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何度か深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻した作家は、うつむいたまま消え入りそうな声で語り始めた。
「僕は不器用で……子どものころから不器用で……何一つ人並みにできたことなんかなかったんです……いじめられっ子でね……頭も悪いし、運動神経も鈍いし……何をやってもみんなに笑われて……いつも物陰で息をひそめていましたっけ……大人になっても失敗ばかりで……こそこそ隠れる癖がすっかり身についてしまって……だから、仕事だって……他人には作家だと言っていますが、どこの出版社も僕の書いたものなんかに見向きもしないんです……なのに、恋をして……ある女性が好きで好きでたまらなくなってしまって……」
作家の口調は途切れ途切れで、聞き取りづらい。何が言いたいのかも掴めない。それでもセールスウーマンには長年の経験があった。話を合わせるコツは第二の天性と化している。
「当然のことですわ、人が人を好きになるのは。誰にだって愛する人は必要なんですから……」
「でも、僕は不器用なんです。気持ちを伝えようと思っても、関係ないことばかり口走って……息が苦しくて声も出ないし……ひどい頭痛はしてくるし……彼女はきれいだったし……思い詰めれば詰めるほど、彼女が僕を嫌っていくのが分かるし……」
多くの女は、そんな男を適当にあしらう例文を1ダースは貯えている。
「純粋なのよ、あなた。本当の恋をしたら、誰だってそうなるものよ」
そして不意に自分の立場に気づいた。
〝そう、私だって同じこと……。あいつがお金目当てのジゴロだって分かってるくせに、棄てられたくないばかりにこんな嫌な思いまでして……。あんな男に身体を許したばっかりに……泣きたくなるのはこっちよね……〟
記憶をたどることにのめり込んでしまった作家は、セールスウーマンの憂鬱な表情には気づいていない。
「でも、彼女は僕を避けて……それに、男友達も多くて……そいつらと一緒になって僕を笑っているのが分かるんです……」
話を進めさせなければ、いつまでたっても札束に手が届かない。
「で、あなたはどうなさったの?」
「何もできませんよ……『好きです』なんて言う勇気は、とても……不器用だから……」
「その方をあきらめて、今の奥さんとご結婚なさったの?」
「え? ああ……なんと説明したら分かってもらえるか……今、僕と一緒に暮らしているのは、僕が恋した人……いや、『だった』人なんですが……」
「あら、それじゃあ思いが叶えられたんじゃない。おめでとう」
「それはまあ、そうとも言えるんですが……」
「なにか問題が?」
「問題? ええ……不器用で……手先まで不器用なものだから、うまく組み立てられなくて……」
『組み立てる』と聞こえた。セールスウーマンにはその意味が理解できなかった。
「はい?」
「いきなりこんな事を言っても、分かりませんよね。何だか、ぼうっとしてしまって……僕、あまり人と話したことがないものだから……」
セールスウーマンは無造作に投げ出された札束をじっと見つめて、自分を励ました。
〝このお金が必要なのよ!〟
営業用の微笑みは常にスタンバイしている。
「いいんですのよ、ゆっくりで。どうせ私、他に予定はありませんから」
「ありがとうございます。でも、ご迷惑でしょう……?」
テーブルの現金が全て懐に入るなら、一ヵ月は休暇が取れる。
〝あきらめちゃだめ! このお金さえあれば、あいつをつなぎ止めておけるんだから!〟
「とんでもない。それで、奥さんとはどうやってご結婚なさったの? 真実の恋を貫いたなんて素敵だわ。映画みたいにロマンチック」
「彼女、結婚することになったんです。もちろん、僕とじゃありませんけど……」
「まさか、式場から強引に連れ去ったりして……?」
「式には行きもしませんでした……恥ずかしいし……呼ばれていないし……それどころか相手の男に、『彼女が気味悪がっているから二度と顔を見せるな』って殴られて……」
話が噛みあわないセールスウーマンは、じれったさに眉をひそめた。
「だって奥様は……」
「あの時ばかりは腹がたって……あんな女は死んでしまえばいいと……心の底から憎みました……それがいけなかったんです……」
「じゃあなぜ、あなたの奥さんは?」
「だから、どう説明すればいいか……普通の人には信じてもらえないような、馬鹿馬鹿しいような話で……」
「でも、奥様はあなたを選んだのでしょう?」
「いいえ、選んだのは僕なんです。あいつが現れて、選べって言うから……」
「あいつ?」
作家は顔を上げ、不思議そうに女を見た。
「あれ? まだ言ってませんでしたか? ごめんなさい、僕、話も下手だから……」
「あいつって、誰なんです?」
「悪魔ですよ、もちろん。他にあんな事ができる者なんか……。僕が〝死んでしまえばいい〟なんて考えたから……」
セールスウーマンはぱっくりと口を開いた。
〝あくま……? 本当にいかれてるの、こいつ……?〟
作家はまたも目を伏せた。
「ですよね……。信じられませんよね、普通の人には……」
セールスウーマンは、一瞬、素に戻った自分に気づいてうろたえた。だが、笑い方が思い出せない。
「ええ……まあ……」
「僕だって、始めは信じられなかったんだ。夢の中に……夢の中だと思うんですけれど、悪魔が現れるなんて……」
作家の表情に自信は微塵もない。今、誰かが『死ね』と命じれば、『はい』と答えてビルの十階から飛び降りそうにさえ見える。
窓のこちら側に財布を残したまま。
セールスウーマンは、覚悟を決めた。
〝妄想なのね……。それだってかまわない。とことんつき合ってやるわ〟持っている人間の精神が破綻していようと、現金は現金だ。〝あいつに逃げられたら、私はただの三十おばさん――。何としてもこの男を金づるにして、お金の力でつなぎ止めるのよ。悪魔ですって? 上出来じゃない。私も悪魔に魂を売って――いえ、私自身が悪魔になって、こいつからお金をむしり尽くしてやる!〟
「で、その悪魔はあなたに何と言ったの?」
作家は、上目づかいにセールスウーマンを見つめて答えた。
「願いをかなえてやるって……」
「つまり……?」
「『女を殺す』と言いました」
「でも……それじゃあ……?」
「悪魔は彼女を殺す代わりに、条件を付けてきたんです」
「条件……?」
「女はおまえのものになる……ただし、おまえが――つまり僕が死ぬまで、女は絶対に離れない……死ぬまで僕だけを愛し続ける……あきらめるか、自分のものにするか、選べ……そう言うんです……」
セールスウーマンの背に再び寒気が走った。
「そ、それで、あなたは……?」
「決まってるでしょう? 愛していたんですから」
「それじゃあ、悪魔が奥さまの心を変えて……?」
「とんでもない。悪魔は正直ですから、僕の願いをちゃんとかなえてくれました。悪魔は彼女を殺したんです。願い通りに」
「なんですって⁉」
「新婚旅行に行ったハワイで……なんでも、麻薬常習者に犯され、ばらばらに切り刻まれたとか……。結婚した男の方はナイフで腰を刺されて半身不随になったそうです」
「それなら、今のあなたの奥様はどうやって……?」
「悪魔が連れてきたんです……いえ、送ってよこしたんです」
「ばらばらの……奥さんを……?」
作家の顔にぱっと笑みが広がった。
「やっと分かってもらえた! ……と言っても、最初に届いたのは組み立て説明書なんですけど。悪魔は僕に言ったんです、簡単だって……小学生の工作なんかよりも、ずっと簡単だって……」
「組み立て――なんですって?」
「説明書。分厚い本で、カラー刷りで、人間の身体が骨から順に組み立てられるように……奇麗でしたけど、不気味だったな……よく読んでおけって言われたんですけど、僕、不器用だから、電気製品の説明書だとか、そういうものの読み方がさっぱり分からなくて……」
「まさか……」
「何日かして小包が届きました。骨がたくさん入っていましてね、これはどうにか組み立てられたんです。標準所要時間っていうのが書いてあって……たしか三時間だったかな……僕は徹夜してやっと組み立てましたけど……だって、箱を開けたらすぐ組み立てないと、組織が死んでしまうって脅かされていたから……」
「悪魔に?」
「もちろん。次に、冷凍の宅配便が届きました。心臓とか肝臓とか、内蔵が一式入っていましたっけ。徹夜明けでぼんやりしていたんですけど、ほっといたら死んじゃうし……とにかく無我夢中で組み立てました。特に筋肉をつなぐのが難しくて……でも、次から次から部品が届くし……何日徹夜したか、さっぱり分からないほどで……」
「そ……それで……最後まで組み立てたんですか……?」
「精一杯やったんです……。最後に届いたのは血でした。大きなポリタンクに入っていて……それを口に注ぎ込んだんです……」
「で……生き返った……?」
「その点では……いいえ、他のどんなことでも悪魔は嘘をつきませんでした。生き返りましたよ、彼女は」
「信じられない……」
「僕も信じられませんでした。自分がこれほど不器用だったとは……」
「だって、生き返らせたんでしょう? 不器用だなんてとんでもない!」
「でも、元通りにはできなかったんですから……」
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