3
二階からかすかな物音がした。
作家は、壁の時計を見て異様にうろたえた。
「いけない! もうこんな時間だ!」
セールスウーマンは言った。
「まだ二時ですが……?」
「彼女が起きるんです。いつもこの時間に……」
セールスウーマンの頭に、つぎはぎだらけの〝モンスター〟の姿が浮かんだ。
〝まさか……。この男の妄想に決まってるじゃない。頭がいかれてるだけよ〟
ごくりと唾を飲んだが、考える前にマニュアルの〝応答例〟が口を突いていた。
「お会い……しましょうか? 商品の説明も――」
作家の声は、焦りのあまり甲高く裏返った。
「とんでもない! 彼女は僕だけを愛しているって言ったでしょう。他の女を家に上げたと知られたら、どんなに嫉妬するか!」
セールスウーマンはほっとしたように肩を落とした。素早く札束をかき集めてトランクに入れ、立ち上がる。
「サンプルは置いていきます。商品は明日にでもお持ちいたしますので――」
作家は取られた金にはまったく関心を示さなかった。
「そうしてください」
が、二階から大きな声が響く。
「あなた……居間なの?」
たしかに女の声だが、喉から空気がもれているように、不鮮明だった。
作家は青ざめた。
「間に合わない! そこに隠れて!」
作家は壁に作りつけられた大きなクローゼットの鎧戸を指さした。
「サンプルは?」
「早くしまって!」
セールスウーマンはサンプルの小瓶をかき集めてトランクに詰め込み、それをつかんでクローゼットに飛び込んだ。内側から扉を閉じる。
応接室に直接下りる階段に、作家の妻の柔らかい足音が――。
セールスウーマンは、息をひそめて鎧戸の細い隙間から二人の様子をうかがった。
〝馬鹿ね……何をおびえているのよ。妄想に決まっているのに……〟
ソファーから立ち上がった作家はせわしなく身だしなみを整えた。頬には、恐怖を隠すような、引きつった微笑みが貼り付いている。
居間に降り立った妻の顔が、隙間から見える。
妻は、おびえる作家に穏やかに笑いかけた。
美しくはない。しかし、醜くもなかった。着ているパステルカラーのワンピースが似合うとは言い難かったが、繁華街を歩けば十秒に一度はすれ違うような、ありふれた女だ。
〝ほら、ただの女じゃない〟
セールスウーマンは、自分が安堵の溜め息をもらしたことに気づいていなかった。
だが、作家が見せた脅えはいっこうに消えない。声も引きつっている。
「君……よく眠れたかい?」
妻の声は、やはり不鮮明だった。
「いつもの通り。だから、欲しくて……。なぜ来てくれないの? あなたを愛させて」
作家は二、三歩退いた。
「ごめんよ。考え事をしていて……あ、そうだ! その前に、何か作ってくれないか? 腹がへって……」
妻は両手を口の前で合わせて、少女のように叫んだ。
「嬉しい! 作っていいの⁉ 私が作ったもの、食べてくれるの⁉」
作家はさらに血の気を失いながらも、激しくうなずいた。
「ああ……久しぶりにお願いするよ。サンドイッチでも……」
「得意よ! 待っててね!」
妻は満面に笑みを浮かべて、キッチンに走り込んだ。
〝なにさ、かわいい奥さんじゃないの。化け物扱いして、ひどい亭主〟
妻の姿が消えると、作家は振り返ってクローゼットに向かって手招きした。
〝出ろ、って?〟
セールスウーマンはゆっくりと鎧戸を押して外へ出た……。
大げさすぎる作家の緊張を笑うわけにもいかず、調子を合わせるように、トランクを胸に抱きしめて息を殺していた。空き巣の見習いのような摺り足が、自分でも滑稽だった。
〝ばっかみたい〟それでも視線で問いかけていた。〝奥さん、何がおかしいの? 私にどうしろって?〟
「……?」
作家はセールスウーマンの口を塞ぐために、激しく首を振る。
「……!」
作家はそっと大理石張りのキッチンを覗き込んだ。
その背後から、セールスウーマンも様子をうかがう。
妻はシステムキッチンに向かってキュウリを刻んでいる。小さなハミングが聞こえた。背を向けているから、応接室の様子は見えないはずだった。
振り返った作家は、セールスウーマンの肩をつかんで押し戻す。思い切り小さな声で命じた。
「逃げて……今のうちに……」
セールスウーマンもつぶやく。
「だって……かわいい奥さんじゃないですか……」
「とんでもない……見かけだけ……」
と、キッチンから妻の叫びが聞こえた。
「痛い!」
作家はコンセントで感電したかのように身を震わせて目を見開き、ぐびりと喉を鳴らした。
「あ……また……だから、嫌だったんだ……」
妻の悪態がさらに続く。
「あら……いやだ……なんで……もう……いつもこうなんだから……」
作家は、再びキッチンを覗こうと身を乗り出すセールスウーマンを押した。
「いいですか……逃げるんですよ……」
妻が甲高い声を上げる。
「あなた! 助けて! 指が!」
作家はキッチンに向けて叫ぶ。
「あ……待ってね……すぐ行く……」
そして、セールスウーマンに念を押した。
「逃げるんですよ、必ず」
セールスウーマンは仕方なくうなずいた。
「はい……」
「絶対ですよ。僕が妻の気を引いているうちに」
「はい……」
作家は安堵の溜め息をもらして、キッチンに入った。
*
数十分の悪戦苦闘の末、テーブルにサンドイッチと紅茶が並んだ。
満足気にソファーに腰をおろした妻は、にこやかに一切れをつまんで口に運ぶ。
「おいしいわ! あなたも食べて!」
「あ……ああ……」
作家はかすかに震える手でサンドイッチを取った。さり気なく匂いをかいでから、恐る恐る口に入れる。
「どう?」
「う……うん……おいしいよ……」
と、作家の口が止まった。ゆっくりと開き、舌に乗った異物をつまみ出す。
指だった。
妻は笑った。
「変なもの、入っていた? ごめんね。気をつけたんだけど……」
「いいや……ただの指さ……なんでもないよ……」
と言った作家は、さらに口の中から〝何か〟をほじり出した。
指先でつまんだ不定形の〝物体〟は、赤いゼリーのように見えた。風に吹かれているように、ぷりぷりと落ちつきなく揺れている。
作家は無言で妻にそれを手渡した。
「ごめんね……気をつけたのに……」
妻は恥ずかしそうに目を伏せ、紅茶のカップに手をのばす。手が滑った。指が二本、欠けていたせいだった。
カップいっぱいの熱い紅茶がワンピースにこぼれた。
妻は身じろぎもせずに、湯気をたてるワンピースをじっと見下ろした。そして、哀しげにつぶやいた。
「私って、いつもこう……ばかね……ごめんね、ばかで……あなたを幸せにしてあげたいのに……」
作家は、サンドイッチを無理やり口に詰め込んだ。
「そ……そんなことはない……おいしいよ……」
妻はぱっと笑って、皿を押し出した。
「そう? 嬉しい! 全部食べてね!」
作家は喉を詰まらせた。
「いや……これで……これ……だけで……いいよ……」
激しく胸を叩く。
「大丈夫?」
作家は固く閉じた目から涙をにじませた。
「ああ、苦しかった……。何だか急におなかがきつくなって……」
「そう……残念ね。いいわ、私、食べちゃおうっと」
そう言った妻は、たちまちサンドイッチをたいらげた。そして食器を集め、そそくさとキッチンに下げる。
作家は一人つぶやいた。
「あの人を無事に帰せただけで、いいとするか……」
その時、クローゼットの中でかすかな物音がした。衣ずれのような……。
〝まさか⁉〟
妻が戻った。
「かたずけは、後……。愛して」
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