二階からかすかな物音がした。

 作家は、壁の時計を見て異様にうろたえた。

「いけない! もうこんな時間だ!」

 セールスウーマンは言った。

「まだ二時ですが……?」

「彼女が起きるんです。いつもこの時間に……」

 セールスウーマンの頭に、つぎはぎだらけの〝モンスター〟の姿が浮かんだ。

〝まさか……。この男の妄想に決まってるじゃない。頭がいかれてるだけよ〟

 ごくりと唾を飲んだが、考える前にマニュアルの〝応答例〟が口を突いていた。

「お会い……しましょうか? 商品の説明も――」

 作家の声は、焦りのあまり甲高く裏返った。

「とんでもない! 彼女は僕だけを愛しているって言ったでしょう。他の女を家に上げたと知られたら、どんなに嫉妬するか!」

 セールスウーマンはほっとしたように肩を落とした。素早く札束をかき集めてトランクに入れ、立ち上がる。

「サンプルは置いていきます。商品は明日にでもお持ちいたしますので――」

 作家は取られた金にはまったく関心を示さなかった。

「そうしてください」

 が、二階から大きな声が響く。

「あなた……居間なの?」

 たしかに女の声だが、喉から空気がもれているように、不鮮明だった。

 作家は青ざめた。

「間に合わない! そこに隠れて!」

 作家は壁に作りつけられた大きなクローゼットの鎧戸を指さした。

「サンプルは?」

「早くしまって!」

 セールスウーマンはサンプルの小瓶をかき集めてトランクに詰め込み、それをつかんでクローゼットに飛び込んだ。内側から扉を閉じる。

 応接室に直接下りる階段に、作家の妻の柔らかい足音が――。

 セールスウーマンは、息をひそめて鎧戸の細い隙間から二人の様子をうかがった。

〝馬鹿ね……何をおびえているのよ。妄想に決まっているのに……〟

 ソファーから立ち上がった作家はせわしなく身だしなみを整えた。頬には、恐怖を隠すような、引きつった微笑みが貼り付いている。

 居間に降り立った妻の顔が、隙間から見える。

 妻は、おびえる作家に穏やかに笑いかけた。

 美しくはない。しかし、醜くもなかった。着ているパステルカラーのワンピースが似合うとは言い難かったが、繁華街を歩けば十秒に一度はすれ違うような、ありふれた女だ。

〝ほら、ただの女じゃない〟

 セールスウーマンは、自分が安堵の溜め息をもらしたことに気づいていなかった。

 だが、作家が見せた脅えはいっこうに消えない。声も引きつっている。

「君……よく眠れたかい?」

 妻の声は、やはり不鮮明だった。

「いつもの通り。だから、欲しくて……。なぜ来てくれないの? あなたを愛させて」

 作家は二、三歩退いた。

「ごめんよ。考え事をしていて……あ、そうだ! その前に、何か作ってくれないか? 腹がへって……」

 妻は両手を口の前で合わせて、少女のように叫んだ。

「嬉しい! 作っていいの⁉ 私が作ったもの、食べてくれるの⁉」

 作家はさらに血の気を失いながらも、激しくうなずいた。

「ああ……久しぶりにお願いするよ。サンドイッチでも……」

「得意よ! 待っててね!」

 妻は満面に笑みを浮かべて、キッチンに走り込んだ。

〝なにさ、かわいい奥さんじゃないの。化け物扱いして、ひどい亭主〟

 妻の姿が消えると、作家は振り返ってクローゼットに向かって手招きした。

〝出ろ、って?〟

 セールスウーマンはゆっくりと鎧戸を押して外へ出た……。

 大げさすぎる作家の緊張を笑うわけにもいかず、調子を合わせるように、トランクを胸に抱きしめて息を殺していた。空き巣の見習いのような摺り足が、自分でも滑稽だった。

〝ばっかみたい〟それでも視線で問いかけていた。〝奥さん、何がおかしいの? 私にどうしろって?〟

「……?」

 作家はセールスウーマンの口を塞ぐために、激しく首を振る。

「……!」

 作家はそっと大理石張りのキッチンを覗き込んだ。

 その背後から、セールスウーマンも様子をうかがう。

 妻はシステムキッチンに向かってキュウリを刻んでいる。小さなハミングが聞こえた。背を向けているから、応接室の様子は見えないはずだった。

 振り返った作家は、セールスウーマンの肩をつかんで押し戻す。思い切り小さな声で命じた。

「逃げて……今のうちに……」

 セールスウーマンもつぶやく。

「だって……かわいい奥さんじゃないですか……」

「とんでもない……見かけだけ……」

 と、キッチンから妻の叫びが聞こえた。

「痛い!」

 作家はコンセントで感電したかのように身を震わせて目を見開き、ぐびりと喉を鳴らした。

「あ……また……だから、嫌だったんだ……」

 妻の悪態がさらに続く。

「あら……いやだ……なんで……もう……いつもこうなんだから……」

 作家は、再びキッチンを覗こうと身を乗り出すセールスウーマンを押した。

「いいですか……逃げるんですよ……」

 妻が甲高い声を上げる。

「あなた! 助けて! 指が!」

 作家はキッチンに向けて叫ぶ。

「あ……待ってね……すぐ行く……」

 そして、セールスウーマンに念を押した。

「逃げるんですよ、必ず」

 セールスウーマンは仕方なくうなずいた。

「はい……」

「絶対ですよ。僕が妻の気を引いているうちに」

「はい……」

 作家は安堵の溜め息をもらして、キッチンに入った。


         *


 数十分の悪戦苦闘の末、テーブルにサンドイッチと紅茶が並んだ。

 満足気にソファーに腰をおろした妻は、にこやかに一切れをつまんで口に運ぶ。

「おいしいわ! あなたも食べて!」

「あ……ああ……」

 作家はかすかに震える手でサンドイッチを取った。さり気なく匂いをかいでから、恐る恐る口に入れる。

「どう?」

「う……うん……おいしいよ……」

 と、作家の口が止まった。ゆっくりと開き、舌に乗った異物をつまみ出す。

 指だった。

 妻は笑った。

「変なもの、入っていた? ごめんね。気をつけたんだけど……」

「いいや……ただの指さ……なんでもないよ……」

 と言った作家は、さらに口の中から〝何か〟をほじり出した。

 指先でつまんだ不定形の〝物体〟は、赤いゼリーのように見えた。風に吹かれているように、ぷりぷりと落ちつきなく揺れている。

 作家は無言で妻にそれを手渡した。

「ごめんね……気をつけたのに……」

 妻は恥ずかしそうに目を伏せ、紅茶のカップに手をのばす。手が滑った。指が二本、欠けていたせいだった。

 カップいっぱいの熱い紅茶がワンピースにこぼれた。

 妻は身じろぎもせずに、湯気をたてるワンピースをじっと見下ろした。そして、哀しげにつぶやいた。

「私って、いつもこう……ばかね……ごめんね、ばかで……あなたを幸せにしてあげたいのに……」

 作家は、サンドイッチを無理やり口に詰め込んだ。

「そ……そんなことはない……おいしいよ……」

 妻はぱっと笑って、皿を押し出した。

「そう? 嬉しい! 全部食べてね!」

 作家は喉を詰まらせた。

「いや……これで……これ……だけで……いいよ……」

 激しく胸を叩く。

「大丈夫?」

 作家は固く閉じた目から涙をにじませた。

「ああ、苦しかった……。何だか急におなかがきつくなって……」

「そう……残念ね。いいわ、私、食べちゃおうっと」

 そう言った妻は、たちまちサンドイッチをたいらげた。そして食器を集め、そそくさとキッチンに下げる。

 作家は一人つぶやいた。

「あの人を無事に帰せただけで、いいとするか……」

 その時、クローゼットの中でかすかな物音がした。衣ずれのような……。

〝まさか⁉〟

 妻が戻った。

「かたずけは、後……。愛して」

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