悪魔の夜明け

岡 辰郎

第一章・作家の恋

 男は激しく自分を責めた。

〝僕はいったい、この女をどうしようというんだ……?〟

 他人に心を操られているような不安と苛立ちが、両目の裏側で激しく渦巻いている。鼻腔には、女が放つほのかな香りが容赦なく溢れ、脳髄にギリギリと突き刺さる。

 男は視線を上げられない自分の気の弱さを呪いながら、つぶやいた。

「化粧品のセールス――でしたっけ……」

 その女――セールスウーマンが、強引に上がり込んできたわけではない。戸口に〝女〟が立っているのを見た瞬間に、男の理性が溶け去ってしまったのだ。

 後に残ったのは、白濁した記憶の空白――。

 男が呼吸を整えて落ち着きを取り戻した時、セールスウーマンはすでにリビングに上がって革張りの応接セットの向かいに座っていた。

〝なんだって僕は他人を家の中に入れたんだろう……〟

 男はぼんやりと自分の手を見下ろしたまま動けずにいた。

 一方のセールスウーマンも、ひどくとまどっていた。

 いつまで待っても妻に取り次ごうとしない男を気まずそうに見つめている。

「あの……奥様……ご不在でいらっしゃいますの……?」

 新製品のサンプルは小型の金属トランクにぎっしり詰め込んである。厚い樫の一枚板のテーブルにこれ見よがしに置き、蓋を開ける機会をうかがっていたのだ。

 だが、相手が腹の出た中年男では話にならない。

 セールスウーマンは後悔し始めていた。

〝冒険はやめておくべきだったかしら……〟

 住宅街から離れてぽつんと建つ、英国の田舎風の豪邸――。

 周辺の話から、屋敷の主人は売れない作家だとの情報が得られた。だが敷地は広大なのに使用人の姿もなく、極端に人づき合いが悪いという。夫婦で住んでいるらしいのに、誰も婦人の姿を見たことがない。庭もろくな手入れがされていない。それが原因で、数々の噂話も乱れ飛んでいた。

 本当は指名手配されている犯罪者なのではないか――。

 妻を殺して莫大な保険金をせしめたのではないか――。

 左翼過激派の生き残りか、精神異常者か――。

 それとも隠遁生活を送っている富豪か、本当に人嫌いな覆面大作家なのか――。

 電話はハローページには載せられておらず、買物はすべて宅配か通信販売で取り寄せているという。町内会費を徴収に訪れた老婦人は『五十年分を一度に渡すから二度と来るな』と怒鳴られて追い返されたと愚痴をこぼした。

〝自称〟作家だとはいえ、誰もペンネームすら知らない。そんな〝隣人〟が町中から不気味に思われるのは当然だった。

 それでも、金が有り余っていることは屋敷を見れば分かる。部屋数は軽く二十を越えていそうだし、ドアが開いた瞬間に身体を押し込んだ玄関ホールは、普通の家一軒が丸ごと入りそうに思えるほど広い。しかもホールに敷かれたカーペットは、本物のペルシャ製にしか見えない。

 応対に出た主人らしい男も、金をかけた身なりをしていた。高級ブランドのカジュアルウェアがぎごちなく見えるのは本人のセンスが足りないためであって、貧しさが原因ではありえない。

 商売を選ぶか、安全を取るか――。

 あと十万円分の契約を結べばボーナスの額が跳ね上がるところまで、こぎ着けている。まとまった金を作る必要があったセールスウーマンに選択の余地はなかった。

 異常者が潜むかもしれない町外れの屋敷――並のセールスウーマンが真っ先に避けるタイプだけに、仕事仲間を出し抜いて大きな商売につながる可能性があると踏んだのだが……。

〝あと一回だけ押してみて……それでだめなら、撤収……〟

 セールスウーマンは、声を大きくした。

「奥様はいらっしゃいませんか?」

 男――自称〝推理作家〟は我に返ってセールスウーマンを見つめた。ぼんやりと言う。

「え? ああ……妻、ですか……」

 歯切れが悪い。まるで、他人と向き合っていることを忘れていたように。あるいは、自分自身が誰なのかを忘れてしまった老人のように。

 相手が認知症の老人なら、とりあえず身の危険は少ない。セールスウーマンは、もう一歩だけ先に進もうと決めた。

〝あと五分間だけ粘ってみよう。お金が要るんだもの……〟

「さきほどは、いらっしゃると……?」

「ええ……二階に……でも、少し具合が悪くて……」

 セールスウーマンは心の中で舌打ちをした。

〝なんですぐ言わないのよ!〟

 営業員にとって時間は金だ。ここで無駄な時間を過ごせばボーナスアップどころか、手取りが目減りする。

 だが、どうせ一回で〝大物〟が釣れるはずもない。

〝この場は素早く引き下がって好印象を与えておいて、次回に希望をつなごう〟そう考えたとたん、こわばっていた心がほぐれた。〝次は高額シリーズをまとめて持ってこよう。見てらっしゃい、残らず売りつけてやるから〟

 セールスウーマンは素早く名刺を取り出しながら、さも残念そうに答えた。

「それは大変。残念ですけど、出直してまいりましょう。奥様によろしくお伝えください」

 席を立とうとするセールスウーマンを、作家は慌てて止めた。

「いや。お話は僕が……」

 セールスウーマンは、意外そうに作家を見返す。

〝なに、この男? 僕が、って……化粧品のセールスなのに?〟

 セールスウーマンは、自分が作家を不気味そうに見つめていることに気づいて、あわてて口元に笑みを戻した。

 作家はそれに気づかなかった。目を上げてもいない。

 作家は、闘っていたのだ。

 目の奥で渦巻く不安は大きくなる一方だ。反射的にセールスウーマンを引き留めた自分を、激しく責める。

〝僕はなにを言っているんだ? 追い返せ……五年以上も人目を避けてきたのに……。秘密を知られたら取り返しがつかないのに……。だめだ……こんなことじゃだめだ。絶対に追い返すんだ。『帰れ』と言うんだ!〟

 意を決した作家は、初めてセールスウーマンと目を合わせた。

 とたんに渦巻きが止まった。脳が痺れる――。

 そして、答えを手に入れた。

〝僕は飢えている……。女の匂いに飢えているんだ……〟

 セールスウーマンは、若いとはいえない。それでも、美しかった。歳は三十前後らしいが、成熟した大人の女の香りを漂わせている。自分自身が化粧品の看板だけあって、淡いピンクのスーツも隙なく決まっている。通りすがりの男たちを振り向かせるような磁力を強烈に放っていた。

 作家の視線は、セールスウーマンの豊かな胸に落ちた。

 ごくり……と、喉が下がる。

〝飢えているんだ……〟

 セールスウーマンの薄い唇が歪んだ。

〝どうしよう……この男、気味悪い。やっぱり賭けは避けた方がよかったみたい……〟

 しかし、身に染みついた営業用の言葉づかいが乱されることはない。

「ですが、奥さまにでないと商品の説明もご理解いただけないかと……」

 作家は不意にテーブルに手を突いて身を乗り出した。妖しい光を宿した目で、じっとセールスウーマンを見つめる。

 セールスウーマンは反射的に身を引いて、口をつぐんだ。

〝やだ……逃げなくちゃ!〟

 しかしその時、作家の目にセールスウーマンの姿は映ってなかった。

 痺れた脳が辛うじて認識していたのは、セールスウーマンが玄関口でまくし立てた〝売り文句〟だった。

 たった一つのフレーズが脳の中心でとぐろを巻いている。

「あなた……さっき『どんな女でも美しくできる』って言いましたよね?」

 たしかにセールスウーマンは言った。

『私どもの製品はどのような方にも似合い、必ず最高の美しさを引き出します……』

 ドアチェーンを外させるための常套句だ。

 単なる枕詞にすぎなくても、真正面から念を押されれば引き下がるわけにはいかない。プロの――というより、女の意地だ。

 セールスウーマンは動揺を押さえながらも、きっぱりとうなずいていた。

「それは、もちろん。ですが、説明は奥様にではないと……」

 作家の耳に、答えの後半は聞こえていなかった。再びソファーに尻を埋めると、たっぷりと母乳を吸って満足しきった幼児のような笑顔を見せた。

〝そうか……。そうなんだ……。だから僕は、この女を家に上げたんだ……。あいつを綺麗にするために……美しかった頃のあいつに戻すために……〟

 セールスウーマンは、しまりのない微笑みを浮かべる作家に向かって繰り返した。

「ですから、使用法は奥様にでないと理解いただけないかと――」

 作家はセールスウーマンの目をしっかりと見返した。

「僕に使い方を教えてください。必要なものは何でも買いますから。現金ならあるんだ」

 作家は追い詰められたゴキブリを連想させるせわしない動作で、しわだらけのズボンの尻ポケットから長財布を抜いた。薄く折りたたまれた黒い皮の長財布から、意外なほど分厚い札束が現れる。

 百万円は下らない。

 セールスウーマンは目を丸めた。

〝あら。やっぱりあるんじゃない〟

 札束に引き寄せられたセールスウーマンの目に微笑みが戻り、いつでも逃げ出せるように浮き上がっていた腰がソファーに軟着陸した。

「ええ、そういうことでしたら……」

「使い方が分かりさえすればいいんです。頑張って僕が憶えます。あなたがやって見せてくれますか?」

「でも、本当によろしいんですか? お肌にはそれぞれの特徴があって、ご本人でないと使うテクニックが微妙に――」

 作家は突然、声を荒らげた。

「いいと言っているだろう! 金は払うんだ。どうすれば妻を人並みにできるか、教えてくれ!」

 セールスウーマンは慌ててうなずいた。

 仕事は、化粧品を売ることだ。買った人間がそれをどう使うかは、問題外だ。

 一万円札の束の前では――。

 トランクを開く。

「はい、そうおっしゃるなら……。女の化粧、ご存じですか?」

 作家はまたも不安そうに目を伏せた。

「いいえ……実は何も……」

「では、初歩から。まずこれがファンデーションで……」

 セールスウーマンは手早く小瓶に入ったサンプルをテーブルに並べた。次に慣れた手つきで自分の化粧を落とすと、実際にサンプルを塗っていく。

 実演しながらの商品説明は小一時間も続いた。

 作家は身じろぎもせず、じっと説明に聞きいっていた。無駄なく動くセールスウーマンの両手を、魔法を見るように凝視している。

 セールスウーマンの説明が一段落すると、作家はぽつりとつぶやいた。

「あなたが羨ましい……。なんて器用なんだ……」

 サンプルをトランクにしまうセールスウーマンは、手も止めずに営業マニュアルの〝応答例〟を口にしていた。

「あら、そんな。このぐらい、奥さまにもできましてよ」

 作家はむっとしたようにセールスウーマンをにらみつけた。視線には明らかな敵意が浮かび上がっている。

「普通の人間なら誰でもできる……か?」

 作家の唐突な苛立ちが、セールスウーマンの表情を曇らせた。

〝え? 何か地雷を踏んだ?〟

 セールスウーマンは内心のおびえを隠しながらつぶやいた。

「ええ……まあ……」

 作家は腰を浮かせて叫んだ。

「俺はそう言われて騙されたんだ! 誰だってできる……説明書通りに組み立てれば、小学生にだって……プラモデルみたいに簡単だって……あいつがそう言うから……」

 作家はいきなり涙をあふれさせ、テーブルに突っ伏すと頭を抱え込んでしまった。

 セールスウーマンは作家の態度の激変が理解できずに、溜め息をもらした。が、テーブルの上には現金がある。

 猫がすり寄るように、喉が鳴った。

「あの……何かお悩みですの……? 私でよろしければ、ご相談に乗りますが……」

 作家はゆっくり顔を上げた。意外な発見をしたように目を丸くしている。

「そうか……そうなんだ……僕は話したかったんだ……。誰かに聞いてもらいたかったんだ……」

 ようやく会話のきっかけをつかんだセールスウーマンは、にこやかに笑った。

「なにかしら? 奥様のこと? お話を聞くだけでよろしければ、喜んで……」

 作家は再びにっこりとうなずく。

「秘密……守れますよね?」

 セールスウーマンの背筋に、冷たい電気が走り抜ける。

「秘密……?」

「守ってもらわないと、困るんです」

 作家の顔から微笑みは消えていない。しかしその目からは〝狂気〟がにじみ出していた……。

〝やだ……やっぱり、こんな不気味な家に来るんじゃなかった……〟

 セールスウーマンのためらいを察した作家は、さらに長財布から現金を取り出してテーブルに並べた。

 二百万――三百万――。

 セールスウーマンはうなずいた。

「守ります。絶対に……」

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