第三章・ジゴロの恋
1
スマホでネットニュースを開いた途端、見出しが目に飛び込んだ。
『非番警官が一人暮らしの女性を殺害』
それは、死刑の恐怖から開放された瞬間だった。
〝助かった……。俺が二人を殺したこと、サツにはばれていなかったんだ……。それなら、女たちを殺したことも知られていないはずだ〟
ジゴロは、心の底から安堵の溜め息をもらした。
だがジゴロは、自分がセールスウーマンたちを殺したことを〝覚えて〟いたわけではなかった。警察の追求を恐れていたのは、全ての状況が自分が手を下したことを示していたからにすぎない。
嫉妬に駆られてセールスウーマンの首を絞め上げたことはかろうじて記憶していた。痙攣する柔らかい肌の温かさも指に残っている。
だが、ジゴロの記憶はその先でぷっつりと途絶えていた。
彼の記憶回路は、セールスウーマンが嬉々として警官のGパンを脱がしているのを見た瞬間にショートした。我に返った時には、自分の部屋のベッドでひざを抱えて震えていたのだ。どうやってマンションに戻ってきたかも覚えていない。
しかも、異様な快感のなごりが下腹部によどんでいた。桁外れに蠱惑的な体験をしたことは間違い。
それが最愛の女を殺したことを確信した最大の理由だった。
〝二人とも殺しちまったんだ……。俺はあいつとやりながら……。きっと俺はあいつを殺して……殺しながら……〟セールスウーマンの肌触りを思い出したとたん、かすかに涙がにじんだ。〝涙だと? なぜ、この俺が? あんなババアを愛していたわけでもねえのに……。そうさ、あんな淫乱、街には掃いて捨てるほど転がっている。なんであんな女に……〟
しかし、心の奥に開いた空白は、そう言い聞かせたところで埋まらない。
そしてジゴロは夜が明けるまでベッドで震え続けた。
唯一心を許せる友人であり、〝女〟でもある、白い猫を胸に抱きしめながら――。
半日以上何も食べていなかったが、空腹も感じない。スマホに手を伸ばしたのは、ニュースを確認しなければならないと気づいたからだ。
むさぼり読んだ記事には、事件の経過が簡潔に記されていた。
『女性の部屋に押し入った警官が首を絞め、逆に灰皿で殴られたために共倒れとなったものと思われる――』
〝そりゃあ、そう書くしかねえだろう。俺があの部屋にいたって証拠が残っていたなら、とっくに捕まってるもんな。だが……話がうますぎる……。あんな状況で二人が共倒れだと……? 俺は指紋だって拭いてきてないはずだ。なにも覚えてないのに、そんなややこしいことをしてきたはずがない。……ってことは⁉〟
警察が意図して情報を隠している恐れは高かった。
あわてて腰を上げた。
「こんなところでぐずぐずしてられねえ! でも……そうは言っても……どこに逃げりゃあいいんだ?」
心細げにつぶやいたジゴロは、再びフローリングの床に座り込んでしまった。
ベッドから飛び降りた猫がすり寄る。真っ白な猫はジゴロのひざに這い上がり、腹を見せて丸くなった。
ジゴロはじっと猫を見つめて、柔らかい毛をなでた。次第に動揺がおさまっていく。
「モリーだけだな、味方は……。おい、そんな目で見るなよ。どこに逃げるにしたって、おまえを置いてはいかないから」
猫はジゴロの手のひらを軽く噛んで、喉を鳴らした。食事をねだるサインだ。絹のような手触りのしっぽが、ジゴロの手首にからみつく。
モリーは、遊び半分に街でひっかけた小娘が拾った猫だった。
その夜ジゴロは、金目当てに抱くしなびた年増女に飽き、張りのある肌を求めて〝狩り〟にでかけた。子猫は、娘の部屋へ向かう途中の路地裏のゴミ缶で震えていた。
『この猫、私みたい……』
ジゴロはそう言った娘を、腹の中で笑った。
〝陳腐なセリフだな。安っぽいドラマで覚えたのか? たかが高校生が苦労人を気取るんじゃねえ〟
だがジゴロが求めていたのは娘の新鮮な身体だ。迷わず子猫を抱き上げた娘の歓心を買うために、彼はコンビニでキャットフードを探した。
最初モリーは、モーリスと呼ばれていた。その時に買ったキャットフードのパッケージに印刷されていたキャラクターから取った名だ。ジゴロにとってはすべてが気まぐれのジョークにすぎなかった。
だがジゴロはモリーに〝恋〟をした。人の温かさを求めてすり寄るだけの子猫が、人間の女には動かされたことのないジゴロの心をいともたやすくとろかしてしまった。
以来モリーはジゴロの部屋に住み、メス猫にふさわしい名を与えられた。それ以後モリーは、部屋から一歩も出たことはない。
ジゴロはもう、その夜に抱いた娘の名は覚えていなかった。名前など尋ねてなかったかもしれない。
ひざに居座った猫を軽く押してどけると、ジゴロは立ち上がった。冷蔵庫から食べかけの猫缶を出して、床に置いてある皿に中身をあける。
モリーは悠然と皿に歩み寄った。
ジゴロはもう一度溜め息をもらしてから、あえて大きな声で言った。
「くよくよしてても始まらねえ。まずは、シャワーだ」
昨日は服も脱がずにベッドに入った。身体中がべたべたと油っぽい。
と、尻のポケットにごわごわした感触を感じた。
ジゴロはポケットに手をやった。
〝財布……? 誰のだろう……まさか⁉〟
長財布を取り出したジゴロは、息を呑んだ。
セールスウーマンの部屋にあったはずの『悪魔の財布』――。無意識のうちに奪ってきたらしい。
ジゴロは財布を開こうとした。指が止まる。
胸が高鳴り、激しく手が震えた。
〝ば、ばか……なに欲を出してるんだ。金なんか入っているはずがねえだろうが……〟だが、財布を開くと金はあった。百万円ほどの札束が。〝嘘だろう⁉〟
ジゴロは再び座り込み、札束を出して床に置いた。財布の中にはまた金が現われている。それを出して重ねる。まだ財布は空にならない。何度も繰り返すうちに、札束の高さは十センチほどにもなった。
食事を終えたモリーが、またジゴロのひざに乗って丸い目で彼を見上げる。
ジゴロはモリーを見返してつぶやいた。
「おい……とんでもねえことになっちまった。どうやら俺、悪魔に惚れられちまったらしい……」
〝悪魔の財布を自由に使う〟という念願がかなったのだ。その時ジゴロは、喜びよりも畏れに心をしびれさせていた。
と、じっとジゴロを見上げていた猫がしゃべった。
「その通り。おまえは私の下僕だ」
「わ!」
肝をつぶしたジゴロは猫をはねのけて、尻をついたまま後ろにずり下がった。
「モ、モリー……お、おまえ……」
モリーはゆっくりと伸びをしてから、ジゴロの腹に飛び上がった。恐怖に目を見開くジゴロのあごに、ひんやりとした鼻を押しつける。
そして、言った。
「そう、私は悪魔だ。私は猫にとて取り憑ける。そして、おまえの願いをかなえる。その財布はおまえのものだ。好きに使うがよい」
ジゴロはさらに目前に迫るモリーのグリーンの目を見つめながらつぶやいた。
「そんな……ばかな……」
「なぜ信じない? この財布から本物の金が出ることは知っているはずだ」
「で、でも、なんで悪魔が俺のところに……?」
「もちろん、おまえが気に入ったからだ。私は、気に入った人間の願いをかなえる」
「だって……悪魔って、その代わりに魂を奪ったりするんだろう? だからあいつは、俺の手で殺されちまったんだろう? あんた、今度は俺を殺す気か? それとも他に目的が……?」
悪魔はかすかな笑い声を漏らしたようだった。
「目的などない。ただおまえを助けたいだけだ」
「助ける? 何のために? そうか……俺に何かをやらせたいんだろう? でなければ、こんな財布を持ってくるはずがない……」
「おまえは何も変わらなくてよい。これまでのように、思うがままに正直に過ごせ。女を犯そうが人を殺そうが、おまえは私が守る。おまえは私の分身として、この世で悪魔の力を存分に振るえ」
ジゴロは気づいた。
「なるほど……だからあの殺しは、警官が犯人だってことになったのか……。あんたが俺を助けるために証拠を消したんだな?」
「人間どもの目を曇らせることなど、たやすい。だから、これからもおまえは何も心配する必要はない」
「でも、なんで俺なんだ……? なぜ選ばれた?」
「おまえの生きざまが、悪魔そのものだからだ。己れの快楽にために女を犯し、金を奪い、最後には殺す。しかし女もまた、息絶える瞬間にこの世で最高の快楽を分かち合う。これこそ真の愛だ。おまえは生まれながらに悪魔の下僕となる優れた資質を持っていたのだ」
不意にジゴロの頭に、セールスウーマンと共に味わった、底なしの湖のように透明で深い悦楽の記憶が蘇った。
選択はすでになされていた。
快感と引き替えに女たちを殺し始めた時に、ジゴロは悪魔に魂を売ったのだ。
それに気づいたとたん、ジゴロのおびえは消え去った。
〝何のことはない、俺は最初から悪魔だったんだ……〟
悪魔は答えた。
「頼もしい男だ」
ジゴロの目に計算高い光がよみがえった。
「誉めてるつもりか?」
モリーが大きな口の両端をわずかに上げて〝笑った〟。
「おまえは私が操らなくとも、充分に悪魔だ。これまでも、これからも」
ジゴロも笑った。
「つまり、あんたはこの世の人間たちが血まみれになりさえすれば楽しんでいられるわけか」
「当たってはいないが、外れているともいえない」
「心強い味方だな。よろしくバックアップを頼むぜ、ミスター・サタン」
「あえて名付けるなら、ルシファーと呼んでほしい」
「どう違う?」
「夜明けをもたらす者でありたいからだ」
「よくわかんねえが、ま、そうしたいならそうしてやるよ」
モリーとジゴロは笑い合った。
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