ジゴロは両手を女子大生の首から離した。相手の身体はぐったりと力を失っている。

 死――。

 それが悪魔と折り合いをつけてから四人目だった。もはや見慣れた光景だ。

 だがやはり、ジゴロの下腹部に快感はわき上がらなかった。

〝なぜだ……? たっぷり可愛がってから、殺したのに……〟

 クラブで拾った女子大生は、札束を見せなくともジゴロの言いなりになった。

 金のために年増女を抱く必要がなくなっても、女心をくすぐるテクニックが衰えたわけではない。しかも今のジゴロには、天賦の才能に金と悪魔の力が加わっている。

 ジゴロがモノにできない女は皆無に等しかった。

 だからジゴロは、抱き心地のよさそうな娘をじっくりと物色してきたのだ。百人を越える女の中からジゴロがその娘を選んだのは、ぴんと上がった小振りな尻のラインが気に入ったからだ。

 ホテルに入って一時間を過ぎた頃、娘は四度目に昇りつめて気を失った。だがジゴロは、その程度の快感では満足できなかった。脳髄を揺さぶる高まりを期待して娘の首に手をかけたのは、あらかじめ予定していたことだった。

 しかし――。

「どうしちまったんだ、俺は……」

〝普通のセックス〟をしている最中は、今度こそうまくいくという予感があった。なのにその期待はまたしても裏切られた。

「体質が変わっちまったのか……それとも……」

 考えたくない可能性だった。だが、他に解釈のしようはない。

 殺人に慣れてしまったのだ。

 一晩ベッドを共にしただけの娘を殺した程度の刺激では、もはや脳が反応しなくなっている……。

 それは、さらに恐ろしい現実をジゴロに突きつけた。

〝あの快感〟をもう一度得るには〝愛する女〟を殺さなくてはならないのだ。そのためには、まず女を愛することが必要だ。

 だが、『セールスウーマン』の他に、ジゴロは女を愛したことがない。愛し方も知らない。

 願いをかなえるためには、ジゴロは〝愛〟を学ばなければならなかった。

〝こんなばかな……。せっかく悪魔の力を手に入れたって、何の役にも立たないじゃねえか……〟

 激しい焦燥感がジゴロを襲った。

 金は無尽蔵にある。望む女はいつでも手に入る。なのに、気が狂いそうに焦がれている〝快感〟には、決して手が届かない――。

 そしてジゴロは悟った。

〝そうか……これが悪魔の仕掛けた罠か……〟

 ジゴロは悪魔が何の代償も求めずに人間に力を貸すことに、ずっと疑問を感じていたのだ。しかし今、その謎は解けた。

〝悪魔は、俺を蟻地獄のようなジレンマに叩き落として、こうやってもがく苦しむ姿を見て笑っていやがるんだ。くそ、ならば俺だって……。悪魔なんぞにもてあそばれてたまるか。何が何でもあいつの鼻を明かしてやる。心から愛せる女を探しだして、そいつを叩き殺すんだ。絶対にあの快感をもう一度手に入れてやる!〟

 ジゴロは死んだ娘には目もくれずに服を着て、深夜の繁華街に出た。

 ホテルに残した指紋は拭いていないし、自分が娘を抱いた痕跡も消そうとはしなかった。交番に自分の顔が指名手配の写真として貼られていることも知っている。

 それでもジゴロは胸を張って人込みの中を歩いていた。

 後始末は悪魔がしてくれる――。

 その点では、悪魔の約束を完全に信じていた。少なくとも、これまでは裏切られたことはない。数日前に殺した娘も新聞記事にはならず、警察が身辺を嗅ぎ回っている気配もまったく感じられなかった。

 これまでは――。

 が、その日は違った。

 ジゴロは背中に誰かの視線が突き刺さったのを意識した。緊張と興奮が入り交じった視線――。

 気のせいではない。肌身離さず身につけている『悪魔の財布』が、ジゴロの第六感を鋭く研ぎ澄ませた結果だ。 

〝まさか……尾行されているだと? 悪魔め、とうとう俺を見捨てたのか⁉〟

 ジゴロは振り返らずに、ポケットの中の財布に手を触れた。

 財布の力を借りて、周囲の人間たちの心を読む方法は完全に身につけている。ジゴロはむせ返るほどの極彩色のネオンに照らされた人波を肩でかき分けながら、意識を背後に向けた。視線の主を探索する。

 声が聞こえた。

〝手配写真の男にそっくりだ……〟

 相手は私服の刑事だ。ジゴロの脳には、手のひらに隠し持った写真をのぞきながら自分を追ってくる殺人事件担当の刑事の姿がはっきりと映っていた。

〝やばい……一課かよ……〟

 刑事は急に歩くスピードを上げ、ジゴロを追い越した。さり気なく振り向く。

 ぴたりと目が合うと、刑事の声が聞こえた。

〝まちがいなさそうだな。職務質問を――〟

 ジゴロは、刑事と向かい合って立ち止まった。その脇を、酔ったサラリーマンの集団が下品な笑い声を上げながら通り過ぎていく。

 ジゴロは財布を握りしめ、刑事の目を真正面から見つめた。

〝自信を持て。今の俺は、悪魔なんだ〟

「あの、なにかご用ですか?」

 先手を打たれた刑事が、一瞬うろたえて思念を漏らす。

〝動揺していないな……人違いか……?〟

 しかし刑事は、自分の直感を信じてもいた。ポケットの中の警察手帳に手をかける。

「私はこういう者ですが――」

 手帳が出される前に、ジゴロは心の中で念じていた。

〝忘れろ〟

 刑事はぽっかりと唇を開いた。

〝あれ……? 俺はこの男に何をしようとしてたんだっけ?〟

 ジゴロは内心で安堵の溜め息をもらした。

〝悪魔の力はまだ消えちゃいないか〟

 そしてジゴロは言った。

「あの、ご用件は?」

 刑事は照れ臭そうに頭に手をやった。

「いや、すみません。どうも人違いだったようで……」

 刑事はそそくさとサラリーマンたちの流れにまぎれて消えた。後にはジゴロの顔を映した小さな写真が一枚落ちていた。

 ジゴロは財布を離して写真を拾うと、握りつぶしてつぶやいた。

「財布の力は消えてない。こんなに簡単に人の心が操れるなら、恐いものなんかありゃあしねえ。だが、それなら悪魔はまだ俺の味方なのか? 奴め、いったい何がしたいんだよ……?」

 ジゴロは立ち尽くしたまま考えた。

〝財布が使えるからって、悪魔を信じるわけにはいかないか。俺を罠にかけようとしているのかもしれない。サツが『連続殺人犯』を追っていることも間違いない。女を殺すのは、当分控えなきゃならねえかな……〟

 が、そう思った瞬間、ジゴロの目の前に若い女が飛び出してきた。ぼんやり立ち止まっていたジゴロに肩でぶつかった女は、きつい目つきで言った。

「あんた、邪魔よ」

 だが、目が合ったとたんに女の態度が変わる。ジゴロは、女が自分の〝匂い〟に引きつけられたことを見抜いた。

 ジゴロは女の胸を見つめた。トロピカルパターンの挑発的なワンピースの奥に、豊かな乳房が形よく突き出している。

〝好みだな。もう一度試すか……〟

「君、暇?」

 女は身体をくねらせてにやりと笑った。

「暇だったら?」

「つき合えよ」

 女は笑いを広げた。

「いいことあるの?」

「気持ちいいことが好きなら、な」

「自信ありそうね」

「たいていの女は三回いくぜ」

 女はジゴロに腕をからませて乳房を押しつけた。

「面白そうじゃん。お金、あるんでしょう?」

「おまえ、商売してんのか?」

「バイトよ、暇つぶしの。でも、期待は裏切らないわよ」

「自信がありそうだな」

「たいていの男は三回いくもん」

 が、ジゴロの胸に不安がよぎる。

〝だけど、こいつでもだめだったら、どうしよう……〟

 と、女の腕が離れた。

 ふと気づくと、ジゴロたちは二人の男に挟まれていた。

 女は彼らに言った。

「なによ、あんたたち」

 髭づらの中年男が凄味をきかせた。

「姉さんには関係ねえ。消えな」

 男が発する厳しい空気におびえた女は、何も言わずに立ち去った。

 ジゴロは二人の男に両側から腕を捕まれた。

「おい、何するんだ!」

 一人は、さっき追い払ったばかりの私服刑事だ。髭づらは部下のようだ。

 ジゴロの不安が高まった。

「まだ何か用があるのか……?」

 私服刑事はていねいに言った。

「ちょっとお話しをおうかがいしたいもので。すみませんが、そこの交番にご同行していただきます」

 言葉つきは穏やかだったが、有無を言わせない自信が満ちていた。二人の刑事からは獲物を捕らえた興奮が発散されている。

〝ちくしょう、何だって……。財布の効き目はこんなに簡単に切れちまうのか?〟財布から手が離れていて、相手の心は正確には読めない。〝財布を……〟

 ジゴロはポケットの奥に手を入れようとしたが、二人に腕を引きずられて指先も届かない。

〝まずい! このままじゃぶち込まれちまう!〟

 二人の刑事に捕らえられてもがくジゴロは、周囲を取り巻く酔っ払いたちの好奇の目を集め始めていた。

 これ以上人の記憶に残る行動を取れば、指名手配の写真に気づく者も増える。たとえ悪魔の力に守られていても、目撃者の数が増えれば防御しきれなくなる恐れがある。事実こうして、ちょっと気を緩めただけで刑事に捕らえられてしまった。交番に入るまでは抵抗できなかった。

 ジゴロは警官の指示におとなしく従った。

〝びびるんじゃねえ……隙を見て逃げ出せばいいんだ……〟

 刑事は交番に入るなり、きょとんと顔をあげた若い警官に警察手帳を見せた。

「すまないが、ちょっと奥を貸してほしい。この方のお話しをうかがいたいんだ」

 若い警官は緊張したように席を立ってうなずいた。

「どうぞ……重要事件の参考人ですか?」

 刑事はにやりと笑った。

「君、この方の顔の覚えはないか?」

「ええ……。え? あ、あれ⁉ まさか、指名手配の連続殺人犯……?」

 刑事は自分の唇に、立てた人差し指をつけた。

「うかつな発言はつつしみたまえ。まだ単なる参考人だ。結論はお話をうかがってから、だ」

 そう言って指を離した刑事の唇に、勝利を確信した笑みが残った。

 ジゴロは茫然と成り行きを見守るばかりだった。

〝ばかな……守られているはずなのに……〟と、指が財布に届いていたことに気づいた。悪魔にすがる他はない。〝みんな忘れろ!〟

 ジゴロの腕を掴んでいた刑事が不意に手を放してつぶやいた。

「あれ?」

 警官たちの視線がジゴロに集まる。

「あなたは?」

 ジゴロは肩をすくめた。

「用があるといって連れて来られたんですが? 何でしょう?」

 私服刑事が首をひねった。

「あれ、何だって交番にいるんだ……?」

 ジゴロは言った。

「用がないなら帰ります」

 外に出たジゴロは交番から見えなくなるまで、財布を握りしめてつぶやき続けた。

「忘れろ、忘れろ、忘れろ……」

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