第二章・セールスウーマンの恋

〝私って、どうしてあんなろくでなしから離れられないんだろう……〟セールスウーマンはマンションへの帰り道でふと立ち止まった。重苦しい溜め息がもれる。〝一日中セールスに走り回ったって、稼いだお金はみんな持っていかれちゃうのに……。あいつの心が分かればいいのにな……。でもあいつの心が分かったって、つなぎ止めておけるお金がなけりゃ、意味ないか……〟

 セールスウーマンはレンガの歩道に落としていた視線を上げた。

 ビルの谷間の小さな公園で、数人の子供が遊びほうけている。母親たちはひと固まりになって世間話に熱中していた。彼女たちがたてるけたたましい笑い声は、子供の歓声より音量が勝っている。

〝できる女〟を気取っていた数年前のセールスウーマンにとっては、唾棄すべき光景だった。

 だが、日々の重荷に精神力をすり減らす今では、何事にも揺らがない〝おばさん〟たちのふてぶてしさがたまらなく羨ましい。

 また溜め息がもれた。

〝自分が何をしていたか思い出せないなんて、働きすぎも重傷よね……。疲れてるだけじゃないのかも。精神病の兆候だったらどうしよう……〟

 自分の精神が崖っぷちに追い詰められていることは、しばらく前から感じていた。

 新たな販路を開拓するべく、郊外の新興住宅地を狙ってセールスに出向いたのは早朝だった。昼すぎまでにそこそこの成果を上げたことは覚えている。しかし次に意識が戻ったのは、帰りの電車に乗り込む駅だったのだ。

 はっと気づいて時計を見ると、約三時間の記憶がすっぽりと欠け落ちていた。

〝やっぱりお医者さんに相談した方がいいかしら……〟

〝やり手〟と評価されていた、かつて上司だった営業所長の転落が思い出された。

 所長は本社からの厳しいノルマにいつの間にか精神をむしばまれ、一時的に記憶を喪失したのだ。周囲は単なる悪ふざけとしか見なかったが、本人はほんの数時間の記憶の欠落によって完全に自制心を失った。自分の神経がそれほどもろかったという現実に打ちのめされてしまったのだ。

 所長はその日のうちに山手線の線路に飛び込み、両足まで失う結果になった。

 この事件でセールスウーマンは『企業』の冷酷さを悟り、生き方を変えようと決断した。なのに、ちょうどその頃につき合いはじめた男が、仕事の手を抜くことを許さなかった。

 男はいつも金を必要としていたのだ。

〝なんであんな男に……。身体さえ許さなかったら……〟

 セールスウーマンは、そう考えただけで下腹部から熱いうずきが這い上がってくるのを感じた。しかもそれは、まぎれもない喜びだった。その男の愛し方は、それまでに経験した平凡な性とは全く別の次元にあったのだ。

 頭では、男が遊び人にすぎず、自分はキャッシュカード代わりでしかないことが分かっている。それどころか、『俺はジゴロなんだ』と平然と口にする男の無神経さに歯を食いしばって耐えている。

 なのに一度味わった〝極限の快感〟を失う恐れが、自分を仕事に追い立ててしまうのだ。麻薬にも似た快楽を味わい続けるには、常に男を引き寄せられるだけの現金を用意しておかなければならなかった。

 セールスウーマンにとってその快感は、すでに〝愛〟以上の重みを持っていたのだ。

 セールスウーマンは口に出してつぶやいた。

「ばかよね……女なんて……」

 と、公園の入り口から一人の少年がサッカーボールを追って飛び出した。少年はセールスウーマンにぶつかった。

 ふらついたセールスウーマンは化粧品のサンプルを詰めた金属トランクを歩道に落とした。

「こら! 気をつけなさい!」

 セールスウーマンに怒鳴られた少年は、ボールを捕まえて公園に戻りながら言った。

「ごめんよ、おばさん!」

「おばさんですって⁉」

 まだ三十二よ――と続けようとして、セールスウーマンは口ごもった。

〝もう、三十二なんだ……〟

 充分におばさん呼ばわりされる歳だ。疲れきった今は、自分が六十二才にも思える。

 セールスウーマンは、またも溜め息をもらしてトランクを取り上げた。落とした衝撃で止め金が外れたらしく、いきなり蓋が開いて中身が歩道に撒き散らされる。

〝やだ……ついてないな……〟

 しゃがみこんでサンプルを拾い集めようとした時、トランクの中に残ったものが目に入った。

 思わず叫んだ。

「何よ、これ⁉」

 札束だった。

 ざっと見たところ、一千万円に近い厚みがある。

 セールスウーマンはあわてて蓋を閉じた。あたりを見渡す。相変わらず公園から子供と母親たちのはしゃぎ声が聞こえるが、歩道に人通りはなかった。

 セールスウーマンはもう一度ゆっくりと蓋を開いて札束にさわった。ひざが震えているのが分かった。

〝本物のお札よね……。どうしたのかしら私、こんな大金……〟

 そして、トランクの中にもうひとつ見知らぬものが入っていることに気づいた。

 黒い革の長財布――。

 男物のようだ。

 セールスウーマンはそっとトランクに手を入れて、外から見えないように注意して長財布を開いた。やはり中に分厚い札束が入っている。息を殺して札束を取り出すと――長財布の中には、すぐにまた同じぐらいの札束が現われた。それも取り出すと、また金が湧き出してくる。

〝うそ……⁉ な、なんなのよ、これ……なんなのよ……〟

 トランクの札束はたちまち三倍ほどにふくれ上がってしまった。

 セールスウーマンは手を休め、茫然と長財布を見つめた。

 と、唐突に耳元で声がした。

「手伝いましょう」

「わっ!」

 セールスウーマンは尻餅をつき、声の主を見上げた。

 若い制服警官だった。

 警官はセールスウーマンに笑いかけた。

「お困りでしょう?」

「え? ああ、これですか? おかまいなく、自分で集めますから……」

 セールスウーマンは両手で長財布を抱きしめたまま、引きつった愛想笑いを返した。

 歩道に散った化粧品を集めようと、レンガ道に膝をついて座り直す。右手は道に転がったサンプルの小瓶を集めているが、左手には長財布が握りしめられたままだった。

 警官が手伝おうとかがみ込んだ。

「あ、いえ、自分で」

「でも」

「ありがとう。でも、いいんです。恥ずかしいから……」

 セールスウーマンの強ばった態度に、警官の目つきが変わった。視線が、セールスウーマンが隠そうとした財布に止まる。

「ちょっと、その財布を見せていただけますか?」

 言葉は丁寧だったが、明らかな命令だった。セールスウーマンは警官にトランクの中身を見られないように身体でさえぎりながら、再び長財布を胸に抱え込んだ。

〝やだ! こんな大金を見られたら、強盗だと思われちゃう! このお財布、男物だし……〟

 警官の疑いが強まったことが、緊張した口調にあらわれた。

「何か不都合がおありですか? あなたの物ではないんですか?」

「いいえ……主人の……」

「ならば、ちょっとだけ見せていただいてもかまわんでしょう? それとも、交番に来ていただきましょうか?」

 もう拒否することはできなかった。

 セールスウーマンは震える手で長財布を差し出した。

 長財布を受け取った警官は息を殺して中を開き、かすかに首をひねった。肩の力が抜けるのが分かる。

 警官は無造作に長財布をセールスウーマンに返した。

「空ですね。お手数をおかけいたしました」

〝空⁉〟

 長財布を受け取ったセールスウーマンは、わずかに開いて中身を確認した。札束はぎっしり詰まっている。

〝あるじゃない……どうして空だなんて……?〟セールスウーマンは直感した。〝もしかして……この人には見えないの⁉ そうなのね……? ここからお金を出せるのは私だけなのね……?〟

 セールスウーマンは警官の関心がトランクの中身に向かう前に、歩道に散らばった化粧品をかき集めて、むりやりに押し込んだ。きつい蓋を力まかせに閉めて鍵をかける。

 落ち着きを取り戻した立ち上がったセールスウーマンは、警官に営業用の微笑みを見せた。  

「どうもお世話をおかけしました」

 警官も微笑んだ。

「こちらこそ、失礼をしました。ま、気をつけてください」

 警官は何事もなかったかのようにゆっくりと立ち去った。

 セールスウーマンは警官と反対の方向に歩きながら、詰めていた息を吐き出した。

〝夢かしら……〟だが、初めて握る分厚い札束の感触はまだ指先に残っている。〝夢に決まってるわよ……夢じゃなかったら、何だっていうのよ……〟

『悪魔』という単語が、唐突にセールスウーマンの頭に浮かんだ。

〝悪魔――ですって? 何を考えているのかしら、ばかね……〟しかし同時にセールスウーマンは、魔術のように現われた大金の使い道に頭を巡らせ始めていた。〝こんなお金があるなら……私、自由になれるかもしれない……。それに、本当に私だけが使えるお財布なら、あのろくでなしだって……〟

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