妻の骨は、ほとんどつながっているようだ。ゆっくりと立ち上がり、わずかに体が揺れる。流れ出た血もほとんど吸収されていた。

 作家は、またも青ざめた。

「おまえ……この人は……何も関係ないんだ……」

 セールスウーマンもまた、腰を抜かして座り込む。

「私は……ただの……」

 傷だらけの妻は、ぎくしゃくと歩いてセールスウーマンににじり寄った。トランクを拾い上げる。

「ただの……? ただの、なにさ⁉ 女でしょう! 許せない……」

 たしかに顔の修復は時間がかかるようだった。垂れ下った下あごが、ぶらぶらと揺れる。言葉と一緒に噴き出す血の泡が、セールスウーマンの顔に飛んだ。

 セールスウーマンはぱくぱくと動くだけの口から、ようやく言葉を絞りだした。

「いいえ……化粧品のセールスで……」

「化粧品? 嘘……夫と浮気を……」

「とんでもない! た、ただの、通りすがりのセールスの――」

「じゃあ、なんで夫に⁉ あんた、男に化粧品を売るの⁉」

「いいえ……私は奥様に……そうです! 奥様をお美しくためにやってきたんです! それが私の仕事なんです!」

 妻が振り上げたトランクが、凍りついたように宙で止まった。

「美しく……」

 きっかけをつかんだセールスウーマンの脳裏に、マニュアルのフレーズが閃光ように飛びかう。

「私どもの製品はどのような方のお肌にも合い――」

 セールスウーマンは妻に向かって、早口の『商品説明』を叩きつけた。

 トランクを振り上げたままの妻は、機関銃で撃たれているかのように後ずさっていく。

 作家が激しくうなずきながら叫ぶ。

「そうそう! そうなんだ! 君のためだったんだ! きれいにしてあげたくて!」

 妻は作家を見つめてから、笑った。

「嬉しい……。私、きれいになれる?」

 セールスウーマンも、スイッチが壊れた玩具のように繰り返しうなずいた。

「もちろんです! もちろんですとも! 私どもの製品は――」

「やってみて」

 セールスウーマンの首がぴたりと止まる。

「はい?」

 妻は厳しい目でセールスウーマンに命じた。

「私をきれいにして」

「でも……」

「できないの?」

 引き下がるわけにはいかない。相手が人間の形をしてさえいるなら、〝より美しく〟するのがセールスウーマンの使命だ。

 セールスウーマンも厳しい表情で妻を見返し、きっぱりとうなずいた。

「分かりました。やります。そのトランクをください。サンプルが入っているんです」

 妻は素直にトランクを渡した。

 作家が緊張を解いて、ソファーに崩れる。とりあえず、二人の衝突は回避されたのだ。

 セールスウーマンは作家の向かいに腰をおろし、妻を隣に座らせた。テーブルにサンプルを並べ、ファンデーションを取る。そして妻の顔をプロの目で冷静に分析する――。

 真剣勝負だ。

「始めます」

 妻も真剣な目で答えた。

「お願いします」

 セールスウーマンの手は素早く動いた。約三十分、まったく休むことなく動き続けた。そして、その手が突然止ると――。

 うつむいたセールスウーマンの目から、一筋の涙がこぼれた。

「もう……だめ……。これ以上は……」

 妻は言った。

「終わり? もういいの? 鏡が見たい。鏡は?」

 トランクの内側には鏡が貼りつけてある。セールスウーマンはあわててトランクを閉じて叫んだ。

「これ以上は、どうにもなりません!」

 妻は作家を見た。

「鏡を……」

 作家はぼんやりと妻の顔を見つめながら言った。

「鏡はない……知っているじゃないか……」

 妻の顔面の上半分は、見違えるほど美しく輝いている。しかし、あごが外れたままの顔は、不気味さに凄味を加えただけだった。

 気配を察した妻はセールスウーマンに苛立ちをぶつけた。

「あんた! セールスに来たんでしょう! 鏡ぐらい持ってないの⁉」

 セールスウーマンは空のトランクを抱きかかえた。

「ありません!」

 妻は小さくうなずいた。

「その中ね……。鏡があるんでしょう? なぜ隠すの? よこしなさい!」

「だめ!」

 が、妻の力は強かった。セールスウーマンは呆気なくトランクをむしり取られた。

 トランクを開いた妻は、鏡に見入った。そして、外れたあごを震わせて笑った。

「これが……これが、私……? そんな……ひどい……」

「ごめんなさい! これ以上は、どうにも……せめて、あごがつながっていれば……」

 妻は立ち上がってつぶやいた。

「あんたのあごも外してやる」

 妻は、開いたままのトランクを振り回した。テーブルのサンプルにぶつかって小瓶が飛び散る。

 セールスウーマンは身を引いた。顔を守るために上げた両腕にトランクがぶつかる。

「やめて!」

「やめろ!」

「やめるもんですか!」

 妻はトランクを真上に振り上げ、セールスウーマンの頭の上に叩き降ろした。

 セールスウーマンの頭蓋骨がごっぽりとへこんだ。

 妻は鼻先で笑うように言った。

「いいきみよ……」

 セールスウーマンは残るわずかな力で顔を上げ、妻を見つめて涙を流した。

「ごめん……な……さい……。きれ……いにで……きな……く……て……」

 そしてセールスウーマンは前のめりにテーブルに倒れた。

 作家は腰を抜かしていた。

「こ……殺して……しまった……」

 妻は胸を張った。

「死んで当然よ。私を、こんなに……こんなに、醜く……」

 目に涙がたまっていた。

 作家は立ち上がれない。

「どうするんだ……人を殺して……こんなことが警察にばれたら……ああ……気が……狂いそうだ……」

 妻はきっぱりと言った。

「簡単。死体を消しましょう」

「どうやって⁉ 僕は悪魔じゃない! 魔法は使えない!」

「魔法なんか要らない」

「だから、どうやって⁉」

「食べるのよ」

「え?」

「どうせ他人は来ない家ですもの。何日かかったっていいわ。食べて、食べて、骨まで食べてしまうのよ」

「……」

 作家は、腹に入れたばかりのサンドイッチをテーブルの上に吐き出した。

「料理は私がします。一緒に食べてね」

 そう微笑んだ妻はキッチンに入り、包丁を握って戻った。

 妻は楽しげにセールスウーマンの死体を床に転がし、服を裂いて丸裸にした。豊かに張ったセールスウーマンの乳房を、自分の傷だらけの身体と見比べる。

「きれいな人……きれいな身体……許せない……私、なぜこんなに醜いの……?」

 妻は包丁を死体の胸に突き立てた。ぐるりとえぐると、取れた肉の固まりを口に運ぶ。

「最初はお刺身で……あら、柔らい……とろけそうよ」

 作家の目の前にかじりかけの肉を突き出す。

「な……なんだ……?」

「食べて」

「いやだ……」

「あら……? どうして……? まさか……まさか、私のこと愛していないの? そんな……。あなた! やっぱり、この女を愛していたのね⁉」

「ちがう!」

「なら、食べて!」

「いやだ!」

 妻は肉片を作家の口に押し込んだ。

 作家は胃液と共に吐き出す。

「いやだわ……本当にそうなの……? あなた……私を……愛していないの……? そんな……。いいわ。分かったわ。やっと分かったわ……あなたは、そんな男だったのね。ええ、いいわよ。他に、方法はないわね。あなたも殺すわ」

 妻は包丁を振り上げる……。

「いやだ! 助けて!」

 叫んだとたん、作家は気づいた。

 悪夢から逃れる方法は、死のみ。しかも、妻の手で殺されなければ、死んでも夢は醒めない。

 憎まれなければならないのだ。

 妻は涙をあふれさせて訴えた。

「お願い……愛していると言って……私だけを愛していると……」

 作家は冷たく言った。

「おまえのような化け物を誰が愛せるか! 僕はまともな女を抱きたいんだ!」

「ひどい……化け物だなんて……」

 妻は固く目を閉じた。そして、包丁を振り下ろす……。

 作家は自分の胸に突き刺さった包丁を見て、微笑んだ。

「ありがとう……やっと……これでやっと、自由になれる……」

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