04.もう食べるなとは申し上げにくい
翌日。シャルルは早々に腹筋運動ギブアップ宣言をした。
自室の床に両手両足を投げ出して転がって。
「無理無理。持ち上がりません」
ヴィオレットが入ってきたことを知ってもなお転がって、喚いている。
「慣れれば楽なんですけどね。ただ持ち上げるだけですし」
「ただ」
「頭の後ろで組んだ腕の肘と、曲げたままの膝をくっつけるように持ち上げるというのもありますよ」
「絶対やらない!」
シャルルの傍に膝をついたハロルドが首を捻る。
「腹筋だけで上体を上げるには、殿下の体は重過ぎるのでしょうか」
「もしかしたら、ではありません。間違いなく、です」
ヴィオレットは大げさに溜め息を吐いてみせる。
「貴女もそうお考えになりますか」
「当然ですわ」
笑みを浮かべたハロルドに、どうぞ、と促されて。ヴィオレットは修繕されたソファに腰を下ろした。
とほほ、と泣いて、シャルルも起き上がる。その動きは緩慢で、両手を床について膝を庇いながら、というもの。
「……お年寄りのようですわ」
「いいんだよー、立ち上がれるんだからー」
そのシャルルがヴィオレットの横に腰を下ろした瞬間、ソファは傾いだ。もちろんシャルルの側に、だ。
「殿下、大変申し上げにくいのではございますけど」
「とても申し訳ないって思っている顔に見えないよ、ヴィオレット」
「やはり重過ぎなんだと思いますわ」
「どうして?」
今ならシーソーごっこができる。まったく嬉しくない。
両手の指先でこめかみを抑えると、ハロルドがまた吹き出すのが聞こえた。
「本気で体重を減らすことを考えてましょうか」
「えー、何をする気ー?」
「食事制限ですかね」
「やだよ!」
どうしても食べたいらしい。
シャルルがむちむちの拳を突き上げるのを横目に、ハロルドに問いかけた。
「あなたの仕事に食事の管理は含まれていないんですか?」
「勿論、やれと言われればやります。徹底的に」
ですが、と彼は苦笑いをした。
「食事をしている殿下を見ると、もう食べるなとは申し上げにくいのですよね」
「そこをはっきり指摘してください」
「善処します」
クスクスくすくす、ハロルドは笑う。シャルルも笑った。
「今だってもう、ハロルドは運動後の軽食を用意してくれているんだよね? 食べないかい?」
「運動を諦めた方に運動後の軽食はございません」
「えー。食べたーい」
頬を震わせたシャルルに。
「腹筋の代わりに…… 散歩に参りませんか?」
眼鏡を押し上げたハロルドが答える。
「歩くことで、脂肪を燃焼させられ、体重を減らせます。しかし、ただ歩くだけ、では飽きますからね。誰かとおしゃべりをしながら、というのがよろしいでしょう。庭園であれば、お話のネタにも困りません」
「名案だ、ハロルド!」
シャルルが手を打つ。
「庭園、いいね! 今の時期なら、珍しい薔薇が見られる。行こうよ、ヴィオレット」
笑いかけられて、脳裏に思い描く。
シャルルの部屋からは見えないが、ヴィオレットの滞在する客室からは見えた。広い敷地の、整然とした王宮の庭。
建物からまっすぐに伸びた道の突き当りは噴水。流れる水を浴びるように、左右対称に配置された馬の形のトピアリー。足跡を模した配色と思しき、花の配置。
存分に時間と人手がかけかれたと見てとれる場所だ。
「興味はございますけれど」
と、ヴィオレットは視線を足元に落とした。
今日の靴は、細く高いヒール。
だが、ヴィオレットは歩くのが下手なのだ。一歩一歩を踏み出すのも覚束ないのに、続けて進み続けるのは困難だ。
「今は、すこし、難しいですわ」
足元を見つめたまま呟く。
「どうして?」
シャルルはきょとんとしていたが、ハロルドは、ふむ、と頷いた。
「そちらの靴は散歩に向いていると言い難いですね。替えを取りに行ってまいりましょう」
一礼、そのまま彼は扉の外へ。止める間もない。
「そんなに散歩に行きたいの?」
目が丸くなった。
「ハロルドが、っていうより、僕が、だよ」
シャルルが笑う。
まもなく彼は戻ってきた。フラヴィは、すぐに散歩用の着替えを用意するから部屋に一度戻ってこい、と言ったのだという。
「着替え!?」
シャルルが素っ頓狂な声を上げる。
「このままじゃダメなのかい!?」
「私も、靴だけ替えられればと思ったんですけどね」
ハロルドも苦笑いだ。
「フラヴィ女史が是非にとおっしゃいますので」
「では、一度戻りますね」
ヴィオレットは立ち上がる。
ソファがまた傾く。床に近くなった片側に座ったまま、ほー、っとシャルルは息を吐いた。
「女性は大変だ。場面場面でドレスを変えなきゃいけないなんて。ヴィオレット、すごいね。僕には無理だ」
「衣装を変えることがですか?」
「そうそう」
はちきれそうになっているシャツを横目に、着替えに向かう。
時と場所と状況に相応しい衣装を身に着けること。それもまた、ヴニーズ侯爵令嬢に求められることだ。フラヴィが戻って来いといったのはおかしくないと、ヴィオレットは思う。
改めて用意された一式、丈は短いがフリルが多かった。くるぶしの見えるデイドレスと、同じ緑色の生地で作られたボンネット。足首までを覆う皮の編み上げ靴。
着替えている間に、手ぶらのシャルルと大荷物を抱えたハロルドが部屋の前までやってきていた。
シャルルのエスコートで庭園へ。
「そっちに黄色い薔薇が咲いているだろう? あれはこの時期にしか咲かないんだ」
横を歩く彼の声は明るい。
「向こうの紅は四季咲きなんだけど、咲くタイミングで大きさが違う。春先だともっと大きいんだ。
あっちの白は一年中同じ雰囲気なんだよ」
「詳しいですね」
ヴィオレットはあいまいに微笑んで、頷いた。
左手で触れた腕は、握ってもいないのに弾んだ感触が伝わってくる。一歩一歩のタイミングで揺れているのが伝わってくる。
揺れるのはフリルだけでいいと苦笑いする。
そんな二人の後ろを、ハロルドとフラヴィも付いて来る。ちらりと見ると、彼らも笑顔で言葉を交わしていた。
やがて。
シャルルは、ふうふう、と息を上げた。顔中で脂汗をかいている。
後ろから追いついてきたハロルドがその背をさすった。
「はい、きっかり30分。よく歩きましたね」
懐中時計を取り出して、彼は笑んだ。
「どうぞ、あちらの
「軽食かな! やっとだよ!」
ぜえぜえと吐き出される息の合間の声は元気いっぱい。のしのしと王太子は歩く。
「おやおや。ご自分のことだけで精一杯になってしまいましたね」
歩き去る背中に言ってから、ハロルドがヴィオレットに向き直ってきた。
「差し支えなければ、私がご案内させていただきます」
どうぞ、とハロルドは右手を出してきた。つい、その上に左手を乗せる。
握り占めることもなく、彼は静かに手を動かした。引き締まって、熱い掌だ。
木造の
「さあ、食べよう。ハロルド謹製サンドイッチだよ」
籠を開けて、シャルルは手招く。
「ヴィオレットも、フラヴィもどうぞ!」
視線を向けると、フラヴィは静かに首を横に振った。
すこし息を詰めてから、ヴィオレットは屋根の下へ。シャルルの隣に腰を下ろすと、彼は別の籠をヴィオレットの膝の上に置いた。
「今日はちゃんと半分こにしようね」
「そうですわね。この間の焼き菓子、根に持っていますのよ」
「……もう、ヴィオレットもはっきり言うなぁ」
笑って、シャルルは自分で抱えた籠の中身を頬張りはじめた。
「今日のお茶はミントティーだ」
「たくさん歩いた後ですから、さっぱりしますね」
「ハムサンドも、くどくなくて良いなぁ。こっちの卵サンドは塩がいい感じだ」
飲み込む都度、シャルルの頬が揺れる。細められた瞳は潤んで、幸せそうだ。なるほど、この顔に食べるなとは言いにくい。
頷いて、両の手でパンを握って。
ちらりと見遣れば、
フラヴィが笑顔でそれを受け取って、食べ始める。それを見下ろすハロルドの顔は見えない。
――って、あれ?
どうしてこんなに、ハロルドが気になるのだろう。
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