ドアレンズをのぞいたセールスウーマンが見たのは、見知らぬ若い男だった。

「あの……どなたでしょうか?」

 男は、わずかに声を上ずらせながら答えた。

「警官です。覚えていらっしゃいませんか? 以前、公園の前でお財布を見させていただいた……」

「あ、あの時のおまわりさん」

 セールスウーマンは警官の顔を思い出し、ドアチェーンを外した。

 ドアを開くと、警官は照れ臭そうに頭をかいていた。

「私服ですから、お分りにならなくても仕方ありませんよね。非番なんです」

 セールスウーマンは首をひねった。

「何かご用が?」

 警官は着ていたブルゾンのポケットに手を入れた。

「玄関先ですみませんが、ちょっとこの写真を見ていただきたくて……」

 警官が差し出した顔写真は、ジゴロのものだった。見知らぬ若い女と二人で撮った、記念写真らしい。バックには動物園らしい檻が写っている。

 セールスウーマンは口ごもりながら言った。

「この人たちが、なにか……?」

「男の方に見覚えがないでしょうか? ある事件の重要参考人なのですが、居所も素性も掴めないもので……」

 セールスウーマンは努めて深い息をしながらつぶやいた。

「あの……おまわりさんって、非番でもこうして聞き込みをなさるんですか?」

 警官はあからさまにうろたえた。

「いや……通常はこんなことはしませんが……」

「でしたら、なぜ私のところへ?」

 警官は写真をポケットに戻しながらうつむいた。

「実は先日、あなたがこの男と似た方と一緒におられたのを見かけまして……」

「あなた……私を見張ってらしたの?」

 セールスウーマンのさり気ない一言に、警官は飛び上がらんばかりに動揺した。

「と、とんでもない! あ、いや、いいんです。すみませんでした、きっとぼくの勘違いです。ご迷惑を……」

 警官は深く頭を下げ、帰る素振りを見せた。

 セールスウーマンは考えた。

〝まずいわ。警察がどこまで知っているか確かめなくちゃ〟

 セールスウーマンは言った。

「あら、今日はお休みなんでしょう? ちょっとお上がりになりませんか? 私、一人で退屈していたの。その男の方に見覚えはありませんけど、お話は聞いてみたいわ。強盗とか殺人とか、恐い事件なんでしょう? 興味があるな……」

 警官は柔らかく微笑むセールスウーマンをじっと見つめた。

「よろしいんですか? あの……旦那様は?」

 セールスウーマンは『財布は夫の物だ』と言い訳したことを思い出した。

「ああ、あれ。夫がいるっていったのは嘘。実はあのお財布、父から貰ったものなの」

「はあ……?」

「あの時はなんだか恥ずかしくって……。ねえ、上がってくださいよ。おまわりさんとお知り合いになれれば、女の一人暮らしも安心ですもの」

 警官は少年のように笑った。

「それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 セールスウーマンは警官の腕を引いてソファーに座らせ、キッチンに入った。紅茶を入れるふりをしながら財布を取り出し、カーディガンのポケットに滑り込ませる。

 警官の声が頭に流れ込んできた。

〝やっぱりきれいな人だな……一人暮らしだったなんて……思い切って訪ねてきてよかった。こんなに早く知り合いになれるなんて……でも、これからどうしたらいいんだろう。好きになっちゃうと、まともに話しかけられないからな、僕……〟

 セールスウーマンは気づいた。

 警官は公園の前で見かけた時から自分に恋をして、居所を探して近づこうとしていたのだ。その間にたまたまジゴロと共にいるところを発見し、手配写真が似ていることをきっかけにもう一度話をしようと試みたわけだ。

〝一度で惚れられちゃったんだ……あんなに疲れていた時だったのに。私も捨てたもんじゃないわね〟

 そう思ってみると、若い警官が好もしく思えた。顔つきは幼いが凛凛しく整っており、身体はよく鍛えられていて申し分ない。かつてのジゴロが漂わせていた危険な匂いとは対照的な、純真さが全身にあふれている。

 それが見かけだけではないことは、財布を握って感じた〝本性〟だから間違いはない。

 しかもセールスウーマンは、ジゴロに飽き始めていた。自分の言いなりになって殺人を続ける操り人形に、もはや〝男の野性〟を感じなくなっていたのだ。

 セールスウーマンは、新しい〝男〟を求めていた。

〝可愛い坊やね……お姉さんが抱いてあげようかしら〟

 セールスウーマンは警官の前に紅茶を出しながら言った。

「それでその写真の男の方、何をなさったの?」

 警官はかすかに震える手でカップを取り上げた。

〝こら、緊張するんじゃない……変に思われちゃうじゃないか……〟

〝あらあら、恐がらなくてもいいのよ〟

 警官は微笑んだ。

「実はここ数日、若い女性の不審な事故が続きましてね。たいていは轢き逃げなんですが、みんな頭蓋骨を砕かれていまして……。現場の状況から見ると、どれも不自然な傷だったんです。しかも、何人かが自宅にこれと同じような写真を持っていたんです。同じ男と二人で写した写真です。今朝、各交番に手配がされたんですけど、僕、一昨日あなたと一緒にいた方じゃないかと思いまして……」

 セールスウーマンは警官の前に身を乗り出して悪戯っぽく微笑んだ。ゆったりとしたTシャツの胸元から下着が見えることは計算している。

「それで、どうして私を見張っていたの?」

「ぐ、偶然だったんです」

「でも、私の部屋は知っていた……?」

「そ、それは……」

 警官は真っ赤になってうつむいた。震えた手のカップから紅茶がこぼれる。

「あち!」

 警官はあわてて、紅茶がかかったジーンズを手のひらでこすった。

 席を立ったセールスウーマンはキッチンから布巾を取って戻り、警官の横に座った。身体を押しつけながら濡れたジーンズをそっとこする。

「いいのよ、見張っていても。あなた、おまわりさんなんだから」

 セールスウーマンの指先は警官の股間にのびた。

〝あらいやだ、私どうしちゃったの? こんなに大胆に……でも、欲しい……この若い身体が欲しい……〟

 警官はかちかちに緊張していた。

〝どうしよう……どうしよう……どうしよう……〟

 セールスウーマンは言った。

「それで、あなたが私の部屋に来たことを上司の方は知っているの?」

〝とんでもない! 事件をネタに女の人に近づいたなんて知られたら、クビになっちゃう……〟

「あの……いいえ。ただ個人的に気になって……」

 セールスウーマンは警官に乳房を押しつけ、ぐっと顔を寄せた。

「うれしいわ、たった一度会っただけなのに、そんなに気にかけてくださるなんて……」

「も、もしかしたら、あなたが悪い男に騙されているんじゃないかと……」

〝そうね……騙されていたこともあるのよ〟

 セールスウーマンの唇は、警官の鼻に触れんばかりに近づいた。甘くささやく。

「火傷になったらたいへん。ジーンズを脱いで。乾かす間に手当てをして上げるわ」

 身体をソファーに押しつけられた警官はつぶやいた。

「でも……」

「非番なんだもの、仕事は忘れてもよくなくて?」

〝すごい……こんなに素敵な人と……〟

〝可愛がってあげる〟

〝でも、ぼくは警官なのに……初めてなのに……うまくできるかな……〟

 しかし警官は、ジーンズを脱がせようとするセールスウーマンを止めることはできなかった。

〝大丈夫よ、私が一から教えてあげるから。あら、真っ白なブリーフ。可愛い……〟

 警官のジーンズがひざまで下げられた時、玄関にかすかな物音がした。

 しかし高まる期待に血をたぎらせていた二人は、その音にまったく気づかなかった。セールスウーマンの手が股間のふくらみをまさぐる。警官はうっとりと目をつぶっていた。

「あ……」

 が、セールスウーマンがジーンズを脱がせきらないうちに、ジゴロの声が聞こえた。

「よう兄さん、なにやってるんだ?」

 二人ははっと目を上げた。

 振り返ったセールスウーマンはつぶやいた。

「あんた……」

 ジゴロはセールスウーマンを見つめて言った。

「俺がいない間に男をくわえ込んでいたのか?」

 警官が言葉に詰まりながら言い訳した。

「ぼ、僕がお茶をこぼして……洗濯してくださるっていうものですから……」

 ジゴロはセールスウーマンを見たままだった。

「洗濯するのに、なんでおまえが脱がせてるんだ?」

 セールスウーマンの頭に血が昇った。冷たく言い放つ。

「なによ、一人前の男みたいな口をきいて。私が何をしようと、あんたみたいな女ったらしにとやかくいわれる筋合いはないわ」

 そして心に中で付け加えた。

〝今じゃ私の言いなりのくせに。猿は引っ込んでいなさい〟

 ジゴロは一瞬息を呑んだ。そして、激情が噴き出す。

「てめえこそ一人前の口を聞くんじゃねえ! 淫乱ババアが!」

 それは、セールスウーマンに対して不自然な優しさを見せる以前の、ジゴロ本来の物言いだった。セールスウーマンが、憎みながらも離れることができなかった頃の荒々しさをむき出しにしたジゴロだ。

 セールスウーマンははっと身を引きながらも感じた。

〝そう、これよ……これが私が愛した男よ……〟

 が、とたんにジゴロの内なる言葉がセールスウーマンの頭に流れ込んできた。

〝おい、勘弁してくれよ……俺を棄てないでくれよ……おまえだけが頼りなのに……愛しているのに……〟

 ジゴロはセールスウーマンを失う恐怖に震え上がっていた。単なる強がりで、かつての粗雑な言葉を使っただけだったのだ。

 意表を突かれたセールスウーマンは戸惑った。

〝愛している……ですって? この男が、本気で私を愛しているですって?〟

 それは、セールスウーマンがずっと願い続けてきた言葉だった。だがジゴロの心がその一言を発した時、セールスウーマンはその願いが幻想にすぎなかったことを悟った。

〝愛なんか、いらない〟

〝愛しているのに……〟

〝私は『男』が欲しいのよ。たくましい男が。飼い慣らされた野良犬なんかたくさん〟

 その時、落ち着きを取り戻した警官が言った。

「貴様! 写真の男だな⁉」

 ジゴロは警官を見た。

「写真? 何の事だ?」

「重要参考人として同行してもらおう!」

 警官は立ち上がった。が、脚にからむジーンズでバランスを崩して床に倒れる。

 ジゴロは笑った。

「小僧め、何様のつもりだ?」

 セールスウーマンは冷たく言った。

「この人、警官よ」

 ジゴロはセールスウーマンを見つめた。

〝何だと? 警官……? こいつ、俺を売ったのか⁉ なんで⁉ こんなに尽くしたのに? 言われるままに五人も殺したのに? 嘘だ……嘘だ……棄てないでくれよ……〟

 セールスウーマンは溜め息をもらした。

〝こいつ、こんなにつまらない男だったのね……〟

 そして、はっきりと言った。

「警察はあなたの手配写真を持っているわ。あなた、殺人犯よ」

 ジゴロをはセールスウーマンを見つめた。

「そんな……俺はおまえに言われたから……おまえが殺せといったから……」

「殺したのはあなたよ」

 立ち上がろうともがく警官は、二人の会話に動きを止めてセールスウーマンを見上げた。

「まさか……あなたが殺させていたって……?」

 ジゴロは言った。

「捕まってたまるか! 俺の女を取られてたまるか!」

 ふりかえったジゴロは、テーブルの上から大きなガラスの灰皿を取った。それを不様にもがく警官の頭に叩きつける。

 頭蓋骨を割られた警官は、茫然とジゴロを見つめた。

「逮捕……する……ぞ……」

 身体を凍りつかせたジゴロは灰皿を落とした。

 警官の身体もぐったりと崩れた。

 セールスウーマンはつぶやいた。

「死んだわ……あなた、警官を殺したのよ……」

 それはジゴロにとって、自分が抱いてきた女たちを殺すのとは全く違った経験だった。

〝どうしよう……どうしよう……どうしよう……〟

 セールスウーマンは床でかすかに痙攣する警官をじっと見つめていた。

〝殺したのね……〟

〝警官を殺しちまった……どうしよう……〟

 セールスウーマンはにやりと笑って、ジゴロの股間に手をのばした。

「抱いて」

 だが、ジゴロの一物は小さく縮こまっていた。

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