しかし、作家は死ななかった。

 妻が包丁を引き抜く。激しい痛みに、作家の口から悲鳴がもれた。なのに血が流れない。痛みは続くのに、意識ははっきりしている……。

 作家は傷口を見下ろしながら茫然とつぶやいた。

「な……なんだ……どうしたんだ……? 僕はただの人間なのに……?」

 妻はうろたえる作家を再び切りつけた。

「死ね! 死ね! 死ね!」

 刺されるたびに作家の痛みは増えていく。

 それでも作家は死ねなかった。

「やめてくれ……痛いよ……早く殺してくれ……助けて……」

 その時、セールスウーマンの死体がむっくりと上体を起こした。えぐられた乳房から血をしたたらせながら、立ち上がる。

 妻が振り上げた包丁を止めた。

「あら? 生きてたの?」

 全裸のセールスウーマンは作家を見て笑った。

 セールスウーマンの口から出たのは男の声だった。

「おまえは今、私の血を口に入れた。これでおまえは〝不死の生命〟を得たのだ」

 それは、作家が五年前に聞いた、悪魔の声だった――。

 作家は絶叫した。

「あんた! 悪魔だったのか⁉」

「この女の身体は借り物にすぎん。私が操っていたのだ。女は記憶をなくして、すぐに蘇る」

「あんた……なんのために……」

「私はおまえの願いをかなえた。その代償を、今、受け取りに来た」

「代償……⁉ いいとも! 持っていってくれ! 僕の命を奪え!」

 悪魔が乗り移ったセールスウーマンはにやりと笑った。

「命など要らん。おまえは、もう死ねない。だから、おまえの妻も死なない。おまえたちは永遠に愛し合うのだ」

「まさか……」

 悪魔が片手を上げた。作家の財布が宙に飛び上がり、その手に吸いつく。

「おまえたちにはもう、金など必要ない。飢えようが、病もうが、不死身だ。この世が果てても、二人で愛し合い続けるのだ」

 妻は我に返り、悪魔に向かってふんと鼻を鳴らした。そして、再び作家に包丁を突き刺し始める……。

「なにさ、こんな男なんか。殺してやる、殺してやる」

 抵抗する気力も失った作家はぼんやりと立ち尽くし、眼球を貫かれながら泣いた。

「これが、愛か……?」

 悪魔が乗り移ったセールスウーマンは、微笑みながらうなずいた。

「おまえが望んだ、愛だ。愛と憎しみは、コインの表と裏。愛されることを憎め。憎まれることを愛せ。そうして、永遠に私を楽しませるのだ」

 そう命じると、セールスウーマンは高らかな笑い声を後に残してかき消えた。

 作家は喉をえぐられながらつぶやいた。

「僕は……やっぱり……何をやっても……不器用なんだな……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る