5
妻の骨は、ほとんどつながっているようだ。ゆっくりと立ち上がり、わずかに体が揺れる。流れ出た血もほとんど吸収されていた。
作家は、またも青ざめた。
「おまえ……この人は……何も関係ないんだ……」
セールスウーマンもまた、腰を抜かして座り込む。
「私は……ただの……」
傷だらけの妻は、ぎくしゃくと歩いてセールスウーマンににじり寄った。トランクを拾い上げる。
「ただの……? ただの、なにさ⁉ 女でしょう! 許せない……」
たしかに顔の修復は時間がかかるようだった。垂れ下った下あごが、ぶらぶらと揺れる。言葉と一緒に噴き出す血の泡が、セールスウーマンの顔に飛んだ。
セールスウーマンはぱくぱくと動くだけの口から、ようやく言葉を絞りだした。
「いいえ……化粧品のセールスで……」
「化粧品? 嘘……夫と浮気を……」
「とんでもない! た、ただの、通りすがりのセールスの――」
「じゃあ、なんで夫に⁉ あんた、男に化粧品を売るの⁉」
「いいえ……私は奥様に……そうです! 奥様をお美しくためにやってきたんです! それが私の仕事なんです!」
妻が振り上げたトランクが、凍りついたように宙で止まった。
「美しく……」
きっかけをつかんだセールスウーマンの脳裏に、マニュアルのフレーズが閃光ように飛びかう。
「私どもの製品はどのような方のお肌にも合い――」
セールスウーマンは妻に向かって、早口の『商品説明』を叩きつけた。
トランクを振り上げたままの妻は、機関銃で撃たれているかのように後ずさっていく。
作家が激しくうなずきながら叫ぶ。
「そうそう! そうなんだ! 君のためだったんだ! きれいにしてあげたくて!」
妻は作家を見つめてから、笑った。
「嬉しい……。私、きれいになれる?」
セールスウーマンも、スイッチが壊れた玩具のように繰り返しうなずいた。
「もちろんです! もちろんですとも! 私どもの製品は――」
「やってみて」
セールスウーマンの首がぴたりと止まる。
「はい?」
妻は厳しい目でセールスウーマンに命じた。
「私をきれいにして」
「でも……」
「できないの?」
引き下がるわけにはいかない。相手が人間の形をしてさえいるなら、〝より美しく〟するのがセールスウーマンの使命だ。
セールスウーマンも厳しい表情で妻を見返し、きっぱりとうなずいた。
「分かりました。やります。そのトランクをください。サンプルが入っているんです」
妻は素直にトランクを渡した。
作家が緊張を解いて、ソファーに崩れる。とりあえず、二人の衝突は回避されたのだ。
セールスウーマンは作家の向かいに腰をおろし、妻を隣に座らせた。テーブルにサンプルを並べ、ファンデーションを取る。そして妻の顔をプロの目で冷静に分析する――。
真剣勝負だ。
「始めます」
妻も真剣な目で答えた。
「お願いします」
セールスウーマンの手は素早く動いた。約三十分、まったく休むことなく動き続けた。そして、その手が突然止ると――。
うつむいたセールスウーマンの目から、一筋の涙がこぼれた。
「もう……だめ……。これ以上は……」
妻は言った。
「終わり? もういいの? 鏡が見たい。鏡は?」
トランクの内側には鏡が貼りつけてある。セールスウーマンはあわててトランクを閉じて叫んだ。
「これ以上は、どうにもなりません!」
妻は作家を見た。
「鏡を……」
作家はぼんやりと妻の顔を見つめながら言った。
「鏡はない……知っているじゃないか……」
妻の顔面の上半分は、見違えるほど美しく輝いている。しかし、あごが外れたままの顔は、不気味さに凄味を加えただけだった。
気配を察した妻はセールスウーマンに苛立ちをぶつけた。
「あんた! セールスに来たんでしょう! 鏡ぐらい持ってないの⁉」
セールスウーマンは空のトランクを抱きかかえた。
「ありません!」
妻は小さくうなずいた。
「その中ね……。鏡があるんでしょう? なぜ隠すの? よこしなさい!」
「だめ!」
が、妻の力は強かった。セールスウーマンは呆気なくトランクをむしり取られた。
トランクを開いた妻は、鏡に見入った。そして、外れたあごを震わせて笑った。
「これが……これが、私……? そんな……ひどい……」
「ごめんなさい! これ以上は、どうにも……せめて、あごがつながっていれば……」
妻は立ち上がってつぶやいた。
「あんたのあごも外してやる」
妻は、開いたままのトランクを振り回した。テーブルのサンプルにぶつかって小瓶が飛び散る。
セールスウーマンは身を引いた。顔を守るために上げた両腕にトランクがぶつかる。
「やめて!」
「やめろ!」
「やめるもんですか!」
妻はトランクを真上に振り上げ、セールスウーマンの頭の上に叩き降ろした。
セールスウーマンの頭蓋骨がごっぽりとへこんだ。
妻は鼻先で笑うように言った。
「いいきみよ……」
セールスウーマンは残るわずかな力で顔を上げ、妻を見つめて涙を流した。
「ごめん……な……さい……。きれ……いにで……きな……く……て……」
そしてセールスウーマンは前のめりにテーブルに倒れた。
作家は腰を抜かしていた。
「こ……殺して……しまった……」
妻は胸を張った。
「死んで当然よ。私を、こんなに……こんなに、醜く……」
目に涙がたまっていた。
作家は立ち上がれない。
「どうするんだ……人を殺して……こんなことが警察にばれたら……ああ……気が……狂いそうだ……」
妻はきっぱりと言った。
「簡単。死体を消しましょう」
「どうやって⁉ 僕は悪魔じゃない! 魔法は使えない!」
「魔法なんか要らない」
「だから、どうやって⁉」
「食べるのよ」
「え?」
「どうせ他人は来ない家ですもの。何日かかったっていいわ。食べて、食べて、骨まで食べてしまうのよ」
「……」
作家は、腹に入れたばかりのサンドイッチをテーブルの上に吐き出した。
「料理は私がします。一緒に食べてね」
そう微笑んだ妻はキッチンに入り、包丁を握って戻った。
妻は楽しげにセールスウーマンの死体を床に転がし、服を裂いて丸裸にした。豊かに張ったセールスウーマンの乳房を、自分の傷だらけの身体と見比べる。
「きれいな人……きれいな身体……許せない……私、なぜこんなに醜いの……?」
妻は包丁を死体の胸に突き立てた。ぐるりとえぐると、取れた肉の固まりを口に運ぶ。
「最初はお刺身で……あら、柔らい……とろけそうよ」
作家の目の前にかじりかけの肉を突き出す。
「な……なんだ……?」
「食べて」
「いやだ……」
「あら……? どうして……? まさか……まさか、私のこと愛していないの? そんな……。あなた! やっぱり、この女を愛していたのね⁉」
「ちがう!」
「なら、食べて!」
「いやだ!」
妻は肉片を作家の口に押し込んだ。
作家は胃液と共に吐き出す。
「いやだわ……本当にそうなの……? あなた……私を……愛していないの……? そんな……。いいわ。分かったわ。やっと分かったわ……あなたは、そんな男だったのね。ええ、いいわよ。他に、方法はないわね。あなたも殺すわ」
妻は包丁を振り上げる……。
「いやだ! 助けて!」
叫んだとたん、作家は気づいた。
悪夢から逃れる方法は、死のみ。しかも、妻の手で殺されなければ、死んでも夢は醒めない。
憎まれなければならないのだ。
妻は涙をあふれさせて訴えた。
「お願い……愛していると言って……私だけを愛していると……」
作家は冷たく言った。
「おまえのような化け物を誰が愛せるか! 僕はまともな女を抱きたいんだ!」
「ひどい……化け物だなんて……」
妻は固く目を閉じた。そして、包丁を振り下ろす……。
作家は自分の胸に突き刺さった包丁を見て、微笑んだ。
「ありがとう……やっと……これでやっと、自由になれる……」
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