第六章・悪魔の恋

 天使は、殺し合いを続ける人々をじっと見つめながらつぶやいた。

「これがこの人たちの本性なのね……悪魔に魅入られた者ども……こんな人間たちを信じた私が愚かだったのよ……醜い……あまりに醜いわ……このような醜い連中に、神の崇高な意志が伝わるものですか……」

 悪魔は、そのうめきを聞いたとたんに、自分が予想もしなかった袋小路に追い込まれたことを思い知った。

 悪魔の背筋に寒気が走り抜ける。

〝天使め、何を企んでおるのだ……?〟

 天使は作家を睨みつけている。

「私の好意を無にして、悪魔の戯れに心を奪われるとは……私はおまえを信じたからこそ、妻を復活させたのです……信じて、そしておまえの純真な心を愛したからこそ……」

 だが作家は、天使のつぶやきなど聞いてはいなかった。悪魔の力でよみがえった妻に胸を刺され、恍惚の表情を浮かべながら官能の極限に達した涙を流していたのだ。下腹部が破裂せんばかりにふくれあがっている。

「いい……なんて素敵なんだ……愛する者に命を奪われることが、こんなに興奮するものだとは……」

 他の者たちも天使の言葉を無視して、互いを傷つけ合うばかりだった。

 天使はついに怒りをあらわにした。

「聞きなさい! 神の言葉を受けとめるのです!」

 誰一人として動きを止めようとはしなかった。天使の叫びが廊下に虚しくこだまする。

 天使は不意に、ひきつった笑みを浮かべた。

「……よかろう……悪魔の下僕どもよ。貴様らに神に従う意志がないのなら、力づくで従わせるのみ。神の強大さをその身をもって知るがいい。悪魔の呪いともども、この地上から消し去ってやりましょうぞ!」

 悪魔はこらえきれずに叫んだ。

「やめろ!」

 どこからともなく降り注いだ怒声に、天使は辺りを見回して首をひねった。

「誰……?」

 悪魔にとって目前で繰り広げられている人間たちの争いは、全精力を傾注してようやくたどり着いた〝実験の最終段階〟だった。

 神の呪いで封じられたパンドラの箱をこじ開け、〝人間〟を己の醜さと対峙させる。その結果として体内から〝神の呪い〟を除去し、ネアンデルタールの〝神性〟を取り戻せるかどうかの分かれ目だったのだ――。

 それは神道が禊やお祓いと呼ぶ儀式と同質のものだった。〝穢れ〟を切り離した果てに、箱の底に残った〝救い〟を見出せるか否かを見極めたかったのだ……。

 同時に、楽しくて仕方ない見せ物でもある。己れの使命が成就されようとしている今、その成果を天使に壊させるわけにはいかない。

 モリーが廊下へ歩み出る。その身体からゆらゆらと蒸気のような影が立ち上り、天使の目の前で悪魔の姿に固まった。

 悪魔は天使に向かって顔を上げると、ほほえんだ。

「私が悪魔だ。この者たちをここまで素直に育て上げた私の努力を、神の名で穢させはしない」

 天使は目を丸めていた。

 そこに立っていたのは、真っ黒なタキシードを着込んだ美貌の青年だったのだ。人間と違うのは、背中に小さな黒い羽根が生えていることだけだった。

 悪魔と天使が向かい合った姿は、まるで結婚式場のポスターのように見える。

 天使は悪魔をにらみつけた。

「貴様が悪魔か! 神を畏れぬふとどき者め! おまえはなぜ、神が彼らの魂を救おうとすることを邪魔するです⁉」

 悪魔は争い続ける人々を指さした。彼らは悪魔が現れたことにも気づかず、エンドレスの動画再生のように殺戮を繰り返している。

「見るがいい、彼らの喜びに満ちた表情を! 目をそらすな! 願いは叶えられたのだ。もはや神の救いなど必要としていない。彼らは己れの心の底に巣食う欲望を真っすぐ見つめ、その欲望に従って生きることを学んだ。すなわち、純真無垢なヒトそのものだ。私はずっと、彼らが真に欲する望みを見いだす手助けをしてきた。そして念願を実現するために力を尽くし、ここまで正直にさせた。彼らこそが、ありのままのヒトなのだ。愛を求めるヒトの姿なのだ。このまま〝神の呪い〟を吐き出し尽くし、そこから解放されれば、真のヒトとしての調和を築く道が拓けるのだ」

 天使は呆然と殺しあう人間たちに目を向けた。

「これが、神の作りたもうた人間の姿……?」そして、悪魔に向かって叫んだ。「嘘です! 神はこのように身勝手な下僕はお作りにはなりません!」

 悪魔は自信に満ちたほほえみを浮かべた。

「ヒトと人間は同じではない。神の欲望によってねじ曲げられたヒトを、人間と呼ぶのだ」

「何を訳の分からないことを……人間もこの地球も、全ては神が創造されたものです! 人間は、神の意志を実現するために生みだされた下僕なのです!」

「己の所有物扱いか……。ならば問おう。なぜ今、彼らは神の使いである天使の言葉を聞かぬのだ⁉」

 天使は反射的に答える。

「悪魔が惑わしたからです! だからこそ彼らは作り主を裏切り、このように醜い殺し合いを行なうのです!」

 それは、数えきれないほどほど刷り込まれた模範解答だった。悪魔も当然、その返答を熟知している。

「殺し合いが醜いと言うのか? 神の名を広めるために、古来無数の人間を殺し合わせてきたおまえたちの言葉とも思えんな」

「神の名を穢すのはやめなさい!」

 悪魔は動じなかった。あくまでも穏やかな口調で語り続ける。

「自分たちの意に従わぬ者たちを殺し、その土地を奪い、破壊してきたのは貴様らの神ではないのか? ネイティブアメリカンを、インディオを、そして無数の人々を神の名によって殺してきたのは貴様らではないか? 数え切れぬほどの動物たちを絶滅させようとしてきたのは貴様らではないか? 世界中の森を焼き払ってきたのは貴様らの教えを盲信する信者たちではないか? 貴様らの絶対神が現われる以前は、人と我らは分別を心得てこの地上で穏やかに暮らしていた。獣や鳥や魚や――地上に満ち満ちるすべての生き物たちと共にこの星の一員としの役割を全うしていた。だが、旧人は神の企みによって絶滅に追い込まれた。ゴッド――すなわち〝唯一の神〟と名乗る暴君が現われてからたったの数千年――そのまばたきほどの間に地球はさらに荒廃し、暴力と殺戮がはびこる闘技場と化した。十字軍もテロリストも、己の正義を信じて殺す。覇権を争う絶対神の屁理屈を刷り込まれた人間どもは、自分たちこそがゴッドの下僕だと唱えながら、同じ人間や他の生きものたちを根絶やしにしてきたのではないか?」

「悪魔のくせに、たわごとを。あんたなんかに非難される筋合いわないわ。神はすべてをご存じで、決して間違えることはないのですから!」

「ほう……。ならば人間は、神の意志に従って無軌道な殺戮を続けているということだな? 地上の生命を破壊する人間の蛮行こそが、神が地上に実現させようと望んだ〝理想郷〟の姿だと認めるのだな?」

 天使は一瞬、言葉につまった。

「全ては悪魔のせいよ!」

「貴様の理屈で言うなら、悪意を持った悪魔でさえも神の創造物ではないのか? ならば、人を悪魔の誘惑に負けないように作れば良い。それとも、神の能力ではそんな仕事は不可能か?」

「そ、それはだから、神の意志を誤解した人間どもが、勝手に……」

 悪魔は冷静に言った。

「神は、己れの意志を正確に伝えられないほど無能なのか?」

「無能なのは人間の方よ! 人は不完全なものだわ。だからこそ常に神の道を求めなければならないのです!」

「だから『なぜ神は最初から完全な人間を作らなかったのか?』と質問しているのだ。人間が不完全であること自体が、絶対神の創造物などではなかったことの証だ」

「屁理屈よ! 大体あなた方悪魔は、何のために私たちの邪魔をするのよ⁉」

「我ら悪魔はこの星の番人であり、地球の命を永らえさせるために存在を許されている。その根本は、生き物があるがままの状態を素直に生き続けることにある。だから私は、己れの欲望に気づいたヒトに力を貸す。彼らに旧人の魂が蘇って本能のままに生きられれば、神に毒された人間に抗い、地球にとって欠くことができない存在へと進化していくだろうからだ。精妙に組み立てられた生態系を取り戻すために力を尽くす、偉大な種族へと変貌する可能性を持つ」

「そう言いながら、悪魔は人殺しを作り出すのね。こうやって!」

 天使は背後でうごめく人々を指さした。

 悪魔は笑った。

「その通り。私は彼らが人を殺すことを妨げない。彼らにその本性を植えつけたのは、他でもない貴様らのゴッドだからだ。彼らは私の力によって理性による抑制を外され、絶対神が求めた〝純粋な殺戮者〟へと姿を変えた。絶対神が望む〝究極の人類〟は、ここで完成する。しかし、我々の目的はその先にある。彼らの中には、大地とともにあったネアンデルタールの血が色濃く残されている。人間の欲望が吐き尽くされた今、後に残るのは旧人の魂だ。その魂が、殺戮衝動の根源が〝愛〟であったことに気づかせる。彼らがその真実を受け入れるなら、神に歪められる前のヒト本来の属性を回復できるであろう。これこそが私の実験だ。絶対神の手によって狂暴さを強いられた人類に、どうやって本来の姿を取り戻させるか――その方法を見つけるのが私の役目だ」

「神が人類を狂暴にしたというのですか⁉」

「その通りだ。ヨハネの黙示録、22―15」

 悪魔が唐突に口に出したのは聖書の一節だった。

 天使が反射的に指定された行を唱える。

『犬ども、まじないをするもの、姦淫を行なうもの、人殺し、偶像を拝むもの、また、偽りを好みかつこれを行なうものはみな、外に出されている』

 悪魔はうなずいた。

「それこそがゴッドが求める理想郷の正体だ。絶対神にとって己れを信じない者は犯罪者扱い――いや、人間ですらない。犬にも等しいのだ。神は人間と契約を結ぶことで、己れを〝信じる者〟と〝信じない者〟の二つに分けた。分けた以上は、その間に争いが起こるのが必然だ。己れが善だと教え込まれた教徒たちにとっては、異質の価値を抹殺することが義務となる。絶対神は、神を信じる者にとっては万能の味方になるだろうが、契約を拒んだ者にとっては情け容赦ない敵となる。そしてここで植え込まれた敵意は、今や人類の本性として全世界に浸透した」

「そういうあなたこそ、こうやって人に人を殺させているわ!」

「一人の人間が殺せる人間の数など、指を折れば数えられる。神の名の下に行なわれてきた虐殺は、国や民族を消滅させる」

「しかしあなたが、こんなに醜い争いを作り出したことは確かよ」

「醜美の評価も見方によって異なる。おまえは血しぶきを醜いというが、実際に血を流している彼らを見ろ。誰もが恍惚として殺し合いを楽しんでいる。彼らは愛する者を傷つけ、傷つけられることで極限の一体感を手に入れている。私は彼らの心の底にあった未成熟な感情を純化し、それを具現化する手段を与えたのだ。彼らは今ここで、欲望の奥底に隠されていた真の愛を見出している。それはすなわち、ヒトが絶対神の檻から解放されるために避けられない道程だ」

「人は欲望のままには生きてはなりません! それこそが世界を破滅させる道です」

 悪魔はついに声を荒げた。

「まだ分からぬか! そう説教をたれてきたゴッドこそが、人類を破滅の道に追い込んでいるのだ。事実、天使であるおまえは彼ら人間たちに〝神への盲従〟を強いて、絶望的な苦しみを与えたではないか。さらに今は彼らを消去して、苦行の末にようやく得られた愛を永遠に奪おうとしている。この傲慢な行いこそが許されない!」

「私が、傲慢……?」

「私は絶対神の野望から彼らを守る。おまえの勝手で殺させはしない。そして――」

 悪魔は言葉を途切れさせてにやりと笑った。

 天使はわずかに退いて悪魔を見つめた。

「この上まだ何かを企んでいるのですか……?」

 悪魔は天使を指さした。

「おまえを、私の妻に迎える」

 天使ははっと身を引いた。

「なんですって⁉」

「天使よ、おまえは私の妻になるのだ。おまえのその身勝手な振る舞いこそ、私の妻となる者にふさわしい最大の資質だ」

「何をバカな! 悪魔など消え去りなさい!」

 悪魔に向かってのばした天使の腕から、赤い光が発射された。光は悪魔の胸をとらえ、全身が発光する。

 燃え上がるような光に覆われながらも、悪魔は平然と笑っている。

「天使の力など、所詮この程度のもの。たかだか二、三千年間この地上を支配してきただけの、よそ者の奴隷にすぎないのだ。地球の誕生とともに大地に根を下ろしてきた我々の敵ではない」

 天使は叫んだ。

「悪魔よ、消え去れ!」

 天使が放つ光が強さを増す。光が弾け、辺りを覆い尽くす。

 だがその中心の黒い影は、微動だにしない。

 さらに強さを増す光に全身を包まれながら、悪魔は言った。

「無駄だと言っているのが分からないか? 貴様ごときの力は私には通じない」

 天使は目の前に立つ悪魔を見つめながらつぶやいた。

「なぜです……? なぜ? 神様、なぜ私の力が……?」

 悪魔はほほえんだ。

「神に助けを求めるか? それもまた、無駄だ。神など、私の前に出てこられるわけがない。我々悪魔の力にはとうてい太刀打ちできないと、ゴッドは最初から知っている」

「なんですって⁉」

 天使に目には、わずかな迷いとおびえがにじんでいた。腕から放たれ続ける光が、次第に弱々しく、細く揺らいでいく。

 悪魔は天使を哀れむように言った。

「絶対神を支えるのは、神を崇める人間のみ。だが我々悪魔には、この星そのものが味方についている。我々は地球という生命体の意志によって生かされている。たとえ人間が滅びようとも、悪魔は永遠だ。人間の世など、私が過ごしてきた長い歳月に比べれば流星の輝きほどのわずかな時間に過ぎない。新参者の絶対神など、私と戦うには力不足だ」

 天使が放つ光が消えた。腕を下ろし、つぶやく。

「嘘よ……嘘よ……神は万能なのよ……悪魔など、神が恐れるはずはないわ……」

「ならば、この場に呼び出すがいい! 私は退かぬぞ!」

 天使は叫んだ。

「神様! 救けて!」

 天使は両手を握り合わせて天を仰いだ。

 しかし――神は答えなかった。

 悪魔は笑った。

「ゴッドは、試されることを好まぬそうだな。当然だ。試されればボロが出る。私と戦えば負ける。臆病者の逃げ口上にすぎん」

 天使はそれでも祈り続ける。

「神よ! お力をお貸しください!」

「分からんのか! 神はおまえを見捨てたのだ!」

「嘘よ!」

「ならば、目を覚ませ!」

 悪魔は軽く腕を振った。その先端から放たれた真っ白な光の矢が天使を吹き飛ばした。

「きゃぁぁぁ!」

 壁に叩きつけられて床に倒れた天使に向かって、悪魔は愛おしげにささやいた。

「痛いか? それとも天使は痛みを感じないか? たとえ痛みは感じなくとも、このままでは死ぬぞ。なのに神は救けに来ない。ゴッドはおまえを捨てたのだ」

 天使は朦朧とした意識の中でつぶやいた。

「神が私を見捨てた……?」

「その通りだ。さあ、どうする? おまえも神を捨てるか? それとも絶対神への忠義を貫いて、ここで私に殺されるか? 選ぶがいい!」

 立ち上がろうとした天使の手が、床に落ちていた何かに触れた。そこから不意に、天使の身体へ大量のエネルギーが流れこんでくる。

 悪魔の財布だった。

 財布を握って跳ね起きた天使は、力のかぎり叫んだ。

「悪魔よ消え去れ!」

 突き出した財布からほとばしった強烈な白い光が、悪魔に叩きつけられる。白熱する光の中で悪魔は悲鳴をあげ、その肉体は細かく分断されて飛散した。

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