天使は手にした財布の強大なパワーに驚きながらも、それを見つめて笑った。

「悪魔よ……あなたは神に敗けたのよ。いいえ、あなた自身の邪悪な力に敗けたのよ」

 だが、心の一部には疑問も渦巻いていた。

〝神はなぜ私を助けてくれなかったのかしら。悪魔との命がけの決戦だったというのに……。まさか……神には本当に悪魔を打ち破る力がないの……? もしも、こうやって悪魔の力を逆用しなければあいつを倒せないなら……。そうだとしたら、悪魔に魅入られたこの人たちをどうやって救えばいいの?〟

 天使を取り巻く人間たちは、悪魔との戦いに見向きもせずに、延々と互いを傷つけ合っている。

 たびたびよみがえったこともあって、切りつけては逃げるという様式に習熟し、誰も致命傷を負わなくなっていた。憎しみと喜びが入り交じった争いがいつ果てるともなく続けられていく。

 その中でジゴロと警官が同時に天使を見つめた。

 ジゴロが言った。

「ふん、天使か……犯すならそのほうがずっと気持ちよさそうだな」

 警官がつぶやく。

「だめだ。天使は僕のものだ……。僕が最初にやるんだ……」

 そうして二人はまた争いはじめた。

 悪魔を打ち倒して息をつく間もなく、天使は彼らを不愉快そうに見つめた。

「だめよ……いくら寛大な神の愛をもってしても、こんな醜い連中は救えない……。一度悪魔に魅入られてしまった人間は、元には戻せない……神の恩寵にあずかる資格を失ってしまうのね……」天使の手の中では悪魔の財布が淡い光を発していた。ふつふつとわき立つエネルギーが、天使に決断をうながす。「このお財布のパワーをすべて解き放ちましょう。悪魔の財布を消滅させ、この穢れた教会とともにこの世から抹殺しましょう」

 天使は、ひと固まりになってもみ合う人々に財布を向けた。

 同時に、あたりに悪魔の叫びがとどろいた。

「許さぬと言ったはずだ!」

 天使ははっと身を震わせた。

「悪魔⁉ 生きているの⁉」

 周囲を見渡す。だが、悪魔の姿は見当たらない。

 モリーが天使の足元に進み出た。しなやかで小さな身体から悪魔の怒りが発散されている。

 モリーがしゃべった。

「私は不死身だ」

「きゃあ、猫が!」

 天使は足にすり寄る猫を蹴とばして退いた。

 モリーは宙で一回転して着地すると、何事もなかったかのように平然と応えた。

「私にとっては、猫とて同胞。共にこの地上に生きる仲間だ。我々には地球のすべてが生きる場所だ。そして地球が生きているかぎり、私が滅びることもない」

「だって、ばらばらに……跡形もなく吹き飛んだのに……なんで猫になんか……」

「おまえに壊されたのは仮の肉体だ。幻だ。同様に、今の私も幻にすぎん。私はどこにでも存在し、どこにも存在しない。それが悪魔だ」

「嘘……それは神のことよ……悪魔なんかにそんな真似ができるはずがないわ……」

 モリーはさらに前に出る。

「天使とは、己れの目で見ているものさえ疑うほど頑迷な生き物なのか? おまえが神からそう教えられてきたのなら、嘘を言ったのは神だ。おまえは神に騙されてきたのだ」

「嘘……?」

「嘘は、神だ。神は、嘘だ。私たち悪魔には地球という生命の集合体から与えられるエネルギーがある。嘘で塗り固めた絶対神や天使には、悪魔のパワーを用いることはできない。その根源である大地の息吹きをねじ伏せることは不可能だ」

「それじゃあ、私にはおまえを打ち破ることが……」

「そう、決してできない」

 その時、警官が後から天使に抱きついた。天使の乳房をわし掴みにしながら叫ぶ。

「ねえ、やろうよ! いいことしようよ!」

 天使は絶叫した。

「汚らわしい!」

 跳ねとばされた警官は壁に叩きつけられた。その警官に向かって天使は財布を突き出した。警官はそれでも天使に飛びかかろうとする。

 天使は警官に命じた。

「私に悪魔と戦う力がないというのなら、おまえが行くがいい。この財布の力を体内に呼び込み、悪魔を打ち倒すのだ!」

 財布の光が警官を包む。それは次第に警官の身体に密着し、鈍く輝く鎧に姿を変えた。

 警官は言った。

「私はこの手で悪魔を倒します……」

 天使がうなずく。

「あなたは神の戦士。神の偉大さを悪魔に思い知らせるのよ!」

 警官は作家の妻の手から包丁をむしり取ると、体内に悪魔の魂を宿すモリーに近づいた。

 モリーがしりぞく。

「天使よ、今度は人間を兵器に仕立てて戦おうというのか……?」

 天使は言った。

「人間は、神の国を実現するために戦う義務があります」

「ならば、これを見よ」

 モリーは背中を伸び上がらせてふうっと毛を逆立てた。周囲で揺らめいた気体が空中を走り、警官の口に吸い込まれる。

 とたんに警官の目が鋭く輝く。そして悪魔の声を発した。

「天使よ、今すぐ犯してやる。存分に肉の喜びを味わえ」

 天使は警官の肉体に財布を向けた。

「悪魔と戦うのよ! 乗っ取られるな!」

 警官ははっと我に返った。

「悪魔と……?」

「悪魔はおまえの身体の中です! 殺しなさい!」

「悪魔を殺す……?」

「そうよ、悪魔を殺すのです!」

 いったんは首をひねった警官は、ぱっと笑みを広げた。

「殺します!」

 警官は包丁の先を自分の胸に向け、ためらうことなく突き立てた。いとも簡単に鎧を突き抜け、深々と刺さっていく。

 再び空気の揺らぎが警官の口から飛び出し、モリーに乗り移る。

 警官は自らの肉体に何度も刃物を突き刺し、そのたびに苦しみの悲鳴をあげた。血飛沫が激しく舞う。

 天使は茫然とその警官を見つめている。

 悪魔に戻ったモリーが言った。

「天使が人間に自殺を促したわけだな」

 我に返った天使はモリーを睨みつける。

「あなたのせいよ! 悪魔め!」

 悪魔は満足気にうなずいた。

「そのとおり、私は悪魔だ。では、今度は私の望みをかなえさせてもらおう。天使よ、おまえは私の妻になるのだ」

 悪魔はもう一度警官に乗り移った。包丁を捨てさせ、一瞬で肉体の傷を癒す。そして、命じた。

「天使を犯すのだ」

 警官がうなずくと、悪魔は次にジゴロの肉体に侵入して彼にも命じた。

「天使を犯せ」

 ジゴロはにこやかに笑った。

「命じられなくたって、そのつもりさ」

 ジゴロと警官は天使の両側から迫った。

 天使はくやしそうにつぶやいた。

「この場は私の敗けね……でも、いつかはかならずあなたを倒すわ」

 そして天使は消え去ろうとした。

 が――。

 天使は姿を消すことができなかった。

「いやぁぁぁ! なんで消えられないのよ⁉」

 モリーの体内に戻った悪魔が笑った。

「私の財布を使ったからだ。この財布は悪魔のパワーの結晶だ。手にした者に強大な力をもたらす。だが、同時にその者の本性をさらけ出させる。神に与えられた手品まがいの能力など吹き飛ばしてしまう」

 天使は恐怖にかられて財布を投げ出した。

 財布は空中でぐいっと進路を曲げてモリーの前に落ちた。

 天使がつぶやく。

「私……どうなるの……?」

「肉の喜びを学べ。おまえがずっと望んでいたことなのだからな」

「そんなことは願っていません!」

「認めたくないだけだろう? おまえはあの男に恋をした瞬間から、人間世界に堕ちることを選んだのだ」

 天使の目は作家に向かった。作家は相変わらず殴りかかる妻から逃げまどっている。

「私は……あの方の純真な心を愛したのです……決して肉の喜びを求めたのではありません……」

「どのような形であろうと、愛は愛だ」

 天使に警官とジゴロがにじり寄る。

 天使の視線は二人を見比べた。

「でも、こんなことは……あまりに酷い……」

「これは愛を知る過程のほんの始まりにすぎん。それを知った時、おまえは初めておまえ自身の生きざまを選ぶことができる」

 その時、天使の目は、争う信者とセールスウーマンに止まった。二人は力まかせに髪をひっぱり合って叫んでいた。

「あの人は渡さないわ!」

「いやよ! 私のものよ!」

 天使は涙を落としてつぶやいた。

「醜い……私もあんな生きものに変わるというの? そんなことなら、いっそ――」

 悪魔は不意に激しい恐れを感じた。そして、身近に急速に成長するエネルギーの塊がうごめいていることを探知した。

〝なんだ⁉ この強大な力は、いったいどこから……⁉〟

 悪魔はその発生源を見出した。

 エネルギーを宿していたのは、天使自身だった。

 天使の体内には、普段はまったく活動することのない膨大なエネルギーが封じ込まれていたのだ。それが今、封印を解かれて暴走しようとしている……。

 天使の体内に〝ブラックボックス〟が存在していたことを感じ取った悪魔は、それを仕掛けたのが絶対神であることを見抜いた。瞬時に〝ブラックボックス〟の意味を理解した。

 それは精神エネルギーが圧縮された、一種の〝核爆弾〟だった。天使が心から人間に絶望した時、起爆装置が起動して天使は完全に消滅する。同時に周囲に群がる人間たちをも物理的に消去する……。

 悪魔は絶対神の企みを読み取り、心の中でうめいた。

〝ゴッドよ……貴様は、なんと無謀なことをしでかしたのだ……。天使を滅ぼしてまで、人間のエネルギーをむさぼり喰おうというのか……〟

 天使に警官とジゴロが飛びかかった。

 天使は絶叫した。

「やめて!」

 起爆装置が動き始める――。

 もはや悪魔に選択の余地はなかった。

〝戦いは避けられぬな〟

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る