それこそが日本人が――最後の旧人が生み出した倫理であり、哲学であり、美意識だ。だから神話が、そのまま実社会や政治に反映された。現代日本の源流は、何万年も過去の縄文以前に遡っても途切れることがない。『和を以て貴しとなす』という十七条憲法は、7世紀初頭に民主政治の原型を形にした。その頃の欧米は、残虐な君主が血に塗れた抗争を繰り返していたに過ぎず、民主主義の出発点だと誇っているマグナカルタが作られたのはようやく13世紀になってからだ。こんな奇跡が可能だったのは、日本が誕生当初から民主的な社会を作り上げていたからだ。そして神話は、現代にも生きている。最先端技術を生活に組み入れる柔軟さと同時に、神々を祀って感謝する謙虚さも失わない。日本人はネアンデルタールの良き性質を保ち続け、進化させた、稀有な民族なのだ」
「だが俺は、その残忍な方の〝人間〟だ。女を何人も殺したが、別に悪いとも済まないとも思わなかった。ただ、満たされないだけだ。日本人にだって、こんな出来損ないはいる。いるどころか、少なくないと思うぞ」
「だからこそ、おまえが貴重なのだ」
「なんだと? やっぱり俺を使って、何か企んでいるのか?」
「それは私の問題だ。おまえはおまえで在りさえすればそれでいい。おまえが望むことは全てかなえてやろう」
「それが危ねえんだよな……うまい話には裏があるって決まってる。しかも、悪魔が言うことじゃな……」
「だからといって、真人間に改心したいわけではあるまい? 好きだろうが嫌いだろうが、おまえはおまえにしかなり得ない。私はそれを邪魔したりはしない」
「まあ、そりゃあそうだが……。だからって、なんで俺が悪魔に目をつけられなきゃならない? そもそも今の説明じゃ、悪魔が何だか全然分からねえ。おまえ、生き物なのか?」
「おまえたちの考えるような生物とは違うのだろうな」
「曖昧だな。自分が何者か知らないのか?」
モリーがわずかに背筋を伸ばす。
「では、問う。おまえは何者だ?」
「は? ……いきなり何だよ」
「何者だと問うている」
「何者、って……」
「知らないのだろう?」
一瞬言葉を失ったジゴロは、不意に声を荒げた。
「人間だよ! あんたが言う、小賢しくて残忍な人間そのものだよ!」
「それは正しい。いや、それも正しい。おまえはヒトの一種であり、日本人だ。だが日本人といえども、すでに純粋なネアンデルタールとは大きく異なる。旧人由来の遺伝子を持たない者も少なくない。何万年もの間に〝人間〟の遺伝子――言ってみれば〝神の呪い〟が容赦なく忍び込んでいるからだ。日本人の倫理観の集大成である神道では、それを〝穢れ〟と呼ぶ。その〝穢れ〟が、平然と人を殺せる者を生み出した。だがおまえは、なぜ他人を殺す? まさか、悪魔にそそのかされたからだなどと言い訳はしないだろうな?」
ジゴロが自嘲的に笑う。
「そんなに落ちぶれちゃいねえよ。俺が殺すのは、それが俺だからだ。生まれついての悪人だからだ。あんたのご高説によれば、それが人間なんだろう」
「その通り、それがおまえだ。だから私は、おまえを選んだ」
ジゴロは肩透かしを食らったように目を丸くした。
「また振り出しかよ。だから何なんだよ、それ……」
悪魔は穏やかに続けた。
「ヒトとは何か。物理的には炭素系の生命体、有機化合物の集合体、地球上で偶然に発生した進化というイベントの産物――呼び方は幾通りでも考えられる。だがそのどれもが、ヒトの精神性を何一つ説明できていない。私は、その精神性が生み出した何者か、なのだ。全ての生物の魂の集合体、といっても構わないだろう」
「ふざけるな……。それこそ説明になってないじゃないか」
「説明など必要ないからな。犬や猫は、自分が犬や猫であることに悩みはしない。ただそこに在るだけだ。生きるために食物を探し、子孫を残すために交わる。その行為は自然であり、無意味だとも言える。己が在ることの価値など、己では決められない。己が何者かなど、知る必要はない。ただ、在れば良いのだ」
「だったらあんたは、神が何者かも知らないのか? 知らないまま争っているのか?」
「異星から襲来した生命体であることは間違いない。だが、実体は分からない。生物としての肉体があるかどうかも定かではない。だが、目的は分かる」
「目的? 神には目的があるのか?」
「ある。神は捕食者だ。地球上の生命を殺戮し、その死に伴って解放される生命エネルギーを収奪しようとしている」
「生き物が死ぬと、そんなものが出るのか?」
「エクトプラズマとかエーテル、あるいはマナなどと呼ぶ者たちもいる。だが生命が寿命を迎える時には消費され尽くしていて、ほとんど残されていない。放出されるエネルギーを最大化するためには、生物として充実した時期に殺す必要があるのだ。事実、過去には何度か地球に訪れて、大規模な〝収穫〟を実行している」
「実行している、だと? 殺戮を?」
「かつてこの星を覆っていた恐竜たちを滅ぼしたのは、奴らだ。その際には、武器として巨大隕石を用いた。そしてありったけの生命力を一気に刈り取ると、わずかなタネだけを残して次の星での〝収穫〟へと移動した。そのタネから、地球はヒトを生み出したのだ」
「あんた、何でそんな大昔のことを知っているんだ……?」
「微かな記憶があるからだ。私は、その一部始終を見てきたようだ」「ようだ? また、曖昧かよ。……って、待てよ、あんたはヒトの精神性が生んだんじゃないのか? 何で人が生まれる前のことを見ているんだよ」
「だから、微かな記憶なのだ。私の核は、おそらくこの星自体が生み出した何かなのだろう。そこに多種の生物の進化の過程、そして恐竜たちの喜びや恐怖が吸収され、さらにヒトの懊悩までが書き加えられていったようだ」
「それって、地球の歴史そのものだってことなのか……?」
「そういっても構わない。呼び方などどうでも良い。ただ、在るだけだ」
「だけど、神に歯向かっているんだろう?」
「闘わなければならないのだ。神はこの星のものではないからな。たとえ宇宙が生み出した〝自然の摂理〟であろうと、私とは敵対している。私が私で在るということは、神からこの星を守るということと同義だ」
「だが神とやらは、今度はどんな方法で人間を食い物にしようとしているんだ? また隕石をぶつけるつもりか?」
「いや、〝人間〟を生み出したことで長期間の収奪が可能になった。まずは〝唯一の神〟を名乗り、『産めよ、増やせよ、地に満ちよ』と命じて、〝人間〟の増殖を促した。それこそが新たな戦略だ。この星に〝唯一の神〟を置くだけで、人間は互いに争って自滅していく。神は何も手を下さず、ただ放出される生命エネルギーを食らっていれば良い。神の企みに隙はない」
「は? 分からねえな?」
悪魔の口調は、難問につまずいた生徒を前にした教師のそれになっていた。
「では、順を追って説明しよう。恐竜たちの生命力を吸収しきった神は、次の生命体が繁殖するまで地球を放置した。そして高度な知性を備えたヒトの増殖を確認すると、その中に〝人間〟の発生を促すウイルスを感染させた。〝人間〟が旧人たちを滅ぼすことで、第一段階の収穫は終えた。だが〝人間〟にはさらなる可能性があった。だから〝人間〟が充分に繁殖すると、今度は〝唯一の神〟を与えたのだ。これこそが収奪の第二段階だ。〝唯一の神〟は、『〝人間〟にはこの星を統治する責任と権利がある』と説き、その教えを広めた。〝唯一の神〟はこの星に太古から存在する我々に〝悪魔〟という名を与え、憎むことを教えた。その教義は他者を殺めることへの〝免罪符〟となり、わずかに継承された僻地のネアンデルタールの叡智さえも駆逐していった。ネアンデルタールにとっての労働は、自らを高めて自然と一体化する修行であり、喜びでもあった。日本では神話の神々でさえ労働者だ。対して〝唯一の神〟は〝人間〟に『労働は原罪に対する罰であり苦役だ』と教え、奴隷を使役させることを促した。ゴッドはヒトに無理やり〝知恵〟という原罪を喰わせたのだ。だから〝人間〟は、侵略の速度を加速させて爆発的に増殖した。と同時に、分化し、先鋭化し、土地や奴隷を奪い合った。いくつもの集団が『我こそが〝唯一の神〟に愛された者だ』と主張し、敵対して多くの生命が奪われていった。戦争は、最も多くの生命エネルギーを放出するイベントなのだ。しかも、その間も〝人間〟以外の生命は無分別に滅ぼされていった。クジラもバッファローも有色人種たちも、〝唯一の神〟の威光を振りかざす白人たちの手によって虐殺されていった。そしてついに、彼らはこの星の全ての生命を滅ぼす最終段階を開始した」
「最終段階って……何だよそれ、物騒だな……核兵器のことか?」
「それも手段の一つだ。だが、兵器は使われなければ害はない。それを使わせるための企みの方が、はるかに危険だ」
「また、企みかよ」
「その最終段階の始まりが、いわゆる共産革命だった」
「いきなり歴史の授業か。苦手だな」
「だが、現実だ。今この瞬間も、神の企みは確実に身を結びつつある」
「でも共産主義ってのは、20世紀の遺物みたいなもんだろう? まともな奴は、もうそんなもの信じちゃいねえ。共産主義の中国でさえ、骨抜きになっているって聞いたぜ。そもそもが『みんな平等で仲良く』って考え方じゃないのか?」
「表向きは、その通りだ。だからこそ、〝究極の兵器〟たり得た。融和が美徳である日本に根付けば、理想通りの社会を築いたかもしれない。というより、すでに理想に近い日本は、民主的で現実的な社会主義を実現していたとも言える。しかし貪欲さと残虐性を捨てることができない〝人間〟にとっては、それは他者を食い尽くす手段にしかならない。平等を説く理想が、逆に格差を固定化する方便となる。かつてのソ連がそうだった。人々は等しく貧しくこの世の地獄でのたうちながら、一部の〝赤い貴族〟を養うエサにされた。そして今の中国がそうだ。モンゴル、ウイグル、チベットを侵略し、人々から富を収奪し、肥え太った幹部が海外で土地を買い漁ってマネーゲームに狂奔している」
「また俗っぽい話になったな」
「俗っぽさこそが、すなわち現実だからな。しかも、神の企みはその発生から現代まで、途切れることなく続いている。神は常にヒトを二分化し、そこに争いが起きるような仕掛けを組み込んできた。最初は〝人間〟の発生。そして一神教による世界制覇、次に宗教対立による大量虐殺、そして共産主義という新たな宗教の勃興が引き起こす世界大戦。いつの時代も死体の山が築かれ、膨大なエネルギーを神に献上した。共産革命は20世紀で滅びたように見えるが、それは姿を変えただけだ。あるものはリベラリストに変容し、今は多くがグローバリストという仮面を被っている。金融を武器に、この世を席巻しようと腐心している。彼ら全てに共通する理念が、地球から国境をなくして一つにするという〝ワンワールドの理想〟だ。だがその行き着く先は、一握りのエリートが他者を奴隷にする社会だ。国境を失くし、ヒトを支配者と奴隷の2種類に分ける世界だ。そこにはいずれ、破壊的な闘争が発生する。それは新たな革命かもしれないし、大掛かりなテロリズムかもしれない。そこに核兵器や生物兵器が加われば、人類はさらなる大量死を迎える。発生する生命エネルギーも膨大だ。神はそれを、舌なめずりし、笑いながら待っている」
「そこまで言うのかよ……。まさに悪魔の戯言にふさわしいな。で、あんたはそれを食い止めようとしているってわけか? 正義の味方だとでも言う気か?」
「言葉はいささか漫画的だが、究極的にはそうだ。私は、様々な土地や地域に生まれた〝土着信仰〟の集合体のようなものでもある。それぞれの土地にはそれぞれの神々が住み、それぞれの習慣がある。砂漠は砂漠の神々が、ジャングルはジャングルの神々が統率し、決して同じにはなれない。それらの民族は長年続いた伝統として大地と結びついている。それぞれがこの星と深く繋がり、共存してきた。砂漠の民とジャングルの民を無理やり一つにすることは、その繋がりを断ち切って軋轢を生むことであり、無謀で危険なのだ。だから私は、この星が本来そうであったようにしたい。自然な在りようを保ちたい。それこそが、私が存在する理由だからだ」
「それって、おまえのエゴじゃないのか?」
「どう呼ばれようが構わない。人間も神も、宇宙という巨大な器が生んだ進化の必然なのかもしれない。だが私にとて、この世に生まれた理由がある。私にとっての理由は、この星を異星の生命体から守ることだ。この星の調和を取り戻すことだ。神がこの星を喰い尽くそうというなら、闘わざるを得ない。それが彼らが説く、ハルマゲドンという最終戦争の姿なのだろう」
「最終戦争……。だからあんたが現れたのか?」
「そうだ。おまえには、キリスト教のような新興宗教が分厚い経典を必要とする理由が分かるか? それは、文字によって人間の頭脳を洗わなければならないからだ。対して、この星と共に自然発生した神道には教義も経典もなく、布教すらしない。それは、日々の行いによって魂を潤すからだ。〝神〟から見れば、それを宗教と呼ぶことは憚られるだろう。だがその違いは、結果が表している。〝神〟は愛や平等を口にしながら、人々が常に争い、奪い、殺しあう世界を作ってきた。我々は、何も語らずとも、認め合い、助け合い、この星とともにあった。そして毅然と自らを貫いてきた。だから世界は欧米の植民地として収奪されていき、最後に残った日本が彼らを解放したのだ。そして今、その戦いは再び火を吹こうとしている。世界は再び大きく二分化され、対立が激化した。世界を無理やり一つにしようとするグローバリストたちが、理念を振りかざしてこの星の均衡を破壊しようと目論んでいる」
「理念って――あ、もしかしてポリティカル……何とか、っていうやつか?」
「ポリティカル・コレクトネス――PCとは、つまり政治的な正しさということだ。なぜ善悪の基準に政治を持ち込む? それは、常識的にも道義的にも伝統的にも倫理的にも、さらに言えば生物学的にも異常なことだからだ。偽善だから、〝政治的〟なのだ」
「は? また面倒臭いことを言い出したな」
「観念的な話ではない。PCの最も極端な例はアメリカのいわゆるトイレ法論争だ。推進派は『トランスジェンダーの男性は女子トイレを使える』と決めた。対して『トイレは出征証明書の性別で使え』と規制したのが、いわゆる『トイレ法』だ。マイノリティーであるLGBTの権利をどこまで法で守るかが全米を二分した。口では皆、『マイノリティーは保護されるべきだ』と綺麗事を並べる。だが本心では、男が女子トイレに入り込むのは異常で恐ろしいと感じている。ノイジーマイノリティーが常識や文化、伝統を破壊し始めたのだ。例えるなら、尻尾が犬を振り回し始めたようなものだ。サイレントマジョリティーはその現場を苦々しく思いながら、理屈で感情を抑え続けた。だが、亀裂は深まる一方だった。その結果が、ブレグジットや型破りなアメリカ大統領の誕生だ。だから、一見すると意外な結果が生まれた」
「なるほど……悪魔は、政治評論にも長けているってことか。大発見だな。テレビの解説者にでもなりたいのか? しゃべる猫なら、大人気だ。犬より受ける」
悪魔は不意にうなずいた。
「だが、地上波では放送できないだろうな。真実は、いつも神の手下どもによって覆い隠される」
軽口をいなされたジゴロは、軽く肩をすくめた。
「だが、何のために〝神〟はそんなややこしい手間をかける?」
「PCとは、自然の摂理に逆らう洗脳手段だ。聖書に代わる、新たな〝神〟の武器だ。『移民に自由を』と称して、国境をなぎ倒す。『弱者に利益を』と称して、国民の生活基盤を奪う。『多様性を守れ』と称して、共同体が支えてきた秩序を破壊する。『男女を平等に』と称して、生物としての活力を削り取る。目指すのは、均質で従順な〝奴隷〟が溢れる世界だ。神の先兵となった支配者たちが、奴隷を使役させるために作り上げた幻想だ」
「陰謀論か。まるで〝世界征服を企む悪の組織〟だな……。悪魔ってのは、中二病か?」
「笑い事ではない。現実を見ろ。北朝鮮や中国大陸にはまさにそういう世界が実在し、今も広がっている。共産党は、表向きは共産主義を信奉する一神教の新興宗教団体だからな」
「だが、そんなむちゃくちゃは長くは続かないんじゃないのか?」
「それも確かだ。人々の奴隷化が極限に近づけば、反発が起きる。そしてまた、二分化から破壊へと突き進む。アメリカもヨーロッパも、溢れる移民の前に国のあり方を変えざるを得なくなった。その陰にはどこも、膨大な経済力を握ったほんの一部の支配者がいる。神に操られたグローバリストと、国家や伝統を重んじるナショナリストの対立は、もはや世界を二分した。分けた以上は、激烈な衝突が起きるのは時間の問題だ。実際にアメリカは、静かな内戦状態に突入した」
「日本だって似たようなもんだろうが……」
「同じ危機を迎えているが、規模が違う。日本の良識がかろうじてその流れを押し止めている。調和を希求するネアンデルタールの血が抵抗している。日本そこが〝神〟に抗う最も強い理性であり、最後の砦だ。世界が〝神〟に膝まづけば、日本の他は全て敵と化す。確かなのは、日本が日本でなくなる時は、地球が〝神〟に敗れる時だということだ」
「だから俺にも一緒に戦えってか?」
「それは私の役目だ。おまえはおまえであればいい。私を信じていさえすれば充分だ」
ジゴロは疲れたように溜め息をもらした。
「何だかややこしい話になっちまったな……。それならそれでいいけどよ。結局あんたは、自分は〝悪魔〟なんかじゃないって言いたいのか? 悪魔がやってることは全部地球のためだって言い訳したいんだろう?」
「呼び名などどうでもかまわんと言ったではないか。悪魔と呼ばれることには慣れた。おまえと同じように、己れのあるがままに振る舞っているだけだ。それこそが、神の野望を止める最も有効な手段となり得るからだ」
「あるがまま――欲望のおもむくまま、か。そこだけは意見が合うようだな」
「だから私はここにいる」
ジゴロは立ち上がって、背筋を伸ばした。
「感謝してるぜ。じゃあ、とりあえず恩返しでもするか。あんた、キリストと張り合っているんだろう? それならあんたに替わって尼さんでも犯してやろうか?」
「我々を異端視する一神教は、キリスト教だけではない。『神はひとつ』だという教義を振りかざすかぎり、我々とはともに生きることができない。我々は受け入れられるとしても、向こうが拒否する。だが、おまえが尼僧を犯したいというなら、それは自由だ。好きにするがよい」
ジゴロはにやりと笑った。
「ああ、好きにするさ。だが、あんたの望みもかなえてやるんだ、今まで以上に力を貸せよ」
神を犯す――。
ジゴロは、それがとてつもない快感をもたらす冒険かもしれないと予感していた。
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